銀河通信



駅から自宅まで、夜道を駆けて。
アパートの階段を、一段抜かしで駆けあがる。
自室の扉の前に立ち……そして彼は
あれ?と首を傾げる。

 
いつもならこのタイミングで、扉が開くはずなのに。


窓からは明かりが漏れている。
だから、彼女はきっと中にいる筈で。

鍵を差し込み、回す。
そっとドアをあけて体を滑り込ませて。

木枯らしの吹く夜の街から帰ってきた体に
程良く効いた暖房が心地よい。
 
見下ろす足下、玄関のたたきには
きちんと揃えて置かれた彼女の靴。


……やっぱり、来てるんだ。


軽く踊る、心。
でも。

それなら何故、彼女はいつものように
迎えに走り出てこないんだろう?


守れなかった、約束。

本当はもっと早い時間に駅前で待ち合わせして
一緒にご飯を食べに行く筈だった。
携帯にで詫びを入れたときには、笑って
「気にしないで」と言ってくれた彼女だったけど。


……やっぱり、怒っているのだろうか?

 
足音を忍ばせて台所を抜け、部屋の戸を開く。
そっと中を覗き見て。
さまよう視線が、窓際のベッドの上で止まる。


「………居た」


そっと、ベッドに近づいて。
見下ろす視線の先に、愛しい愛しい彼女の姿。
 
少し体を丸め気味に、布団にくるまって。
実に幸せそうにすやすやと。
安らかな寝息を立てて眠る、胡桃色の髪の彼の恋人。


「井上……?」


そっと呼びかけた彼の声に、反応はない。

静かに、ベッド脇の床に腰を降ろす。
ベッドの端に腕を乗せ、その腕に顎を乗せ
彼女の寝顔を眺めて。

軽く握った両の手を、彼女は口元近くに置いており。
「……冬眠中のヤマネみたいだな。」
高校の頃、織姫と一緒に眺めた写真集の 
しっぽを抱き込んで眠る小さな生き物の姿を思い出して
くすり……と一護は小さく笑う。


そっと手を伸ばし、彼女の美しい髪を一房
彼はその手に掬いとる。
さらりとそれは、手の平にこぼれて。
その、艶やかですべらかな感触を味わいながら。

「無理、したのかな……」

ぽつりと呟く。


短大を出て、幼稚園の先生になった彼女。
「二学期は行事続きで、楽しいけれども大変なの」
秋から冬に移り変わる時期がくると
電話の向こうから聞こえる声に、時折苦笑が混じる。

特に12月に入ってからは
クリスマス会の準備に徹夜も辞さない日があること
行事が済んで園児が冬休みに入っても
次の学期を迎える準備が、いろいろと山積みらしく。

だから彼女はこの時期いつも
ちょっとばかり無理をしてしまう……らしい。
彼と過ごす時間を、少しでも長く捻出しようとして。
 

「よっぽど疲れが貯まってんだろうな……」

 
おそらく、僅かな間のつもりで横になって。
彼が帰る頃には、彼女はちゃんと起きているつもりで。
それが、予想外に深い眠りに落ちてしまって……。 
そんな様子が、部屋と彼女の状態から伺える。


「ごめんな…帰ってこれなくて………」


長引いて、夜遅くまでかかってしまった実習は
単位を取るためには外すことのできないもので。
放り出してしまうことは、おそらくとても簡単だけど
そんな自分を、望む彼女ではないから……。

卒業まで、残り1年半。
再来年の春になったら、必ずあの街に帰るから……。
君の側に帰るから……。
だから。


「もう少しだけ、待っててくれよ?」

 
そっと呟いた、そのとき。
微かに彼女が身じろぎをして。
頬に影を落としていた、長い長い睫が揺れて。
ゆっくりと瞼が持ち上がる。
色素の薄い瞳が、ぼんやりと彼をみつめて……。

やがて焦点が結ばれて。
一瞬きょとんとした顔をして。
数回瞬きを繰り返して。
それから。
彼女は、ふんわり柔らかく微笑んだ。
 

「おかえりなさい、黒崎君」


彼女の声が、一護の耳に甘く優しく響く。  
どきり……と跳ねる、鼓動。
微かに上気する、頬。
暴れる心臓の手綱を必死に取って。
「ただいま……」
やっとの思いで、微笑みを返す。

そのまま、ゆっくり彼女に顔を近づけて
そっと、唇を重ねて……。
 
近寄る時と同じくらいゆっくりと顔を離していくと
さっきよりも、もっと優しく深い微笑みを湛えながら
彼を見返す織姫が居て。

愛しさを押さえきれず、彼はそっと彼女に囁いた。


「隣、いいか……?」


わずかに見開いた目を幾度が瞬いた後で、織姫は。
声を立てずに笑いながら、掛け布団の端を持ち上げる。
 
彼女が作ってくれた隙間に、するりと体を滑り込ませ
華奢なその体に、己が腕を回して。

そっと自分の方へと、たおやかな肢体を引き寄せれば
びくん……と微かに強ばる彼女の体。
ためらいがちに、ぎこちなく彼に身を預けながら
彼の肩に額を押し当て、もじもじと俯いてしまうのは
つきあい始めた頃からずっと変わらぬ、彼女の癖。

二人で過ごした夜、二人で迎えた朝の数は
今ではもう、二人の持つ指全てを足しても足りない程。
それだけの月日を重ねても尚、彼女にとっては
彼の腕に包まれるその瞬間は、緊張して動悸がして
「何だかもの凄く照れちゃうんだもん」だそうで。

そんな彼女のことが、可笑しくて、可愛いくて。
そして、とてもとても愛しくて。
 
一層強く、一護は織姫をその腕の中に抱きしめる。

そっと仰向かせ、その額に、瞼に、柔らかな頬に
優しく口づけを落としていって。
 
逢いたかった……と、微かに掠れて届いた呟きに
言葉では答えぬ代わりに、その唇を塞いで。

愛してる……。
どちらともなく囁く声が、ゆるりと夜気に溶けていく。
 
 



街中が、すっかり寝静まったその時間。
恋人たちの聖夜は、まだまだ始まったばかり……。 
 
 
 
 
終 
 
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