Overture



校門をくぐる。
そこで一度、足を止めた。

見上げるのは、桜の樹。
枝一杯についた蕾は、しかしながら未だ未だ小さく硬い。

花にも樹にも、さほどの興味は無い。
明確に名のわかるそれらは、片手でも足りる程だ。
その中でも、とりわけ桜は、彼が自信を持って見分けられる唯一の樹。

若くして逝った母が、こよなく愛した花故に……。

校門目指して歩く道すがら、その樹の輪郭は濃い桃色の霞がかかったようにぼやけて見えた。
だから、遠目でも桜だと分かった。

だが、いざその根本に立ってみれば……視界を埋めるのは枝や幹の持つ茶の色ばかりで。
桃色の痕跡は、何処にも……蕾にすらも、見つけることが出来ない。


不思議なもんだな……。


少年は独り、心の中で嘆息する。





ふと、視線を目の高さに戻して周囲を見渡す。
今日は先日彼が合格を勝ち取った、高校の入学候補者説明会。

集合時間までは未だ余裕があるせいか、人影は疎らだが。
その殆どが、母親らしき中年女性との二人連れ。

稀に、父親らしき男性との二人連れも見かけるが……平日昼間の行事ともなれば、やはり勤めのある父親よりも、母親の方が身動きが取りやすい家庭が多いのだろう。
圧倒的に、母親連れの割合が高かった。

そして…子の側が男である場合。
親子間の距離間が、非常に微妙だった。
女子のように、肩を寄せるように歩いている親子は殆ど居らず、前後にしろ左右にしろ、大概が1.5人分程の空間を、その間に置いている。

俗に言う、彼らは「思春期」まっただ中。
友人達の口からも、母親を疎ましく思う発言を良く耳にする。
丁度、そんな年頃で。
並んで歩く……それだけのことが、何とも気恥ずかしく鬱陶しいものらしい。



……もし、母親が生きていたならば。



自分も彼らと同じように、母を疎んじたり、連れだって出歩くことに妙な緊張を覚えたり、煩わしさを感じたりしたのだろうか……?


少しの間、首を捻って。
しかしながら彼は、明確な答えを出す事は出来なかった。


脳裏に浮かぶ、その人は……。

頭を撫でてくれる手は、春風のように優しく柔らかで。

向けられる笑顔は、夏の陽射しよりも輝かしく眩しくて。

寄せられる愛情は、秋の実りのように豊かで懐深くて。

その姿は、冬の朝日に輝く新雪のように美しく気高くて。


彼にとって母親とは、ただただ懐かしく慕わしいばかりの存在で……。

何もべったりと寄り添って歩け……とまでは、流石に彼も思わないが。
添うてくれるその存在を、当然の事して……。
有り難さに等、欠片も気付いていないであろう同級生達の姿に、ちくりと微かな苛立ちを覚えたのも確かであった。



軽く頭をひと振りして。
踵を返して桜の樹に背を向ける。

目指すは、体育館。
説明会の会場。

彼の隣には、父親の姿すらない。
開業医の父は着いてくる気満々だったが、彼がそれを断った。
曜日は休診日と定めている日とは違っていたし……ここ数日、春先に流行りやすいインフルエンザB型の患者が増えていることも知っていた。
小さい個人院だが、町医者として地域の人達に頼られている父親の事を、尊敬してやまない彼である。

……尤も。
本人を前にその事を口にしたことは無いし、この先だって意地でも言うもんか……と、固く決意してはいたけれど。


父子家庭歴も、片手を超えた。
自分自身の事については、大概の事は自分のみでこなせる自信がある。

だから今日も、たった独りで誰にも頼らずに。
彼はこの場に、赴いたのだった……。










「何だ貴様、その頭は!!」

背後からの怒鳴り声に、一護は思わずため息を吐いた。


ここでも、か……。


眉間の皺を深めながら、振り返る。
視線の先には、いかにも生徒指導担当といった風体の男性教諭の姿があった。


彼の髪は、橙色をしている。
間違いなく地毛なのだが、日本人としてはまずあり得ないその色に、染髪を疑われた事は数知れず。
その事にいい加減慣れてはいたが、だからと言って決して愉しい事ではない。
しかもその相手が教師であれば、この後に一悶着起こるのは必至だ。


