桜幻想〜夢見草の見る夢〜
桜が、散り始めた。
春の暖かな陽光の下、風が微かに枝を揺するだけで、ひらひらと雪のように沢山の花びらが舞い踊る。
下校途中、通りかかった公園で。
そんな桜の様子を目に留めて、立ち止まった少女は。
しばらくその光景を眺めた後で、ひとり小さく頷いた。
「今夜がいいかな……」
折しも今日は金曜日。
今日一日勉強をさぼったところで、土日でいくらでも取り戻しがきく。
「……うん、決めた!」
口の中で呟いて。
自宅に向けて、くるりと踵を返す。
駆け出す少女の背中で、胡桃色の長い髪が踊るように揺れた……。
「夜桜見物兼ねて、散歩に行くぞ!」
夕食中、父親の口から発せられた突然の提案に、一護は思わず顔をしかめた。
『面倒臭ぇな……』
それが彼の、正直な心情。
だがしかし、二人の妹たちは大乗り気だ。
いつもは21時に義務づけられている就寝を、特別に22時まで延長にしてもらえるという事もあって、喜び勇んで食べ終わった食器を片づけにかかっている。
こうなってしまったら…さしたる理由もなく自分一人だけ参加しない、等という事は許されないのが、黒崎家だ。
渋々と席を立ち、一護は上着を取りに自室に向かった……。
自宅を出て、まずは河川敷を歩き、そこから高台の公園へと向かった。
結構な距離だが、妹二人は疲れたとも言わずに元気に歩き、時に競うように走り出す。
その突発追いかけっこに嬉々として参戦する父親の背中を、どっちが餓鬼だかわかりゃしねぇ……と呆れたように眺めながら、一護は最高尾をぶらぶらと歩いていた。
もう少しで、公園の入り口にさしかかる…というところで。
ぴたりと止まる、前を行く三人の足。
「……?」
歩み寄りながら様子を見守っていると、三人は暫し顔を見合わせた後、そろりと入り口を示す石柱へと近寄って……。
そして、その陰に隠れるようにして公園の中を伺いはじめた。
一護は訝しげに眉根を寄せながら、彼らの背後に近寄り、声をかける。
「……何、やってんだよ?」
振り返った夏梨が、「しっ」と言うように唇に人差し指を当てて、彼を睨んだ。
反射的に、憮然とした表情を作る一護。
……その時だった。
耳に届いた、綺麗なソプラノ。
夜気を震わせて響くその美しい歌声に、彼は慌てて家族に倣い、柱の陰からそっと公園の中を伺った。
声の主を探して、彷徨う視線。
それはやがて、ジャングルジムの天辺に座る人影を捉えて止まった。
思わず目を見開き、ぽかんと口を開けてしまう。
「……いの…う…え……?」
半ば呆然として呟いたのは、つい先日入学したばかりの高校で、同じクラスになった少女の名だった。
知り合いかと問う遊子に、クラスメイトだと答える声が僅かに掠れる。
このとき一護は、かなり戸惑っていた。
『あれが…あの、井上………?』
まだほんの数日しか、彼女の事を知らないけれど。
毎日屈託のない笑顔でクラス中の人間に挨拶し、無邪気な笑顔で級友達とおしゃべりに興じる少女の面影は、そこにはどうしても見つけられなかったから。
桜の木に向かい合うように腰掛け、花を見上げるようにして美しい旋律を紡ぐ横顔……。
それは、透き通るような哀しみの色を湛えていて……。
舞い散る桜の花以上に、儚なく頼りなげに見えた。
『……なんて表情してんだよ………』
キン……と。
胸の奥で、水晶が砕けたような音を聴いた。
砕けたガラスの破片で指を切ったときのような、鋭い痛みを心に感じて…彼は思わず、上着の胸元をぎゅっと掴む。
「綺麗な曲だね……」
遊子が、ため息混じりにつぶやいた。
頷く夏梨が「でも……」と首を傾げて。
「これ…失恋の歌だよね。誰かに振られちゃったのかなぁ……?」
その呟きを耳にした、途端。
心臓を…ざらりとしたもので撫でられたような、不快な感覚に襲われた。
そんな自分の心の動きに困惑しながら、僅かに顔を歪めた一護の隣で。
「いや…多分、違うな………」
ほぼ断定口調で言ったのは、彼の父親。
「……何で違うってわかるんだよ?」
その問いかけに返ってきたのは、呆れたように自分を見下ろす父親の冷たい視線だった。
「………………何だよ」
「お前……覚えてないのか?」
「何を」
「あれは……あの子は……いつだったか、交通事故に遭ったお兄さん背負って、血塗れになりながらうちを訪ねて来た子じゃないか……」
「……え……………ぁあっ?!」
