My little step
出欠確認や諸連絡が済んで。
授業が始まるまでの、ほんの僅かな雑談タイム。
後ろの席の奴は洋楽の趣味が合うので、新譜の話などで盛り上がっていたら。
越智さんが、大きな声で井上を呼んだ。
思わずちらりと視線を向けた先で、彼女が慌てたように席を立つのが見えて。
教壇に向かって進んでくる様子に、嫌な予感を覚えた途端……。
「きゃあっ?!」
案の定、机の脚に蹴躓き、膝から床に崩れた。
……ドジというか何というか。
毎日必ずと言って良いほど、彼女は何処かで転けている。
いつか大怪我でもするんじゃないか……って、時々本気で不安になる程だ。
大丈夫かよ、またどこかに痣でも作ったんじゃねーの……?
そんな事を思った直後、すっと立ち上がった人影。
このくそ暑いのに詰め襟のホックまでびしっと留めたそいつ……石…なんだっけ?……が、彼女が立ち上がるのに手を貸す様子を見て、僅かに『ちりっ』と心臓に痛み。
………もうちょっと手前に来てから転べば、俺が手を貸してやれたのに。
ふと浮かんだそんな思い、に。
自分自身で驚いて、軽く頭を振った。
……そうじゃないだろ、俺。
本当に彼女が心配なら、そもそも最初から転ばない事をこそ、祈ってやれなくちゃ駄目だろーが。
心の中ではどっぷりと自己嫌悪に陥りながら、表面上は何事も無かったように装って、洋楽絡みの会話を周囲と続ける。
俺の席の脇を通り過ぎる井上を、振り返りたくなるのを必死で堪えながら。
やがて、再びこちらに近づいてくる足音。
彼女が自分の席に戻ろうとしているのだ……と、知る。
一瞬、声を掛けようかと迷って。
即座にその考えを打ち消したのは、やっぱり周囲の奴らの目が気になったから。
変にからかわれたりするのも、それが原因でこれ以上気まずくなるのも御免だった。
だのに………。
俺の席の前で、止まる足音。
どくん……と、鼓動が跳ねる。
気づかぬ振りをして視線すら向けない俺の顔と、おそらくは井上の顔とを、後ろの席の奴が興味深そうな表情で交互にみやっていた。
「……………あ、の…」
降ってきた声は、少し上擦っていて。
彼女が恐ろしく緊張しているであろう事が、嫌でもわかる。
平静を装いつつ、ゆっくりと振り仰いだその顔は、予想通りがっちがちに強ばっていて……。
あの、未だ硬かった桜のつぼみの下で見せてくれた、日溜まりのような、そよ風のような…そんな柔らかさは欠片も無い。
「………何?」
一体全体、何だってんだよ………。
彼女の意図がさっぱりわからない苛立ちに、思わず眉間の皺を増やしてしまったら。
彼女はますます顔をひきつらせて、そのまま視線を床に落としてしまった。
……やべ…怖がらせたか………?
内心酷く動揺しつつ、目の前で俯く彼女を見守っていたら。
おずおずと躊躇いがちに、彼女の片腕が俺に向かって伸ばされて。
微かに震える指が、俺の首元を指し示す。
そして。
「……………………ボタン、が」
桜色の唇からこぼれた、小さな小さなつぶやき声。
「えっ?!」
慌ててシャツの胸元を引っ張る。
目に入ったシャツの状態に、思わず声をあげた。
「う、わっ?! 何だこれ、みっともねぇっ!!」
ボタンが…段違いになってるじゃねぇかっ?!
慌てて、留め直す。
かあっ……と、体が熱くなる。
特に、顔。
きっと今…俺、耳まで真っ赤だ………。
「何やってんだよ、黒崎~っ!」
げらげらと笑い出す周囲の奴らに「……るせっ!」と叫んで一瞥くれて。
ふと感じた空気が動く気配に顔をあげたら、井上がくるりと向きを変えて、自分の席へと戻ろうとしているところだった。
待てよ……!
俺…未だ、礼も言ってねぇのに………。
慌てて、席から腰を浮かす。
周りの奴らの視線とか、そんなのはもう、どうでも良かった。
目に映っているのは、俺から離れていく彼女の、赤く染まった耳。
……なあ、井上。
あの一言に、どれだけの勇気を振り絞ってくれたんだ……?
