Virus
「お察しの通り…妹の背中の傷は、煙草を押しつけられて出来た火傷痕です。
妹は、僕らの両親から虐待を受けて育ちました。この春、僕が妹を連れて家を出るまで…ずっと……」
真咲の煎れたコーヒーの入ったカップを手に、青年は淡々とした口調でそう語った。
接種後30分は、様子を見ることになっているから……と。
一心と真咲は半ば強引に、青年とその妹とを自宅のリビングへと招き入れた。
真咲は青年に応接セットのソファを勧める一方、妹の方は窓際に敷かれたラグへと誘導する。
ラグの上には既に一護の積み木セットが広げられており、「好きなように遊んでいいからね?」と告げつつ、真咲は飴玉を少女の手に握らせた。
恐縮する青年に、「うちでは、小さな子にはいつも、接種後のご褒美にあげているんだよ」と一心は笑いかけて。
彼の息子にもまた飴玉を握らせ、ラグの方へとその背を押し出す。
一護は困り顔で母親の顔を見上げたが、真咲もまたにこり…と笑って、視線で彼をラグに座るよう促した。
しぶしぶ…といった態で、少女から少し離れた位置に腰を下ろした一護は、飴を頬張りながらちろり…と横目に少女の様子を伺う。
一護同様に飴を口の中で転がしながら積み木をいじっている少女は、目元こそ赤いものの、もう泣いてはいなかった。
その横顔を見ながら、一護は数分前の診察室へと自分の記憶を巻き戻す。
兄に宥められて泣きやんだ少女は、いざ接種という段になったときには再び無表情に戻っていて。
針が刺さるその瞬間でさえも僅かに眉根を寄せただけで、泣くことも声を立てることもなかったのだった。
その姿に驚くと同時に、幼いながらも男としてのプライドを大いに刺激された一護は、顔をひきつらせ目を潤ませつつも、なんとか泣かずに注射を乗り切ったのだ。
少女に話しかけてみたいと、思いつつも。
泣かせてしまった手前、どうにも気まずくてたまらない一護は、ラグの模様をぼんやりと眺めながら、飴玉を口の中でころころ転がし続けていた。
「やっぱり女の子には、積み木よりもこっちの方がいいかな?」
頭上から降ってきた母の声に、顔を上げる。
一護の視線の先では、真咲が少女に熊の縫いぐるみを手渡そうとしているところで……。
咄嗟に腰を浮かせ、一護は叫んだ。
「それ、俺の…!」
その声に、縫いぐるみに腕をのばしかけていた少女の身体が、びくり…と強ばる。
真咲はゆっくりと一護を振り向くと、静かな口調で「貸しておあげなさい」と言った。
「そもそもあなた、縫いぐるみに興味なんて無いでしょう?
この縫いぐるみで遊んだことだって、一度も無いし……ケチ臭いこと、言いなさんな!」
「……ぅ…」
母の言うことは、全くもって正しかった。
その縫いぐるみは、夏祭りの縁日で引いた三角くじの景品で。
刀の玩具が本命だった一護にとっては、針の先ほどの関心も愛着も持てぬものであり、真咲が半ば仕方なく、リビングのサイドボードに飾っておいたものだったのだ。
黙ってすごすごと、ラグに座り直すよりほかない一護。
真咲は少女の腕に縫いぐるみを抱かせてやり、苦笑しながら息子の頭をひと撫ですると、そのまま二人に背を向けて一心の隣へと戻っていった。
唇を尖らせ、ふてくされた顔で、母の後ろ姿を見送って。
そんな彼の耳に届いた、至極小さな呟き声。
「………可愛い…」
反射的に背後を振り向いた一護は、少女の姿を視界に捕らえた瞬間、軽く目を見開いて固まってしまった。
細い指先で熊の鼻先をつついている…その少女の顔に、微笑みが浮かんでいたからだ。
ほんのりと紅味を帯びた、頬。
柔らかく細められた、二重瞼の大きな目。
緩く上向きに弧を描いた、形の良い唇。
まるでマネキンのようだと感じていた先刻までの印象とは、打って変わって。
生気に溢れた少女の顔、その表情は、一護の目には可愛らしさが数倍増しになって映ったのだ。
とくん…とひとつ、鼓動が高鳴る。
とくとく…と、いつもより早く動き出した心臓に戸惑いつつ、こくり…と唾を飲み下して。
口を開いては閉じ、閉じては開き…という動作を幾度か繰り返したのち、ついに一護は意を決して、少女に向かって話しかけた。
「なぁ……お前って、凄ぇな」
一護へと顔を向け、きょとん…として首を傾げる少女。
「注射だよ、注射! お前、ちっとも怖がらなかったし、泣きもしなかったじゃん!」
指を腕に突き立てるジェスチャー混じりに、先の言葉を補足して。「ほんと、凄ぇよ…」と繰り返す一護。
それに対し、少女は少し考え込むような素振りを見せてから、ぽつりと一言呟いた。
「……馴れてるから」
今度は一護が、ぎょっ…として目を見張る番だった。
馴れているとは、どういうことなのだろう?
