Virus
「熱は無し、と。うん…恐らく接種して問題ないだろうけど、念のために簡単な診察はしておこうかな?」
「はい、お願いします」
「それじゃお嬢ちゃん、お口をあーんしてもらっていいかな?」
一心の言葉に、兄の膝に抱かれた少女は素直に大きく口を開けた。
「うん、腫れてないな。次はぽんぽんの音を聞かせてもらうよ。お兄さん、妹さんの服の裾をまくって貰ってもいいかい?」
「はい」
子供らしいふっくりとまるい腹に一通り聴診器を当てた後、一心は青年に、背中側からも診させてくれと頼んだ。
膝の上の妹の身体を反転させ、背中側の衣服をまくり上げる青年。
チェストピースを手に少女の背へと腕をのばした一心は、しかしながらその肌に触れる寸前になって、ぎくり…と身体を強ばらせた。
無言で顔を上げ、青年の瞳を真正面から見つめる。
青年は何も言わぬまま、困ったように小さく微笑むと、腕の中の妹へと視線を落とし、そっと胡桃色の髪を撫でた。
一心もまた、無言で診察を再開する。
「よし、異常なし! 文句なしの健康体だね、お嬢ちゃん!!」
にぱっ…と、満面の笑顔で診断を下して。
一心は少女の頭の上にその厳つい手を乗せると、くしゃり…と頭髪をかき回した。
「お兄さん…よく、頑張ってるね」
一心の言葉に一瞬大きく目を見開いた後、ゆっくりと目を細めつつ、どこか誇らしげな笑みを浮かべる青年。
つられて、一心もまた微笑みを浮かべた……その、直後。
診察室と自宅の境の扉の向こうから響いてきたのは、幼児特有の甲高い声。
「やだやだっ、かーちゃん、やだよぅっ! やだったら、やぁだぁぁああああっ!!!」
目のあたりを手で覆いつつ、一心は大きく息を吐き出した。
息子を必死に宥める真咲の声が、わめき声の合間に聞こえてくる。
一心は椅子から立ち上がりながら「ちょっと、失礼」と青年に軽く頭を下げると、ドアへと向かって大股に歩いていった。
そして、いまにもドアノブを掴まんとしたとき、それよりも一瞬早く開いたドアの向こう側から、何かが弾丸のような勢いで飛び込んできた。
「うおっ、?!」
思わずたたらを踏んだ一心の足下をすり抜けるようにして、診察室を横切り、待合室へと逃げ込む小さな影。
続いて診察室内へと駆け込んできた真咲もまた、待合室へと向かって行く。
「待って、一護…っ!」
その栗色の髪が翻る後ろ姿に、一心が慌てて声を掛けた。
「莫迦、走るな真咲っ! 転んだらどうするんだ!!」
待合室から「大丈夫よ!」という声が聞こえたとほぼ同時に、「うわぁぁんっ!」と一際派手な泣き声が上がった。
おそらくは真咲が、幼い息子を捕まえることに成功したのだろう。
やがて真咲に肩を押されるようにして、橙色の髪をした男の子…二人の息子である一護が、診察室内に入ってきた。
「やだやだ、俺、死んじゃうーっ!!!」
「大丈夫よ、一護! お注射しないで病気にかかるほうがよっぽど苦しいし、危ないんだから!」
苦笑しつつも、真咲の手はしっかりと一護の肩を掴んでいて。
彼がどんなに足に力を入れて踏ん張っても、その小さな身体は真咲によってどんどん診察室の中央へと押し込まれていく。
一心はふぅ…とひとつ息を吐き出すと、真咲に加勢すべく二人へと近寄っていった。
「いい加減にしろ、一護!」
暴れる息子を一括し、その腕をむんずと掴む。
……当に、その瞬間だった。
「おりひめっ?!」
青年の発した、焦りを多分に含んだ声が部屋に響いて。
一心が反射的に背後を振り返った直後、彼の腕に強烈な痛みが走った。
「…痛っ?!」
「あ、あなたっ?!」
思いきり顔をしかめ、視線を自分の腕へと向けた一心の瞳に写ったのは、胡桃色のふわふわの猫っ毛。