みっともないシャツの状態見られて、死ぬほど恥ずかしいけれど。
穴掘って、潜っていたいくらいだけど。
それでも。
「……井上っ!」
足を止めた彼女が、慌てたように振り返る。
ふわりと翻る、胡桃色の髪。
戸惑ったように瞬きを繰り返す、綺麗な薄茶色の瞳。
頬は未だ、幾分上気気味で。
桜色に染まった頬と、僅かに小首を傾げる仕草に、無駄に可愛いさ倍増………て、何考えてんだ俺?!
今はそれどころじゃねーだろうがっ!
重なる視線に緊張を覚えながら、ごくりと唾を飲み込んで。
「………その……サンキュ、な?」
ばりばりと頭髪を掻きながら、そう告げたら。
ふっ……と。
彼女の口元に、小さな微笑み。
ふるふると、横に振られる首。
ワンテンポ遅れて揺れる髪が、窓から差し込む日差しを弾いてきらきらと光る。
顔を上げて。
もう一度、俺を見返して。
ふわり………と。
花が綻ぶように、彼女は微笑んだ。
その表情に、きゅう…と心臓を握られたような痛みが胸に走って。
息が、止まる。
その俺の視線の先で、踵を返した彼女が席へと戻っていく。
慌てて、俺も席に着いて。
早鐘のように鳴る心臓に自分自身で戸惑いながら、机の中に手を突っ込んだ。
探り当てた下敷きを引っ張りだし、あちぃ…と口の中で呟きつつ、ぱたぱたと顔を扇ぐ。
その、俺の起こした風のおこぼれにあずかった後ろの席の奴が、「うほ、涼しい……」と目を細めた。
「今日、30度近くまで上がるってよ」
「マジ?」
げんなりとした表情を浮かべつつ。
季節先取りでギラつく太陽に、心の中で密かに感謝する。
顔が赤くなった原因を、転嫁してしまえるから……。
朝の事をきっかけに、もう少し井上と話せたら……と思ったけれど。
人生、そんなに甘くは無いもので。
今日に限って、休み時間になっても授業終わらせない教師はいるわ、移動教室は多いわ、昼休みには井上所属の保健委員会があるわ……。
なにやらばたばたと落ち着かず、話しかけるどころじゃなかった。
そして、放課後。
どうやら、今日は手芸部の活動は無いらしい。
いつも一緒に部室へと出かけていくおかっぱ頭の女子や、メガネ男とは教室内で別れを告げあって、井上は早々に教室を出て行った。
慌てて後を追おうと鞄を手にした俺の肩を、背後から誰かががしりと掴む。
「黒崎、お前、何も部活やってなかったよな?」
振り返った視線の先、にたりと笑ったのは担任の越智さん。
「ちょーっとこれから、仕事手伝ってくれんか?」
「何で、俺が……」
抗議しかけた俺の胸ぐらを掴み、ぐいっと引っ張って。
彼女が耳元で囁くには。
「この間の体育館裏の一件、生徒指導主任にタレ込まれたい?