瞬間。
脳裏に蘇るのは、鮮やかな血の赤。
そして……。
縋るような目をして自分を見た、まだあどけなさの残る少女の顔。
大きな瞳に、涙をいっぱい溜めて。
唇を、血がにじむほどに噛みしめて……。
「あの時の、栗毛のガキ………!!」
「しぃぃいいっ!!」
振り返った妹二人にもの凄い形相で睨まれて、一護は慌てて口元を手で押さえた。
その耳に流れ込む、一段と切なさを増した歌声。
ねぇ声を聞かせて
この手にまた触れて
ここで待ってるよ
桜のふる丘で
ふ……っと、噤まれる唇。
ゆるゆると視線を落としていく、ジャングルジムの上の少女。
ぼんやりとそれを眺めていた一護の隣で、唐突に拍手が沸き起こった。
ぎょっとして視線を向けると、妹二人が頬を紅潮させながら、一生懸命手を叩いている。
もう一度、ジャングルジムへと視線を戻せば……。
そこには、こちらを振り返り、驚きに大きく目を見張る少女が居た。
「…………あの…?」
戸惑って瞬きを繰り返す彼女の足下へと、妹たちが駆け出す。
「あ、馬鹿っ………!」
顔をしかめ、小さく舌打ちを一つ。
一護は仕方なく柱の陰から出ると、妹たちの後を追って園内へと駆け込んだ……。
「あのっ、あのっ……歌、すっごくすっごく素敵でした!」
ジャングルジムを見上げ、両手に握り拳作って必死に訴える遊子。
その隣で、こくこくと一生懸命に頷く夏梨。
「………ど、どうも…ありが……とう………」
戸惑いながらも、礼の言葉を口にして。
小首を傾げ、瞬きを繰り返す少女の……その、もともと黒目がちの大きな瞳が、より一層大きく見開かれたのは、歩み寄ってくる一護の姿を捉えたからだった。
「く、くくくく、くろっ、さき…くんっ?!」
「……………よぉ」
決まり悪そうな顔をして、彼は軽く片手を挙げる。
すると彼女は顔を真っ赤に染めつつ、あたふたしながら慌ててジャングルジムを降りようとし始めた。
「……ちょっ…危なっ………?!」
「ひゃあっ!」
あと少しで地面に降り立つという所で、織姫が足を踏み外し……一護はとっさに駆け寄り、地面と彼女の間に滑り込んだ。
どさり……と、地面に倒れ落ちる二人の体。
「………ってぇ…」
「ごごごごごめんなさいっ!」
慌てて一護の上から退きながら、織姫が詫びる。
「大丈夫? 怪我してない?」
問いかける声に閉じていた目を開くと、思ったよりもずっと至近距離に、自分を心配そうに覗き込む彼女の顔があって。
どきり……と跳ねる、鼓動。
返事をしなければ…と思うのに、言葉が出ない。
……その時。
「心配いらないよ。うちの息子は、身体だけは頑丈に出来てるからね」
笑いを含んだ父親の声が降ってきて、一護は思わず、そちらにぎろりと睨むような視線を向けた。
「……うるせぇよ」
口の中で呟きながら立ち上がり、服についた土を払う。
「黒崎先生……」
父親に呼びかける織姫の声に手を止め、彼が顔を上げると。
彼女が父親に向かって、深々と頭を下げているところだった。
「その節は、お世話になりました」
「いや…力になれなくて悪かったね」
「いいえ……」
ふるふると、首を横に振って。
「先生がお力を尽くしてくださったのは、わかっていますから……」
微かに口の端に笑みを浮かべる。
それから一度、織姫は俯いて。
次に顔を上げたとき…彼女はまるで別人のように明るい笑顔を浮かべながら、彼と彼の家族の顔を見回した。
「家族で、お散歩?」
「ああ……」
一護は軽く、顎を引いて。
織姫に自分たちを紹介して欲しくてうずうずしている、二人の妹達の背中を押し出す。
「妹の…遊子と夏梨だ」
初めまして……と、少し緊張気味に挨拶する双子を前に、
「二人とも、とても素敵なお名前ね」
そう言いながら、織姫はふわりと身を屈めて。
遊子と夏梨と目線の高さを合わせると、
「黒崎君のクラスメイトの、井上織姫です。どうぞよろしくね?」
そう言いながら、優しくその顔を笑み崩した。
一度、姉妹で顔を見合わせて。
再び織姫の方を向き直ると、遊子と夏梨は肩を竦めながら、はにかんで笑う。
二人の頭をそっと撫でながら立ち上がった織姫に、一護は躊躇いがちに声をかけた。
「井上こそ…こんな所で何やってんだよ」
「私……?」
彼を振り仰ぎ、小首を傾げた彼女は。
「夜桜見物、だよ?」
にぱっ……と笑いながら、答える。
その口調は、どことなく得意げで。
独りで……?
