Overture



「入学前から参っちゃうよね、黒崎君」

くすりと小さな笑い声を含みながら届いた言葉に、一護は思わず振り返った。

胡桃色の髪の一筋を、己の右手の人差し指にくるりと巻き付けて。
それを横目で見ながら、軽く肩を竦める少女が居て。

そして……ふわり、と。

一護に向けて、彼女はやわらかな微笑みを向けた。
その笑顔に、彼は軽く目を見張る。


『………今度は春、だ』


心の中で、呟く。


先刻まで…教師と対峙していた時の彼女は、凛と気高く侵し難い雰囲気で。
混じりけのない綺麗な白い雪だけを使って作られた像に、魂を吹き込む事で生まれたような……そんなイメージがあったのに。

今……目の前で、彼に微笑みかける彼女、は。

まるで春の柔らかな光を集めて、紡ぎ上げたような……。
そんな穏やかなオーラを、その華奢な全身から溢れ出させていた。


『プリマヴェーラ』


そんな言葉が、ふと脳裏をよぎる。
それは、母にベタぼれだった…いや、その溺愛ぶりは母が逝った後も未だに現在進行形で続いている父の、母を称えて口にする単語。

不思議とどこか懐かしくて…それでもやはり、手繰る記憶の中にはどうにも見つけられないその顔に、一護は躊躇いがちに問いかけた。

「……御免。何処かで逢ったこと、ある?」


俺…人の顔とか名前覚えんの、すっげぇ苦手で………。


頭を掻きながら、ぼそりと呟くと。
一瞬……少女の瞳が淋しげに揺れた。
その表情に、心臓を握られたような痛みが身体に走る。
気不味く視線を反らせた彼に、しかしすぐさま、少女は再びやわらかな微笑みを浮かべてみせて。

「…以前、クロサキ医院にお世話になった事があって、それで……」

そう言った後、馴れ馴れしくしてごめんなさい……彼に向けて、ぺこりと頭を下げてよこした。

「べ、別に、謝らなくても……」

まごつく、一護。
その耳に、少し離れた場所から「おぉい」と呼びかける声が聞こえた。

声のした方角に視線をやると、漆黒のショートヘアを靡かせて駆けてくる幼なじみの姿があって。

「竜貴……」
「たつきちゃん!!」

彼が呟くと同時に、隣からあがった嬉しそうな声に、思わず顔ごと視線を向けた。
そしてまたもや、彼は言葉を失う。


春の女神のような、慈愛の聖母のような……そんな微笑みを浮かべていた少女の表情が。
今度は恐ろしく無邪気で甘えん坊な、幼児の如くに変化していた。


たたっ……と駆け出す後ろ姿は、親犬を見つけてゴム鞠のように弾む、コロコロとした子犬を思わせて……。
ぶんぶんと振り回されるしっぽが着いていないのが、いっそ不思議なくらいだと感じた。