処分としては、まぁ…保護者呼び出しの上、軽く停学一週間てとこかなぁ?」
「……………喜んでお手伝いさせていただきます」
そんなこんな、で。
印刷室で拘束される事、約一時間。
やっと越智さんから解放された俺は、陽がすっかり傾いてオレンジ色の夕日が差し込む廊下を、独りぶらぶらと昇降口へと向かった。
自分のクラスの下足箱へと差し掛かって。
人の居る気配に顔を上げたら……。
「……あ…れ……井上?」
「黒崎君っ……?!」
ローファーを手にした井上が、大きな瞳を一層大きく見張って俺を見返していた。
「今、帰りか? 帰りのショートから、結構経ってんじゃん。部活は無かったんだろ?」
口に出してから、しまった……!と内心で焦った。
ただのクラスメイトの放課後の予定知ってるなんて…一歩間違えたらストーカーじみてて気色悪ぃじゃねぇか。
しかし井上は、そこには全く気を留めなかったようで。
事務室で用を済ませている時に養護教諭の先生に捕まって、手伝いをさせられていたのだと説明してくれた。
こんな時ばかりは、井上の天然ぶりが非常に有り難いと思う。
逆に、俺こそどうしたのだと尋ね返されて。
越智さんに弱み握られて手伝いをさせられていたのだと答えたら、声を立てて笑われた。
俺も思わず、苦笑して。
心の中、密かに安堵のため息を吐く。
まだまだ彼女に、ぎこちなさは残っているけれど。
うん……大分、以前のペースが戻ってきた………ような気がする。
「そういやぁ、よ」
上履きを脱いで、それを下足箱に突っ込みながら、
「……今朝は、ありがとな?」
改めて俺は、ボタンの掛け違いを教えてくれた礼を彼女に言った。
井上もまた、大したことじゃないと言いながら、その細い首をゆっくりと横に振る。
さらさらと音を立てる胡桃色の髪から、微かに甘い香りがした。
なんとなく…そのまま流れで、二人肩を並べて絨毯の上を移動して。
たたきで同時に、靴を履く。
こんっ……と、つま先をコンクリートに打ち付けて。
その、瞬間。
心に膨れ上がったのは、ここで彼女と別れてしまう事を、淋しいと感じる気持ち。
もう、少し。
あと、ほんの少しでいいから………。
隣に、居たい。
側に、居て欲しい………。
「あの……さ…」
躊躇いがちに、声をかける。
視線を向ける勇気までは出せず、そっぽを向いたまま。
「………なぁに?」
「真っ直ぐ、帰んの?」
尋ねながら、鞄の取っ手をぐっと握る。
鞄の中には、図書館から借りた本が入っていた。
遊子にラッキーアイテムと言われて、出がけに突っ込んだ本が………。
もしも彼女が、自宅に直行するなら。
線路向こうの彼女のアパートまで、図書館に行くついでだから……と、不自然で無く送っていける筈だ。
そんな事を考えていた、俺の耳に届いたのは。
「……あ、えと…これから市の図書館に行く予定なの。予約本が入ったって、連絡貰ったから……」
どくん……と、心臓が高鳴った。
なぁ……これ一体、何の偶然?
どんなシンクロ?
神の仕業が、悪魔の悪戯か。
まぁ、でも…そんな事はどうだっていいさ。
「へぇ……奇遇、だな」
ゆっくりと井上を振り返ると、彼女はきょとんとした顔をして、俺の顔を見返した。
「俺も、そこに寄るつもりだったんだ。昨日呼んだ本の続きが、どうしても読みたくて……さ」
「そ……なの?」
「ああ……」
俺は小さく頷いて。
ますます、彼女の目が丸くなる。
「実は、寝坊した一番の原因は、これ」
ぽんっと、鞄を叩いて。
「つい夢中で読みふけっちまってさ……。気がついたら2時回ってたんだ」
肩を竦め、ちろりと舌を出す。
すると井上は、見開いていた目をゆっくりと柔らかく細めて。
くすり……と、小さく笑った。
その、笑顔。
小首を僅かに傾げる、仕草。
呼吸の、タイミング。
………ああ、やっぱりいいな………と。
俺は心の中で呟く。
何で、かな……。
井上の側に居ると、自然に肩から力が抜ける。
知らず、呼吸が深くなる。
そう……彼女からは、風が吹いてくるんだ。
そっと頬を撫でるような。
前髪を、軽くなぶるような。
やわらかくて、優くて。
そして…どこか懐かしくて。
そんな、心地の良い風が………。
口の端に、微かに上る笑み。
「なあ……もし、嫌じゃなかったら…だけど……」
言いながら、一歩踏み出す。
肩越しに井上を振り返って。
「一緒に、行かね?」
にっ……と、笑った。
ぽ……と、朱が挿す彼女の頬。
まん丸に見開かれた、薄茶の瞳。
確信。
きっと彼女は、断らない。
「…………行く!」
ほら、な?
こっくりと、幼い子供のように頷く彼女の仕草が可笑しくて。
俺は思わず、破顔した。
さて……図書館までの往復。
道すがら、どんな話をしようか?
まぁ別に、他愛の無い事でいいんだろうけどさ。
でも、それでもし。
これまでギクシャクして過ごした、数週間を取り戻せたならば……。
……なぁ、井上?
明日から…また、聞かせてくれるかな………?
『おはよう、黒崎君!』
元気に弾む、その明るい声を…………。
………占いに感謝したくなったのなんて、生まれて初めてかもしれない。
終