青年に抱かれていた筈の少女が、彼の腕に噛みつき、ぎりぎりと歯を立てていたのだ。
「……嬢ちゃん?」
痛みも忘れて、茫然と呟く一心。
その視線の先でひらり…と身を翻した少女は、今度は一護と真咲の脇へと素早く回り込むと、その勢いのままに真咲に体当たりをした。
「きゃ…っ?!」
「真咲っ!!」
ぐらり…と大きく傾いだ妻の身体に向かって、一心はめいっぱい腕を伸ばす。
どうにか妻の身体を抱え込めたものの、バランスを大きく崩した一心は、そのままどさり…と床に尻餅を付いた。
「痛ててて……だ、大丈夫か、真咲っ…?!」
「ええ…あなたがクッションになってくれたから、私はなんとも……」
妻の言葉に、取りあえず安堵の溜息を吐いて。
ゆっくりと顔を上げた一心の瞳に写ったのは、一護をその背に庇うようにして手を広げ、仁王立ちしている少女の姿だった。
凛として美しくも、あまりにも幼児らしからぬその表情に、思わず息を呑む。
しかし、その直後。
「お前っ…俺の母ちゃんに、何てことするんだ!!」
怒りに満ちた声が室内に響くと同時に、少女の小さな身体が横に吹っ飛んだ。
声の主…一護が、少女の身体を力任せに突き飛ばしたのだ。
「おりひめ…っ!!」
慌てて駆け寄り、妹を抱き起こす青年。
その腕の中で、少女は声一つ立てず、無表情のまま一護の顔を見上げた。
真っ直ぐな視線が、一護を射抜く。
それを自分に対する無言の非難と受け取ったのか、一護は顔をますます紅潮させ、語気荒く少女に言い募った。
「母ちゃんのお腹ん中には、赤ちゃんがいるんだぞ! 何かあったらどうするんだよ!!」
「一護、もうやめなさい!」
一心の腕の中で、真咲が叫ぶ。
彼女がこのように強い口調で…しかも命令形で息子にものを言うなど、滅多に無いことだった。
だからこそ、一心は確信した。
妻もまた、自分同様に気づいたのだ……と。
少女が自分たち二人に対してとった行動は、決して悪意から出たものではないことに。
この幼く小さな女の子、は。
ただ単に、一護を護りたかっただけなのだ。
しかし肝心な一護本人には、それが解らなかった。
大好きな母親を、危険な目に遭わされた…その事実だけが、幼い彼の思考の全てを占めてしまっていたのだ。
故に、母親の制止の声は耳に入らず、一護は尚も少女に怒りをぶつけ続けた。
「最低だ、お前! 鬼!! 悪魔!!!」
その言葉を聞いた、瞬間。
黒崎家を訪れてからずっと、表情を殆ど変えることのなかった少女の顔が、さぁっ…という音が聞こえそうな勢いで青ざめていくのを、一心は驚きと共に見ていた。
大きく見開かれた黒目がちの目の縁に、みるみるうちに涙が盛り上がっていく。
くしゃり…と、悲しげに歪む少女の顔。
皮肉なことにそれは、一心がこの日目にしたなかで、最も幼児らしさを感じるものだった。
「……ぅ…ぁ…ぁぁああああああああああああああっ……!!!」
診察室に響き渡った、言葉を成さない少女の叫び声。
その声の持つあまりの悲痛さに、真咲は思わず一心の白衣の胸元をぎゅっ…と掴んだ。
一心もまた妻の肩を抱く強くしながら、己の背に冷たいものが伝っていくのを自覚する。
『…ああ……この子は、おそらく………』
一心の脳裏に過ぎっていったのは、漢字二文字の悲しい単語。
心に沸き上がるやり切れなさに、一心は我知らず奥歯を噛みしめていた。
少女はしばらくの間、兄の胸元に縋って激しく泣き続けて……。
その光景を、一護はぽかん…と口を開けたまま、ただただ呆気にとられて眺めていたのだった。
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