……おかしな奴。


くっ……と喉の奥で笑って。
片腕に少女をぶら下げながら歩み寄ってくる竜貴に、一護は軽く手を挙げた。

「よう、竜貴」
「おす、一護」

軽く拳を突き合わせる。

幼なじみの彼女は、彼と少女の顔を交互に見比べた後、
「……何かあったの?」
軽く眉根を寄せながら言った。

「髪の事で、教師に絡まれてよ」
「……いきなりかよ」
「全くだ。ただ…そしたらそいつが、間に入ってくれてよ……」

竜貴の腕にぺっとりと貼り付き、にこにこと笑み崩れている少女に視線を向けると、竜貴が「へぇ!」と目を見張った。

「やるじゃん、織姫」
竜貴が隣の少女の脇腹を肘で軽くつつくと、少女は「えへへ」とくすぐったそうに身を捩る。

「あ……と、一護にちゃんと紹介するのは、初めてだよね?」

思い出したように、竜貴が彼を振り返って。
それから、隣に立つ少女の背を軽く一護の方に押し出した。

「時々、話すよね。同じ中学の親友で……さ」
「井上織姫です。よろしく、黒崎君」

小首を傾げながら向けてくるふわんとした微笑みに、一護の心臓がどきりと跳ねる。

「あ……その…こちらこそ………」

平常心、平常心……と、念仏のように心中で唱えながら、どうにかこうにか言葉を絞り出した彼と、一層深くやさしく微笑んだ彼女の顔とを、竜貴は交互に見比べて。

何か面白いものでも見たような笑みを、口の端に浮かべた。









「竜貴、ちょっと待ってよ……あら、一護ちゃん!」
「………おばさん、いい加減ちゃん付けは止めてくんね?」

竜貴の背後から小走りで走り寄って来た彼女の母親に、彼はため息混じりに抗議する。

「あははは、御免ね~! つい癖で……」
からりと笑って流す竜貴母に、今度は織姫が挨拶の言葉をかけた。

「こんにちは、おばさま」
「こんにちは、織姫ちゃん」

織姫に微笑み返そうとしたその顔が、一護の背後、その頭を飛び越えた先に視線を留めて強ばった。
竜貴もまた、顔を軽くひきつらせる。

「……?」

訝しげに眉根を寄せた一護の頭の上から、低い声が降ってきた。

「一護……」
「なんだ、チャドか」

背後に首を巡らせ、筋骨逞しい親友の姿を確認した一護は。
再び幼なじみとその母親、新たに知り合った少女に向き直ると、親指で背後を指しながら、言った。

「こいつは俺の中学のダチで、チャドってんだ。チャド、こっちは幼なじみの竜貴と、そのお袋さんと……竜貴の友達の…えと、井上…さん?」
「……チャドじゃなくて、さど…だ。茶渡、泰虎……」

よろしく……と、礼儀正しく頭を下げた茶渡に、ようやく竜貴親子が緊張を解き、こちらこそよろしくと笑みを浮かべる。

その隣で。

じっと静かな表情で、茶渡の瞳の奥を覗きこむようにして見つめていた織姫が、ふうわりとその顔を笑み崩す様を、一護は見ていた。

「よろしく、茶渡君!」

何の躊躇いも無く差し出されたその手を、鳩が豆鉄砲を食らったような表情で、数瞬の間見つめて。
それから茶渡は、おずおずと織姫の手を握り返す。

「……よろしく」

尚一層、綺麗に微笑んだ彼女の顔を見ながら、一護は唐突に気がついた。
先刻からこの少女に感じていた、不思議な違和感の正体に。



こいつ、は。
他の奴らとは、違う。

相手の見てくれやら何やらには囚われずに。
何よりも先ず最初に、相手の本質を知ろうとして……。


そこに、心を寄せようとするんだ………!



自分は、その髪の色故に。
茶渡は、その中学生離れした体格と風貌故に。

これまで周囲から散々に、色眼鏡越しに見られてきた。


だけど……井上織姫と名乗ったこの少女、は。

どうやら一護の名と顔と、頭髪の事情を知っていたらしいとは言え。
無愛想だの目つきが怖いだのと、クラスメイトの女子でさえなかなか近寄ってはこない彼に対し、先ほどから実に屈託なく、やわらかく穏やかな微笑みを向けて寄越す。

そして。

竜貴やその母親でさえ、一瞬怯んだ茶渡に対して。
最初こそ僅かに目を見張って、その大柄な姿に驚いてはいたものの。
ひとかけらの躇いもなく、握手の手を差し伸べたのだ。

茶渡は一見その外見からは想像もつかないほど、情愛深く優しい男だ。

つき合いが長いからこそ、それを良く知る一護だが。
おそらく織姫はその茶渡の本質を、この数瞬の間に完全に見抜いたのに違いない……。

そう、一護は直感した。


ふと、織姫が一護の視線に気づいて顔を向ける。
そしてまた、花が綻ぶかのように微笑む。

慌てて目を逸らして。
同じ年頃の美少女に笑いかけられた、という気恥ずかしさに鼓動を跳ね踊らせながら。
一方で鼻の奥がつんと痛くなるような切ない嬉しさもまた、彼は感じていた。


家族や、竜貴以外で。
あんなにも真っ直ぐに、ひたむきに。
ありのままの自分そのものを、丸ごと受け止めようとでもするかのような……。
そんな暖かな視線に迎えられたのは、随分と久しぶりの事だったのだ。




ホント、おかしな奴……。




嬉しいような照れ臭いような、戸惑い揺れる自分の気持ちを、そんな憎まれ口のような言葉に変換して。
竜貴と談笑する彼女の横顔を、一護は微かに苦笑を浮かべつつ、横目で盗み見ていた……。







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