Virus
「では青木さん、前回と同じ血圧のお薬、出しておきますからね」
「はい、先生。いつもすみませんねぇ」
「いえいえ、これが仕事ですから」
診察室。
一心の向かいの椅子から、老婦人が立ち上がる。年の頃は60代半ばといったところか。
その「青木さん」と呼ばれた女性は、傍らのワゴンに置かれた自分の荷物へと手を伸ばしつつ、「…ねぇ先生?」と一心に声をかけてきた。
「ちょっとお訊ねしたいことがあるのだけど」
「はい、なんでしょう?」
『青木 美桜里(あおき みおり)』と書かれたカルテから視線を上げ、軽く眉根を寄せながら、相手の顔を見返す一心。
美桜里は上着に袖を通しながら、次の土曜日に、幼児のインフルエンザの予防接種の予約を出来るか…と訊いてきた。
「孫じゃなくて、近所に住んでいる赤の他人の子なんだけど…」
「接種時には、ちゃんと保護者の方が付き添ってくださるんですよね?」
「ええ」
「なら、問題ないですよ!」
「よかった…! じゃあ、お願いしたいの。四歳の可愛い女の子よ。名前は…」
「あ、ちょっと待ってください! 真咲、予約表!」
「はぁい!」
明るく答える声がして、受付との境の扉が開く。
そして栗色の髪を緩くまとめた女性が、ファイルを片手に診察室へと入室してきた。
「こんにちは、美桜里さん! 旦那様、その後いかがですか?」
「こんにちは、真咲さん。夫はもうすっかり元気よ! その節はお世話になりました。
真咲さんの方は…その様子だと、悪阻の時期はもう過ぎたのかしら」
「はい! また何でも美味しく食べられるようになったのは良いのですけれど、体重を増やしすぎないようにするのが大変で…」
美桜里に向かって苦笑しながら、真咲は一心にファイルを手渡した。
「どうぞ、あなた」
「ありがとさん! では青木さん、そのお子さんのお名前をお願いできますか?」
「はい。ええと…あら、名字は何だったかしらね…二人ともいつも名前で呼ばせて貰ってるから、ど忘れしちゃったわ。
年寄りはこれだから、嫌ねぇ…」
渋面をつくりながら、顎に指を当てて考え込むこと数秒。
ぱっ…と顔を輝かせながら美桜里が口にした名前に、一心と真咲は思わず顔を見合わせた。
「……珍しい名前、ですね」
「そうねぇ。私も初めて聞いた時には、ちょっと吃驚したけど…。
でも、本当に可愛い子でねぇ。
大きくなったらきっと、名前通りの綺麗な子になると思うのよ」
まるで実の孫を自慢するかのように、相好を崩す美桜里。
その様子に、一心もまた口元を綻ばせた。
美桜里には息子しか居らず、孫もまた男児ばかりだと聞いている。
しかも息子たちは就職で配属された遠方の地でそれぞれに伴侶を見つけてしまい、美桜里の元へと訪れることは滅多に無いのだと、かつて愚痴をこぼされたことを覚えていた。
そんな美桜里にとって近所に住まう幼女の存在は、彼女に疑似祖母体験をさせてくれる私的アイドルといったところなのだろう。
「……ねぇ、あなた?」
「お、おうっ?!」
真咲にそっと肩を叩かれて。
思考の淵へと沈み掛けていた一心は、慌てて隣に立つ妻を振り仰いだ。
「どうした、真咲」
「うん、ちょっと…提案があるのだけど……」
「ん?」
「あのね、最近土曜日の午前中は、風邪を引いた会社員の方が多くいらして、結構混み合うでしょう?
当然、待合室の空気も良くないし…小さな子じゃ長時間順番を待つのも辛いだろうし、風邪予防のどころか、寧ろ貰い風邪を引かせてしまいそうで心配なの。
だから、医院が閉まってから…午後の3時くらいに来て貰うのはどうかしらね?
