My little step



井上が、笑わなくなった。
「俺」限定で。

そりゃ、無理に笑わなくていいと言ったのは、俺だ。
確かに、そう言ったさ。

だけど……。





気まずいんだろうな…てのは、何となくわかる。
俺が、そうだから。

あの日…桜吹雪の下で逢った、夜……。
俺たちはお互いに、相手に踏み込みすぎた。

勿論、俺にしても井上にしても、そこにあったのは善意だ。

今だって、言うべきじゃなかった…とは、俺は思っていない。
ただ、言うべき時期じゃなかったのかな……とは、思う。

誰だって…たいして自分の事を知らない相手から、本音の部分に切り込んで来られて、嬉しい筈がない。
俺が一瞬、頭に血を上らせたように、井上もまた、俺の言葉に不快な思いをしたのだろう。
そして井上にああ言われたからって、俺が俺の中の何をどう変える事も今すぐには出来ないように、俺の言葉を素直に受け止めることは、今の井上にとっては難しい事なのだろう。

それでも……。

アパートの階段下での、別れ際も。
思いがけず、窓越しに視線がぶつかってしまったときも。
井上はいつもどおりに笑って「またね」と言ってくれたから……。

安心…して、いたのに。



月曜日。

竜貴は空手部の朝練に参加していて、一人で登校してきた井上は。
俺の顔を見るなり表情を強ばらせ、その場に立ち竦んで。
そのまま顔を伏せて、自分の席へと移動して行った。

正直、態度の変化に戸惑いはしたけれど。
直後なんだから、仕方ないか…と納得できた。


しかし、だ。


そんな彼女の態度が二日経ち、三日経ち、一週間が経っても続いて。
半月経ってもそのままとなれば……。

いい加減……俺としても、苛ついたりなどしてくるもので。





……なんで、だよ?





思わずため息が、口を吐いて出る。

竜貴が井上の側に居るときだけは、流石に挨拶くらいは返してくれるし、多少微笑んでもくれる。

………思いっ切り、引きつってるけどな。

そして、そんな必死の笑顔が。
俺のためなんかじゃなくて、竜貴に心配をかけないため……とわかるから。


余計に、困惑するんだ。


気になって仕方がなくて。
思い余って……竜貴に訊いた。
最近の井上の、俺に対するあの態度は何なのだ……と。
何か、心当たりあるか?……と。


「ああ、緊張するんだってさ」
「はあっ?!」
悪戯小僧のような笑みを口の端に刻みつつの竜貴の返答に、俺は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

だって、そうだろ?
そもそも……ほぼ初対面だった入学説明会の場で、まるで旧知の間柄のように、にこにこ笑って俺に話しかけてきたのは、井上の方だ。

あの時…俺がどれだけ吃驚したと思ってる……!

入学してからだって、元気な声で「おはよう!」……と。
声をかけてくれたのは、大概が井上からだったじゃないか。

そう……あの、夜までは。

「何で、今更……」
「まぁ、いいじゃん。『憧れのオレンジ頭のお兄さん』から、昇格したんだからさ」 
「……………何だよ、それ」
「教えない」

にやりと、竜貴は笑って。

ひらり……と、腰掛けていた机から床へと降り立つと
「今の状況が不満なら、まずは自分から動いてみれば?
ただ黙って待ってたって、棚からぼた餅はそうそう落ちて来るもんじゃないよ?」
そう言って踵を返し、丁度委員会活動から教室に戻ってきた井上の方へと移動して行ってしまった。


「自分からって言ったって……」
何をどうすりゃいいんだか。

これまで…妹たちと竜貴以外の女とは、口を利いたことなんて殆どない。
そんな俺は情けなくも、ホンの小さなきっかけすらも作れず、掴めず……で。

「いっのうっえさああああんっ! おっはようございまぁすっ! 今日も相変わらずお美スィィッ!」

スィィ…って何だよ?と、心で突っ込みながら、啓吾が井上に突進していく様を横目に見る。
そんな啓吾のテンションの高さや、毎度竜貴や本庄に張り飛ばされてもめげないバイタリティを、特別羨ましいとは思わないけれど。
あの十分の一でも…いや百分の一だっていい、俺にもう少し行動力があったなら……。