そう一護が口にするより先に、遊子と夏梨がくしゅん、くしゅんと競うようにくしゃみを連発。
彼は呆れたように、はぁぁ…っとため息を吐いた。
「汗が引いて、身体が冷えたんだろう。あんなに無駄に走り回るからだぞ?」
………風邪引いたらどうすんだよ。
しかめつらしく、説教を垂れる一護。
すると。
「ああ、そうだ!」
織姫がぽんっ……と一つ、手を打って。
遊子と夏梨の顔を交互に見ながら、尋ねた。
「二人とも、ココア好き?」
こくりと頷く双子に、目を細めて。
くるりと身を翻し、彼女は近くのベンチへと駆けて行った。
置いてあったバッグから水筒を取り出しながら、彼らに向かっておいでおいでをする。
まずは双子が駆けだし、その後を父が追い……最後に一護がゆっくりと歩を進めた。
カップに注がれた湯気の立つココアに、口を付けた遊子と夏梨が「美味しい!」と歓喜の声を上げる。
「先生も?」
「ああ、いただこうかな」
一心にカップを手渡しながら、織姫がくるりと一護を振り返った。
「黒崎君は?」
「俺は……甘いの、苦手だから………」
「そ?」
それじゃあ……と、織姫はごそごそと鞄を探って。
「これ、どうぞ」
差し出されたのは、カイロ。
「………サンキュ」
彼が受け取ると、織姫はそれはそれは嬉しそうに笑って。
それから、彼の家族にもカイロを配り始めた。
「随分と用意がいいんだな」
感心したようにつぶやく一護に、彼女はエヘンと胸を張る。
「だってワタクシ、夜桜見物のプロですから!」
「……何だ、そりゃ?」
眉根を寄せた一護に、織姫はふふっ……とちいさく微笑んで。
「お花見イコール夜桜、だったの。私とお兄ちゃんにとっては……」
「…………っ?!」
思わす息を詰まらせた一護に、ふわりと優しく微笑んで。
静かに彼女は語り出す。
「うちはお兄ちゃんと私の二人暮らしだったでしょう?
平日の昼間は、お兄ちゃんに仕事があったし……。
休日の昼間って、どこも家族連れでいっぱいで。
多分、両親の居ない私が淋しい思いをしないように……って、考えたんだと思うの。
お花見はいつも二人っきり、星空の下で……だったんだ。
お腹と背中にカイロを貼って、コート着て…鞄にはココアたっぷりの水筒と、お弁当詰めて……。
だから、かな。
お兄ちゃんがいなくなってからも、桜の季節に一度はこんな夜を過ごさないと…何だか気持ちが落ち着かないんだ……」
くすりと笑い、軽く肩を竦めて。
そして彼女は、再び桜の樹を振り仰ぐ。
懐かしそうに目を細め、風に舞う花びらを視線で追って……。
その…穏やかながらも、何処か寂しげに微笑む織姫の横顔、を。
一護はただ黙って、見守っていた………。