蜘蛛の糸



「『蜘蛛の糸』ってさ……」
「え?」

唐突に呟いた一護の顔を、隣を歩いていた織姫が、小首を傾げながら見上げる。

「ずっと、民話かなんかだと思ってたんだ。芥川龍之介の作品だったんだな」

ああ……と頷いた彼女は、人差し指を顎にあてながら、「今日の授業のことね?」と確認する。
頷いて肯定しながら、橙色の髪の少年はどこか遠い目をして、誰に聞かせるともなく呟いた。

「むかーしお袋が、寝物語に絵本読んでくれたっけな……」
「そう……」

隣を歩く少女は、彼の心が自分には踏み込めない領域に行ってしまったことに一抹の寂しさ覚えて、そっと静かに視線を落とす。

ふと目に入った小石を、つま先でこつんと蹴って。

「あ……でもねぇ、黒崎君」
「ん?」

頬にかかった胡桃色の髪を掻き揚げながら、織姫は自分を見下ろす茶色がかった瞳を見上げた。

「芥川龍之介の作品てね、民話とか伝説を下敷きにしているものも多いんだ。だから『蜘蛛の糸』にも、元ネタになっている昔話とか、あるのかもしれない」
「へぇー……」

素直に、感嘆の声を上げる一護。

「詳しいのな、井上」
「えへへ……だってワタクシ、一応文系に進学志望ですから」

軽くガッツポーズを決める織姫。
そんな子供っぽい彼女の仕草に、一護の心臓は思わずドキリと跳ねた。
それ故に。

「黒崎君は、理系に進むんだよね?」

お父さんの跡を継ぐんでしょう?……と、自分の顔をのぞき込むようにして尋ねてくる織姫の顔を、直視することができなくて。
ふいっ……と、あさっての方を向いて頭を掻いて。

「まあ、な……なれるかどうか、わかんねーけどもよ」

ぶっきらぼうに返事をしたのだった。

「なれるよ、黒崎君なら。でも、そうしたら……」

もう一度つま先で小石をけり上げながら、織姫が呟く。

「2年はともかく、3年のクラスは絶対に別々になっちゃうよね」
「まぁ、そうだろうな」
「…………………………ぃ、なぁ……」
「ぁあ?!」

ぼそり、と彼女の口からこぼれ落ちた微かな呟きを聞き留めて、一護が振り返る。

「何か言ったか? 井上」
「えっ?! あ、や……その…えっと」

がばっと俯いていた顔を上げた織姫は、しどろもどろになりながら、焦って手と首を横に振った。

「ななななななんでもないっすよ!」

曖昧な笑みを浮かべて。
そしてそのまま、すいっと一護の横をすり抜けると、彼の数歩先を歩き出す。
彼女が一歩踏み出す度、長い髪がワンテンポ遅れてふわりと揺れて。
それをぼんやりと眺めながら、後ろをついていく彼の脳裏に蘇るのは、先刻の織姫の小さな呟き。

 

 淋しいなぁ………。




 彼の耳には、確かにそう聞こえたのだった。












「うーん、やっぱりここは、何時来ても気持ちいいなぁ」

高台の公園。
街を一望できるその場所で、織姫は大きく伸びをして。

「わぁ……綺麗な夕焼け! ね、黒崎君?」
「ほんとだな」
「今のお日様の色、黒崎君の髪と同じ色だね」
「そうか?」
「うん! すっごくきれいなオレンジ色だよ………」

うっとりと夕日を見つめる少女の横顔に、柵にもたれながらちらりと視線を向ける少年は。
その、夕日に照らされた横顔と、風になびいて揺れる髪の方こそ、よっぽど綺麗じゃないか……と、心の中でだけこっそりと呟く。