そんな事を考えながら、奴らの騒ぐ様子を眺めるともなく眺めていたら、ふと井上と視線がぶつかった。
途端に、彼女は喉に何かを詰まらせたような顔をして……うろうろと視線を彷徨せながら、結局は下を向いてしまう。
俺もそのまま、すいっと彼女の上から視線を外すと、顔を窓の外へと向けてしまった。


『……どんだけヘタレだ、俺は』


内心で自分を罵りながら見上げた空は、青。
春になったばかりだというのに、ここ数日はまるで初夏のような陽気だ。

「暑……」
口の中で呟きながら、俺は詰め襟を脱いだ。











「やだお兄ちゃん、まだ寝てたのっ?! 小島君、もう来てるよぉ!」

遊子の声に、跳び起きた。
時計に目をやり、顔から血の気が引く音を聞く。

何でだ? 確かに目覚ましはセットした筈なのに……。

「お父さんが出掛けに起こしてやるって二階に上がってったから、てっきり何か用済ませてて降りてこないだけだと思ってて……」


………やられた。


思わず、大きく舌打ちをした。
起こすどころか、目覚まし止めて行きやがったな、くそ親父!
俺が本読むのに夢中になってて…うっかり夜更かしした事を知ってて、敢えて仕掛けたイタズラに違いない。

「ちくしょうっ!」

取りあえず親父の部屋に駆け込み、窓から顔を出して水色に詫びを入れ、先に行って貰うことにする。

廊下に出たところで、ランドセルを背負った妹たちと行きあった。

「私たち、もう出るね? 一兄、戸締まりよろしく!」
「了解。車に気をつけろよ?」
「お兄ちゃんもね! 慌てて交差点から飛び出したりしちゃ駄目だよ?」
「ああ」
「じゃあ、行ってきまぁすっ」
「おう」
「……あ、そだ、お兄ちゃん!」

階段を一段降りたところで、遊子が俺を振り返る。

「今日の7月生まれのラッキーアイテムは、本だって!」
「そっか…サンキュ、な!」

占いなんて、信じちゃいないけど。
俺に対する遊子の気持ちが嬉しいから、笑って返事をして見送った。
 


部屋に戻り、掛けてあった制服に手を伸ばしかけ…ふと思い立って、押入れからシャツを取り出す。
昨日、あまりの陽気の良さに、詰め襟脱いでTシャツ一枚で校内を歩いていたら、教員に見咎められてしまった。
せめてYシャツ着て歩け……と。

昨日の夜の天気予報では、今日も昨日並に暑くなるらしい。
上着を着たままで一日を過ごすのは、きっと耐えられないだろう。

そう考えて、糊の効いたシャツに腕を通し、急いでボタンを留めつけた。

上着を掴み、部屋を出ようとして……。
ふと足を止め、もう一度机まで戻る。
取り上げる、新書サイズの本。
もう一度読み直そうかと思っていたけれど。

「……とり敢えず、持ってくか」

急いで鞄に詰めて、部屋を飛び出した。





必死に走って、何とか本鈴と同時に教室に飛び込んだ。
こんな事は入学以来初めてなものだから、級友達が珍しがって声をかけてくる。

適当に返事をしつつ、席まで進んで。
机に鞄を放ると、先ずは詰め襟を脱いだ。

「暑っつ!」
ばさり…と上着を椅子の背にひっかける。

そのとき、視界の端に胡桃色の綺麗な頭髪が目に入って。
俺は誰にも気付かれない程度に、小さく小さく舌打ちをした。


………本当は。
今日は俺から、声をかけてみようと思っていたんだ。
竜貴にも言われたけど…変化を起こしたければ、先ずは自分から……って。
それなのに……。


思い切り出鼻挫きやがって、あのくそ髭が!


今晩覚えてろ……と内心で呟いた時、がらりと引き戸が開き、越智先生登場。
「おら、席着け~!ショート始めるぞ~っ」

俺は慌てて、黒板の方へと体の向きを変えた。







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