「そんなにしょっちゅう、注射してんの?」
「注射じゃない。でも、針はよく刺された」
「誰に?! 何で?!」
「……ママ、が。ひぃが、悪い子だから……」
「悪い子…って……どういうことだよ? お前、何かしたの?」
「わかんない。でも…ママはひぃとお家に居るとき、いつも怖い顔してた」
「……お前の母ちゃんてさ、お医者さん?」
「ううん」
「じゃあ、看護師さん?」
「違う」
一護は困惑のあまり、ついに口を噤んでしまった。
無理もない。
偶に厳しく叱責されることはあっても基本大らかで優しい父親と、笑顔を絶やすことなく日々接してくれる母…そんな両親に育てられた彼には、想像のしようもなかったのだ。
我が子を心身ともに傷つけることを全く躊躇わぬ親も、この世には存在するのだ…などと言うこと、は。
「ひまわり君は……ママのこと、好き?」
黙りこくってしまった一護に対し、今度は少女の方が問いかけをしてきた。
「好きだよ」
「パパは?」
「嫌いじゃない。時々、おっかねぇけど」
「怒鳴られたり、ぶたれたり、する?」
「父ちゃんには、時々がつーん!ってされる。でもそれは、俺が誰かに迷惑かけたようなときだけかな。
母ちゃんは、全然」
「そっかぁ…」
ふた呼吸ほどの、間をあけて。
「いいなぁ…」とつぶやきながら、少女は静かに一護の顔から視線を外す。
「ひまわり君のママとパパも、ひまわり君のことを大好きなんだね」
「…まぁ、な」
「あのね……ひぃのママとパパはね、多分…ひぃのことを嫌いだったよ」
「…っ、?!」
思わず、息を呑んで。
一護は目の前の少女を、まじまじと見つめた。
「……なんで?」
「わかんない。でも…近所のおばちゃんに、言われたことがある。『こんな鬼っ子じゃあ、仕方がないかもね』って……」
その言葉に、はっ…として大きく目を見開く一護。
先刻の診察室での出来事が、彼の脳裏を過ぎっていく。
一護はそのとき、ようやく気づいたのだ。
少女が大泣きしたのは、一護に突き飛ばされて、痛い思いをしたからではなかったことに。
『鬼!! 悪魔!!!』
彼が怒りに任せて放ったその言葉にこそ、少女は深く傷ついたのだ。
「親と似てない子供のことを、“鬼子”と言うのだそうですね。
髪の色もそうですが…織姫は確かに、僕らの両親のどちらにも似ていないんです。
遠方で暮らしている伯母に言わせると、母方の曾祖母にあたる方の面影があると言うんですが、近所の人がそれを知るはずもありませんし……。
家族で町中を歩いていると、年輩の方に『この子はまた、随分な鬼っ子だねぇ』などと、よく言われました。
相手には悪気はなかったのでしょうけれど、“鬼”という言葉の強さもあって、妹は随分と傷ついたようです。
そしていつからか、両親の不仲も、自分が両親に虐待されることも、全ての否は自分にあるからだと思いこむようになりました。
自分が“鬼”だから、いけないのだ……と」
、
ぬいぐるみを抱きしめたまま、うなだれる少女。
一護は一度深く深呼吸すると、小声ながらもきっぱりとした口調で言い切った。
「鬼なんかじゃ、ねぇよ」
顔をあげ、瞬きを繰り返しながら、少女が一護を見返す。
一護は顔が赤くなるのを自覚しながらも、精一杯の気持ちを込めて言葉を続けた。
「さっきのは、俺が悪かった。
母ちゃんと父ちゃんに、言われたよ…俺があんまり注射を怖がるから、助けてくれようとしただけだ……って。
そんな奴が、鬼のわけ無ぇじゃん!」
言い切ったのち、照れくささからぷい…っとそっぽを向く一護。
その耳に届いた、「ありがとう」と告げる声。
ちろり…と横目に視線を戻せば、はにかんだ微笑みが待っていた。
その愛らしさに、一護はまたもや、鼓動をとくり…と高鳴らせてしまう。
しかし少女は再び目を伏せ、今度は「ごめんなさい」と呟いた。
「ひまわり君のママも、ひぃのママと同じだったのかな…って思っちゃったの。
ママ、お外に居るときは、ひぃと一緒に居てもニコニコしてたから…それで……」
「だーかーらっ! もう俺には、謝まらなくて良いって!」
幾分乱暴な口調で、少女の言葉を遮って。
「……それよりも、さ」
橙色の髪に手を突っ込み、ひとしきりガリガリと頭を掻いて。
やがて手を止めた一護は、躊躇いがちに口を開いた
「ひまわり君…って、俺のこと?」
その、瞬間。
息を呑んで、身体を硬直させて。