特に。

もともと色素の薄い、細く柔らかい彼女の髪が、陽の光に透けてきらきらと金色に輝く様は、どう言葉に表したら良いかわからないほどで。

ぼんやりと眺めるその脳裏に。
ふと、思い浮かぶのは『蜘蛛の糸』。

真っ暗闇の地獄の底で。
自分の為に降ろされた、細い細い、美しいその糸を。
カンダタは、一体どんな思いで見たのだろう?
自分を救わんとする、一筋の光を……。



 
一護の心の奥底に巣くう、不安。
体も心も完全に、虚化してしまう恐怖。
大切な家族や友達や、自分の名すら思い出せず、人間であったことすら忘れ。
あのモノクロな砂漠世界を独りさまよう未来が、自分には待っているのではないか……と。
時折、ぞくりとした感覚が、背筋を静かにはいあがってくる。
 
 
だけど……。





綺麗な綺麗な、金色の糸。
  
もしも…もしも、闇に落ちてしまったなら。
 


救ってくれるだろうか?
俺を。
 
光を紡いで作られたような、細く美しい、黄金色に輝く一筋のその糸は…………。

 

ふつっ……と、微かな音がして。

「……ったぁぁぁぁぁあああいっっ!」

織姫の悲鳴で、我に返る一護。
そして。

「ひどいよぉ、黒崎君」

目を潤ませながら、恨めしげに自分を見上げる少女がそこにいた。

「え?! あっ!! わ、悪ぃっ!!!」

無意識に伸ばした自分の指が、彼女の頭髪を2,3本絡めとって、しかも抜き取ってしまったのだと気づいた彼は、慌てて彼女に謝罪する。

「御免っ井上、大丈夫か?」

うー…と、小さくうなりながら、おそらく抜けた髪が生えていたのであろう場所を押さえつつ。
織姫は「大丈夫…だけど」と少し口を尖らせ気味に、一護を見上げた。

「気を、つけてね?」
「…………おぅ」

返事しながら気まずそうに織姫から視線を逸らした少年の、その瞳が捉えたのは、自分の指先に絡まったままの彼女の頭髪。
ほどいたそれを、一護は数瞬の間見つめて。
おもむろに彼はそれをくるくると小さく巻き取ると、ポケットから取り出したハンカチにそっとくるみ込んだ。

「何、してるの?」

彼の行動に、彼女が訝しげに小首を傾げる。

「あ-…いや、その……ちょっと……な…」

あさっての方を見ながら、一護は理由を言い淀んで。
 
 すると。

「も、もしかして、黒崎君……っ?!」

震えを帯びた、彼女の声。
思わず振り返った一護はそこに、血の気の引いた顔をして、涙をいっぱい溜めた目で自分を見つめる少女の姿をみとめて、心の底からぎょっとした。

「い、井上?!」
「ごめんなさい……、私……わた……し……そんなに嫌われてるなんて思ってなくて」
「……へっ?!」
「でっでもっ……そうだよね、いつも迷惑かけて足手まといになって、私のせいで何度も死にかけて……。
こんな私……黒崎君に恨まれて……当然で…………」
「待て待て待て待て待てちょっと待てこらいのうえぇぇぇぇえっっ!」


 叫ぶ言葉で、必死に織姫の言葉を遮った一護は。
 ぜーぜー……はーはー……。
 肩で荒く息を吐いて。

「………お前、一体全体何の話してんだ?」
「何の話って……その……」

橙色の前髪の隙間から、ぎろりと睨み付けるような視線を向けてくる少年を、織姫はちらっと上目使いで見ながら、おずおずとためらいがちに口を開く。




「……藁人形……作るんじゃないの………?」




「はあぁぁああっ?!」

大きく目を見張りながら、一護は思わず、素っ頓狂な大声を上げてしまった。

「何っっっっで俺が、そんな物作らなきゃなんねーんだっ?!」
「え……ち、違うの?」

鞄を胸に抱え込み、どもりながら、じりじりっと後ずさる織姫。

「違うに決まってんだろっ!」

一護の出した大声に、彼女はびくっと肩をすくめて目を瞑る。
その姿に、ああ、自分の剣幕に怯えているのだ……と気づいた一護は、ぐっと握り拳をつくることでどうにか気持ちを押さえ込んで。
やがて、大きく大きく息を吸い込み、それを一気に吐き出すと。

「あのな……」

努めて静かな声で、彼女に告げる。

「俺は本当に藁人形なんか作る気ねぇし、そもそも、お前に迷惑けられたとか思ったこと自体が、一度も無ぇんだよ。
だから………」


変な心配、すんなよ……?


