Overture
「あら? 一護君も茶渡君とやらも、保護者なしなの?」
竜貴母の声に現実に引き戻された一護は、茶渡と顔を見合わせつつ頷く。
あらあら、まあまあ……竜貴母は半ば呆れたように呟いて。
その直後、とん……と、自分の胸を叩いて破顔した。
「よぉっし、ここで皆で出くわしたのも何かのご縁だわ! こうなったらおばさんが、全員まとめて面倒看ちゃいましょっ!!」
そして一護達の背中を順に叩いて、「ほら、体育館に行くわよ!」と先頭切って歩き出す。
その後に続く竜貴と織姫の背を眺めた後、一護と茶渡は顔を見合わせて。
互いに肩を竦めて、苦笑を一つ。
そして二人は、彼女達の後を小走りで追った……。
体育館の中に設けられた受付の前に、一護、織姫、竜貴、茶渡の順に並ぶ。
名表にチェックを入れて貰いながら、この場で提出するよう入学のしおりに指示されていた書類を手渡す。
「芸術選択は、第一希望が美術、第二希望が音楽で間違いないですね?」
「はい」
こんな調子で一通り確認を受けてOKを貰い、横にずれる。
鞄のファスナーを閉めていると、次に受付に立った織姫の
「芸術選択の希望順位を訂正したいんです。ペンをお借りできますか?」
という声が聞こえ、次の瞬間、「きゃ…」という小さな悲鳴と共に、ばさばさばさーっと紙類が床に雪崩落ちる音が聞こえた。
振り返ると書類を取り落とした織姫が、「すみません」と慌てて謝りながら、わたわたと屈みこもうとしているところだった。
自分の足下に飛んできた一枚を、一護は拾い上げて。
そして、ちょんちょんと織姫の肩をつつく。
「……?」
顔を上げた彼女に、「俺が拾ってやるから……」と声をかけながらしゃがみ込み、身振りと視線で、自分を気にせず書類の訂正を済ませてしまえと促した。
ぽかん……と、一護の顔を見ていた織姫は。
一護がもう一度顎をしゃくるようにして促すと、「ありがとう」と小さく笑って立ち上がり、受付机へと向き直る。
じきに全てを拾い終えた一護が立ち上がると、丁度織姫も訂正を終えたところで……一護から手渡された他の書類と共に提出を済ませると、机から離れた。
受付の邪魔にならない位置まで移動して、二人で竜貴と茶渡を待つ。
「さっきは本当にありがとう」
一護を振り仰いだ織姫が、もう一度礼を言いつつ微笑んだ。
その愛らしい笑顔にどきりとしつつ、一護はそっぽを向きながら
「……ドジ」
と憎まれ口を叩く。
「よく言われます……」
あはは…と笑いながら、織姫が鼻の頭を擦って。
そんな幼い仕草を目にした一護は、再度鼓動を跳ねさせてしまい……そんな自分自身に、一層動揺していた。
……どうしたんだろ、俺。
次に受付を終えて近寄ってきた竜貴と、楽しそうにおしゃべりを始めた織姫を横目に眺めつつ、密かにため息を吐く。
ころころと良く変わる、豊かな表情。
だけど…基本その微笑みは、どれもやさしく穏やかで……。
春の陽射しのように暖かく、全てを包み込んでくれるようで……。
例えば、毎日こんな笑顔を浮かべた彼女が。
「おはよう」という言葉とともに、迎えてくれてくれるなら。
それだけで、学校に通う甲斐があるんじゃないかな……なんて。
ふ……と。
そんな事を思いついた自分自身に驚きながら、慌てて彼は頭を横に振る。
「どうした、一護?」
近寄ってきた茶渡に「何でもねぇよ」と返事をしつつ、今度はステージ前に並べられたパイプ椅子に腰掛けるべく、ぞろぞろと移動を始めた。
「ねぇ、竜貴ちゃん! 校門のところにあった桜、入学式に咲いてるかなぁ?」
織姫の弾むような声が、背後から届く。
「うーん、どうかなぁ? 最近温暖化で咲くの早いからねぇ……」
「でも去年は、咲いた直後から急に寒くなって、随分長くお花が保ったよね」
「ああ、そう言えば……」
「今年もそんな風に、うまいこと入学式に満開になってくれるといいなぁ……。で、もし咲いていたら、記念に一緒に写真を撮ろうね、竜貴ちゃん!」
「そうだね、織姫!」
楽しげな少女二人の会話を聞きながら。
一護は先刻、独りで見上げたその桜の樹を思い出していた。
母がこよなく愛した、春の花。
だからこそ……母が逝った後は、目にするのが辛かった。
だけど……。
隣り合わせた席に座る、少女の横顔をちらりと見る。
満開の桜の下、佇む彼女の後ろ姿が、脳裏に浮かんだ。
その時が来たら……。
彼女は一体、どんな表情をその顔に上らせるのだろう?
ちいさな子のような、満面の笑顔だろうか……?
それとも。
夢見るようにうっとりと、静かに綺麗に微笑むのだろうか……?
………見てみたい。
そう、素直に思った。
春の、桜の下で。
夏の、青空の下で。
秋の、紅葉した樹の下で。
冬の、雪が舞い落ちるその下で。
その薄茶の瞳に、四季の美しいものたちを写しながら。
彼女は一体、どんな風に笑うのだろう……?
『……見て、みたいな』
この時彼が抱いたのは、これまであまり他人に関心を持たなかった少年の、幼子が持つような純粋な好奇心に近かったかもしれない。
しかし……。
彼の心に小さく芽生えたその想い、が。
いつしか、恋という名の花に変わる日が来ること、を……。
この日の彼は、未だ未だ知る由も無い………。
終