My little step



黒崎君の着ている、白いシャツ。
ボタンが…一段ずれて留まっていた。



最初、は。
すぐに周囲の席の誰かが気付くだろう……と、思っていたの。

だけど。
誰もそれを指摘しないまま、やがて越智先生がやって来て。

正面を向く、黒崎君。
始まる、SHR。

教壇に立って出欠の確認をし、様々な連絡事項を告げる先生も、どうやら黒崎君のシャツの違和感には気付かないみたい。
………まぁ…もともと大雑把で、細かい事は気にしない人だし。



『どうしよう……』



教えてあげたい。
だけど、私の席から黒崎君の席までは少し距離がある。
余程大きな声を出さなければ、その耳に言葉は届かない。
そして…今、そんな事をしたら。
彼は教室中の皆に笑われてしまうに違いない。


……そんなのは、駄目。


だから。
誰か、お願い。
気付いて。
そして、彼に教えてあげて。

出来れば、さりげなく何気なく。

だって、彼は。
そういうちょっとした失敗とかって、他人に見られたり知られたりするの、とても恥ずかしいって思うタイプだから。
ましてや。
その事で周囲にからかわれたり……なんて。
絶対に嫌な筈だもの。



お願い、誰か……。
そうでなければ。
どうか彼が、自分で気付きますように……。



だけど。
SHRが終わって、一限目の授業の準備をしつつ雑談タイム…という頃になっても、相変わらず黒崎君のボタンは掛け違ったまま。
椅子に横座りして、周囲の席の男子と何かお話しているようだけど…彼らも何も言わない。

元から外れていた第一ボタンと、第二ボタンまでの幅が他の箇所よりもかなり狭まっているせいで、目立たず気付かないのか……。
或いは……ちょっとした意地悪のつもりで、敢えて教えないのか。

後者なら…それはちょっと酷いなぁと思う。
もしそうなら、絶対に許さないんだから……って、だから何を誰をどうすることも多分出来ないんだけど。



……どうしよう。
まだ少し、時間に余裕はある。
思い切って席を立って…伝えに行ってみようかな?
ほら、何て言ったって「ほんのちょっと勇気を出して、声をかける」絶好のチャンスじゃない?!


……なんて。


ちらりとそんな事を考えただけで、いきなり鼓動が早くなる。
膝も、がくがく震え出す。
心なしか、頬も上気してきたような……。


ああ、駄目。
やっぱり、無理。
勇気なんて、出せない。
出てこない。





『……ごめんね、黒崎君』





私の、馬鹿……内心で自分を罵りながら、そっと両の手で顔を覆った時。

「ああ、そうだ! おーい、いのうえ~っ!!」

教壇から私を呼ぶ越智先生の大きな声に、私ははっとして顔を上げた。
先生は片手に定形外の大きな封筒を掲げ、もう片方の手で私を手招きつつ言う。

「事務室からの預かり物だ。取りに来てくれんか」
「あ……は、はいっ!」

慌てて立ち上がり、教壇へと向かう。
途中で机の脚に蹴躓き、べしゃりと床に膝をついてしまった。
周囲から上がる、笑い声。
恥ずかしさに真っ赤になりながら立ち上がろうとした目の前に、差し出される手。

「大丈夫?」
心配そうに顔をのぞき込んでくれたのは、同じ手芸部の石田君。

「ありがとう……」
お礼を言いながら、その手を借りて立ち上がって。
「怪我は、無い?」
「うん、大丈夫。本当にありがとう」
ぺこりと頭を下げて、その場を去る。

石田君の優しさはとても嬉しかったけれど、スカートの裾についた汚れを軽くはたきながら、もしもこれが黒崎君だったらな……なんて。
そんな事を考えてしまう私は、やっぱり最低なオンナだ。

こんな私に、恋愛の神様が微笑む筈もない。




今度は転ばないよう気を付けつつ歩を進め、越智先生から封筒を受け取る。
封筒の中身を、少しだけ引っ張りだして確認して。
それを元通りにしながら、自分の席に戻るべく体を反転させて。
そして……目に入ったの、は。
相変わらずボタンをかけ違ったまま、談笑を続ける黒崎君だった。



ごくり……と、唾を飲み込む。



……今、なら。
席に戻りながら、なら。

言える……かも、しれない。

通り過ぎざまに、さりげなく。
そっと、教えてあげられるんじゃないかしら……。


恋愛運がどうとか…そんなのは、もういいの。
ただ、早く教えてあげたかった。

だって……。

失敗を知るまでの時間が長ければ長いほど。
それに比例して、その後に彼がへこむ時間は、きっと長くなってしまう筈だから……。



『頑張れ、私! 動け、脚……!!』



震える脚で、一歩踏み出す。
彼の前で転んだりしないよう、慎重に…でも、なるべく普通を装って。

どくんどくんと、痛いくらいに心臓が鳴る。
あんまり耳に鼓動が響いて、ざわめく教室内の音さえ遠ざかる。
ぎゅっと、制服の胸元を掴む。

痛い。
苦しい。
怖い。



………でも。



立ち止まる。
すうっと一つ、息を吸って。

「…………あ、の…」

やっとの思いで、声を絞り出す。
あぁお願い、これ以上裏返らないでよ、私の声……!

ぴくり……と跳ねる、彼の肩。
ゆっくりと私を振り仰いで、その金茶色の瞳を僅かに見張った。

「………何?」

訝しげに眉間の皺を増やし、彼は私に問う。
重なり合った視線。
彼の綺麗な瞳の中には、緊張に強ばった顔をした私が映っていた。
その表情のあまりの情けなさに、思わず下に視線を逸らせてしまう。

同時に。

制服の胸元を掴んでいた手を離し、そっと彼の鎖骨のあたりを指さした。
その指先が馬鹿みたいに震えるのを押さえられず、みっともなくて泣きたくなる。

ぎゅっと目を瞑って。
それから私は、小さな声で必死に呟いた。



「…………………ボタン、が」



それが、精一杯だった。
暗く閉ざした視界の中、「えっ?!」という、彼の驚く声を聞いて。
そっと瞼を開けると。

「う、わっ?! 何だこれ、みっともねぇっ!!」

そう小さく叫びながら、黒崎君は慌ててボタンを留め直し始めたところだった。

「何やってんだよ、黒崎~っ!」
からかう周囲の声に、憮然とした表情で「…るせっ!」と返すのを目の端に留めながら、私は踵を返して自分の席へと向かう。

未だどきどきと高鳴り続ける心臓を持て余しながら、それでもどうにか伝えられた事に安堵して。
ほう……っと一つ、ため息。
その瞬間。


「……井上っ!」


背後からの声に、驚いて振り返った。
顔を赤くした黒崎君が、席から軽く腰を浮かせつつ、怒ったような困ったような表情で私を見ていて。

「………その……サンキュ、な?」
決まり悪そうに頭をばりばりと掻きながら、届けられた言葉。

お礼を言われたことが、素直に嬉しいと感じたのと。
黒崎君の言い方と表情とが…なんだかとても子供っぽく可愛く思えて。

ふっ……と、口元に笑みが浮かぶ。

どういたしまして……の代わりに、軽く首を横に振って。
顔を上げ、もう一度小さく微笑むと、私はくるりと彼に背を向けて自分の席へと戻った。

椅子を引いて座ろうとした時には、黒崎君は既に私を見てはいなかったけれど。
私を振り返ったたつきちゃんと、目があって。

「good job!」

口の動きだけで私にそう伝えつつ親指を突き立て、綺麗にウインクを決める親友のおどけた顔を見て。


私は思わず、声を立てずに笑ったのだった………。






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