次にぼんっ!…と音がしそうな勢いで顔を赤くした少女は、あわあわと目に見えて慌てだした。
「あのっ、あのねっ! 髪の色がね、ひまわりみたいで綺麗だなぁ…って…ずっと前から、そう思ってて!! えと、その…っ、」
「ずっと…って……お前、俺のこと前から知ってたの? もしかして、母ちゃんのことも?」
「あ、あああああああのねっ、えっとね……」
ますます顔を赤くしながら少女が説明するに、は。
保育園の園庭で遊んでいるときに、柵の向こう側の道路を、一護と母親が連れだって歩いている姿をよく見かけたのだ…という。
そう言えば…と。
幼稚園へと通う道の途中に、庭に遊具のある建物があったことを、一護は思い出していた。
週に二度ほど、一護はオプション授業の英会話教室に参加していて、降園が夕方四時近くになることがあって。そのとき確かに、園庭を駆け回る多くの子供達の姿を目にしている。
ただし、その中に目の前の少女が居たかどうかなんてことには、生憎さっぱり、覚えがなかった。
そもそも最近は、一護が通りかかる時間の園庭に人影など無いのだ。
建物の中からは、賑やかな声が聞こえてくるけれど……。
「今は寒くて、お昼寝の後に外遊びしなくなっちゃったから。でもまた春になったら、外でたくさん遊ぼうね…って先生が」
「ふぅん」
「あの…もし今度ひまわり君とママを見かけたら、声をかけても良い? …あ、ひまわり君じゃなくて……え、と…」
うろうろと視線をさまよわせる少女を、正面から見て。
一護はゆっくりと、自分の名前を口にした。
「いちご、だよ。くろさき、いちご…って言うんだ」
「苺…くん?」
「ちげぇよ! それ、果物だろう?! あのさ…お前、漢字って知ってる?」
「お兄ちゃんたちみたいな大人の人が使う、ごちゃごちゃした難しい字のことでしょう?」
「そう。俺もまだ読んだり書いたり出来ねぇけど…その字を使って書くと、『ひとつを、護る』って意味になるんだって」
「『ひとつを、護る』……だから、『一護』くん…」
噛みしめるように、呟いて。
それから少女は、「かっこいい名前だね!」と言って、柔らかく目を細めた。
いくら名前の由来を説明しても、幼稚園でのクラスメイトなどには「苺ちゃん」と囃し立てられたり、「変な名前」と言われることが殆どである一護は、その言葉に体が宙にふわりと舞い上がるような感覚に襲われた。
『……かっこいい、だって…!』
嬉しさと照れくささから、もにょもにょと変な動きをしてしまう口元。
そんな自分の顔を見られたくなくて、遠くにある積み木をとる振りをして少女に背を向けながら、今度は一護が少女の名を尋ねた。
「おりひめ。でも、保育園のお友達はみんな『ひぃちゃん』って呼ぶ」
「ふぅん…」
確かに、ちょっと言い辛そうな名前だもんな……と、幼心に一護は納得して。
それでも『綺麗な名前なのに縮めちゃうなんて、なんだか勿体ないな』なんてことも思いながら、ちらり…とソファへと視線を向ける。
そこに腰掛け、両親と談笑している黒髪の青年。
彼が妹である織姫の名を口にするとき、その響きはとても優しく穏やかだったことを一護は思い返していた。
母が織姫に「あなた思いの、優しくて素敵なお兄さんね」と声をかけたとき、彼女が誇らしげな微笑みを浮かべ、瞳を輝かせたことも。
「なぁ…ひぃの兄ちゃんて、優しい?」
積み木を組み上げながら、一護が尋ねれば。
織姫は満面の笑みを浮かべて、頷いた。
「すごく、優しいよぉ! ひぃ、お兄ちゃんのこと、大好きなんだぁ」
「強い?」
「うーん…強いかどうかはわからないけど、でも、何があっても絶対に、ひぃのこと護ってくれるよ…きっと!」
「そっか…」
「うん!」
一護はちょっとの間、考え込んで。
手に持った積み木に視線を落としながら、つぶやいた。
「……俺も、もうすぐ兄ちゃんになるんだ」
「うん」
「妹か弟か、未だわからねぇけど…でも、俺もひぃの兄ちゃんみたいに『大好き』って言われるようになりたい。
何があっても、護ってやれるような男になりたい」
「うん…」
そろり、と。
前髪の隙間から、織姫の顔を伺う一護。
目の前の少女は、満開の花のようににっこりと微笑んで。
そして、力を強く頷いてみせた。
「きっとなれるよ、一護君なら……!」
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