全く…未だ入学前だってのに………。


それは、心の中でだけ呟かれた言葉だったけれど。
彼のそんな苛立ちは、相手にも伝わってしまったのだろう。

「何だその、反抗的な目付きは?! 入学前からそんな髪と態度では、この先思いやられるな!」
一層の怒気をはらませて、相手が詰め寄ってきた。

「髪は、地毛です」

一応、そう言ってみる。
だがしかし、相手の反応は……と言えば。

「嘘を吐くな!」
思わず目を閉じたくなる程の、頭ごなしの怒鳴り声。

眉間の皺が一層深まり、眼光が鋭くなるのを自覚しながら、再度反論すべく口を開きかけた……まさにその時。



「黒崎君は、嘘なんて吐いてません」



凛とした、少女のものと思われる澄んだ声が、その場に響いた。
背後を振り返った教師の肩越しに、一護は声の主を探す。


胡桃色の髪をした少女が、そこに立っていた。


雪のように白い肌と、髪と同じく色素の薄い茶の大きな瞳が印象的な……文句無しに可愛い少女。

着ている制服は、幼なじみの竜貴の通っていた中学のものと同じ。
だが、しかし。

一瞬、言葉もなく見惚れてしまった彼女の顔自体には、全く見覚えが無い彼だった。


………誰だ、こいつ?


訝しみ、僅かに首を傾げる。
その彼の耳を、「なんだぁ?!」と、多分に嫌み成分を含んだ教師の声が打った。

「お前の髪も随分な色だなぁ?! 不良同士庇い合いか?」

思わずムッっとして、拳を強く握る一護。
しかし少女は、怒るでもなく臆するでもなく。

「私も、地毛です」
淡々とした表情と静かな声で、告げた。

「お疑いが晴れないのでしたら、入試の時の調査書を調べていただけませんか?」
「何だとっ?!」
「私は桜橋中卒の井上です。
担任の先生が言ってました。特記事項欄に、髪の事を書いてくださったと。染めていると、疑われないように……。
黒崎君と私は出身中学は違いますが……でも、調べていただければ彼の調査書にも何かしら記載されているのではないでしょうか?
様式も記入事例も、都立全校共通なんですから……」

どこか舌足らずな、幼さの残る声。
しかし紡がれるその理路整然とした内容と、堂々と教師と渡り合う態度は、妙に大人びていて。

まるで、年若い姿のまま永い時を生き続ける、妖精を目の前にしているような……。
そんな錯覚を、一護は起こしかけていた。


……その時。


「その子らの言っている事に、間違いありませんよ」

今度は一護の背後から、声があがった。
振り返ると、黒髪を後ろで一つにくくり、眼鏡をかけた女性の姿があって。
男性教師が「越智先生」と呟いたことで、彼女もまた、この学校の教師だと悟る。

「馬芝中の黒崎、桜橋中の井上…二人とも、確かに頭髪は生まれつきのものだと記載がありました」
「そ…そうなのか?」
「ええ、間違いありません」

大きく頷いて。
それから、一護と少女の顔を交互に見てにっこりと笑った。

「申し訳ないが二人とも、その先生を許してやってくれないか?
私を含めて他の職員は皆、君たちの髪の事は承知している。
ただ、そこな先生は生憎と、入試事務の期間中にマイコブラズマ肺炎で出勤停止になっていらしてな。今回の入試は殆どノータッチでいらっしゃるんだ。
ああ、今思い返してもあの時は、只でさえ忙しいのに急に先生に休まれて人手が足りなくて、私らはとんだ苦労を……」
「越智先生っ、余計な事まで言わんでよろしいっ」
「これは失礼を」
「と、とにかく!」

コホン……と一つ、咳払いをして。

「地毛なら、それでいい。呼び止めて悪かったな!」
それだけ言うと、男性教師はそそくさとその場から去って行った。

その後ろ姿に向かって、越智先生と呼ばれた眼鏡の女性教諭は「べっ」とあかんべをしてみせて。
面食らう一護と少女を振り返りながら、苦笑する。

「二人とも…入学前から嫌な思いをさせて、悪かったな」
「いいえ」
「……別に。慣れてるし」
「ああ見えても、全く話しが分からないというような御仁ではないんだ。だからこれ以後、髪の事で何か言ってくるような事は無い筈だ。安心していい」
「はい……」

少女がこくりと頷き、一護もまた、軽く顎を引いて承諾の意を伝えた。
女教師は、にかっと笑って。

「まだ受付終了までは充分に時間があるが、後になればなるほど混んで時間がかかる。さっさと済ませてしまった方がいいぞ」

時計を見ながら二人に助言すると「では、な」と片手を挙げつつ踵を返して立ち去った……。











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