勿論あまり大っぴらには出来ないことだから、自宅の玄関の方から入って貰って、こっそり……」
「ふぅむ…」
「一護にもそろそろ打たないと…と思っていたし。どうせなら、一緒に」
「……そうだな。じゃあ、そうするか!」
視線を交わして、微笑みあって。
そして美桜里へと視線を戻した一心は、彼女に予防接種希望者への伝言を頼んだ。
都合さえよければ、午後3時頃に自宅玄関に来て欲しい……と。
「多分、その時間でも大丈夫だと思います」
お気遣い、ありがとうございます……と。
笑顔で伝言を引き受け、美桜里は診察室から出て行った。
かくて、数日後の土曜日。
午後3時きっかりに鳴らされた呼び鈴に一心が玄関のドアを開ければ、門の向こう側に、幼い女の子を腕に抱いた青年が立っていた。
「あの……青木さんのご紹介で参りました、井上です」
本日はよろしくお願いします…と、腰を折る青年。
その腕の中で、ぺこり…と愛らしく頭を下げてみせた少女の顔を交互に見ながら、一心は笑顔で二人を玄関内へと招き入れた。
お邪魔します…と。
ドアを押さえる一心の脇を通り抜ける、青年と少女。
美桜里から19歳だと聞いていた青年は、未だ「少年」の成分をその容姿に多分に含んでいた。
ただし身に纏う雰囲気や表情からは、随分と大人びた印象を受ける。
そのギャップの大きさに、一心は軽く眉根を顰めた。
……色々と複雑な事情があるらしくてね。兄妹二人きりでアパート暮らしをしているのよ。
美桜里が代理で予防接種の予約をして帰った、翌々日。
先方が午後3時の来院を承諾した旨の返事を、彼女は飼い犬の散歩ついでに医院に立ち寄って伝えてくれた。
その際に、瞳を暗く翳らせながら彼女が呟いた言葉が、一心の脳裏を過ぎっていく。
三和土に屈み込み、妹の靴を脱がせてやっている青年の衣服は、一目で清潔であると判断出来るものの、そこかしこに擦れや毛玉が見受けられて。
翻って妹はといえば、一心や真咲も一護のために利用する格安子供服店のものではあったけれど、被っていた帽子から靴下まで、そのどれもが比較的新しさを感じさせるものばかりであった。
方や、ほぼ成長が止まった年頃の青年。
方や、成長著しい幼児。
その違いもあるのだろうが、何事においても妹優先…そんな彼の日々の生活の一端が見て取れる。
そもそも、インフルエンザの予防接種に連れてくること自体に、感心しきりな一心だった。
近頃では、役所が小児の医療費が無料となる証明書を発行していることもあり、有料の予防接種については「無駄な出費」と考える親も少なくないからだ。
……未だ未だ、遊びだなんだと自分自身にお金を使いたい年頃だろうに。
一心は二人に気づかれぬよう、ひそり…と溜息を漏らした。
青年の瞳や身にまとう空気には、暗さやヒネたところは微塵もない。
ただただ、妹への愛しさばかりが溢れている。
そのことに心を暖かくしつつも、何とも形容のし難いやり切れなさを感じずにはいられなかったのだった。
「あら、いらしてたのね?」
居間から出てきた真咲が、にこやかに声を掛けてきた。
はっ…と我に返った一心の隣で、青年もまた慌てたように頭を下げる。
「本日は色々とお気遣いくださり、本当にありがとうございます」
恐縮しきりな青年を安心させるかのように、明るく穏やかな笑顔で首を横にして。
次に一心へと向き直った真咲は、二階から一護を連れてくる…と言った。
「少し前から姿が見えないと思ったら、どうも部屋の押入の奥に隠れているようよ」
くすくす…と笑いながら、夫の脇をすり抜けて階段へと向かう真咲。
それを見送る一心の耳に、至極小さな声が届いた。
「…………ひまわり君の、ママ…」
え?……と。
思わず、声の主である少女を振り返る。
じっ…と階段を登る真咲の後ろ姿を見つめていた彼女は、しかしながら一心の視線を感じると同時に、慌てて彼に背を向け、傍らの兄に縋り付いた。
「うわっ…! どうした、織姫?」
青年は、自分や妹の靴をそろえ直したり、上着を畳んだりすることに集中していたらしく、妹の呟きには気づかなかったようだ。
優しい微笑みを浮かべて、宥めるように頭を撫でてやっている。
その、青年の掌の下。
少女の顔を縁取る柔らかそうな髪は、綺麗な胡桃色をしていた。
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