そう言いながら、片手を織姫の頭に乗せて、くしゃりと軽く掴む。
彼の手のひらの下、一瞬惚けたように一護の顔を見つめた胡桃色の髪の少女は。
数瞬後、こくりと小さく頷いて。

「良かっ…たぁ………」

目尻の涙を指先で拭いながら、可憐な花のような笑顔を一護に向けたのだった。





 
 






「それにしてもよぉ……」

ベンチにぐったりと腰をかけた一護が、呆れたように呟く。

「お前の脳味噌のかっ飛び具合は、相変わらず……だな。まぁ、大分慣れたけども」

誰が名付けたか、その名も井上ブレイン。
今回もなかなかに破壊力抜群で。度肝を抜かれるなんてもんじゃなくて。

「ゴメンナサイ……」

彼の隣でちんまりと縮こまって座る織姫が、消え入りそうな声で言う。

「だって…他人の髪の毛の利用方といえば、呪いの藁人形って相場は決まってるし」

……どんな相場だそれは……と、心の中で突っこむ一護の顔を、「でも……」と織姫が覗きむ。


「じゃあ、どうするつもりなの? 私の髪なんて……」

ぐっ……と、息をのどに詰まらせて。
うろうろと、宙をさまよう視線。
無意識に口元を片手で覆いながら、一護はちらり…と、視線だけを織姫に向けて言った。

「………言わなきゃ、駄目か?」
「教えてくれないんなら、あげません」

言いながら、早く返せとばかりに彼女は片手を差しだす。
嫌ーな顔をして、一護はその小さな手の平を睨んで。

「……どうしても?」
「どうしても」
「う-…………」

手のひらで顔を覆いながら、小さく呻いて。
やがて彼は、観念したように大きな溜息をひとつ吐くと、微かな声でぼそりと呟いた。

「蜘蛛の、糸……」
「え……?」

もともと大きな目を、一層大きく見開いて、織姫が一護を見つめる。

「……お守り、に。
どこまで行っても、何が起こっても、ここに……現世に、俺のままで戻ってこられるように………」

視線を自身の足下に落としたまま、ぼそぼそと言葉を紡ぐ一護。
その彼を見つめる織姫の瞳が、一瞬、悲しげな光を湛えて揺れた。

彼女は、知っているから。
彼自身が恐れる、彼のもう一つの姿を……。

「黒崎君………」

口の中だけで小さく切なげに、隣で俯く少年の名を呟いて。
だかしかし。次の瞬間、彼女は一転、場違いな程に明るい声を出して言った。

「私の髪なんかが、お役に立つなら……どうぞ?」

ゆっくりと、一護が織姫に顔を向ける。

「どれだけ御利益有るかは、保証できないけど?」

おどけて笑う彼女の顔を、じっと見つめて。
やがて一護は、その顔を柔らかく笑み崩して、彼女に告げた。

「ありがと、な?」

織姫はただゆっくりとかぶりを振ると、黙って彼に静かな微笑みを返したのだった。




 

すっかり陽が落ちてしまった空座町。
街灯が灯る道を、二人並んで歩く。

「もしよかったら、小さい袋か何か、縫ってあげようか?」

髪の毛入れる用に…と、隣を歩く一護に提案する織姫。

「明日、部活有るから。その時にでも」
「んー……」

彼は、しばし天を仰いで思案して。

「……じゃ、頼もうかな」
「了解でっす!」

おどけて敬礼する織姫に、彼は思わず苦笑を向ける。
そして。

「くれぐれも言っとくけど、苺のアップリケなんざ絶対に付けんなよ?」

半ば冗談、半ば本気で、そう口にした一瞬の後。

「えぇえええっ?! 何で?!」

大仰に、落胆の声をあげる織姫。

「な、な、何でって、お前……」

唖然として、彼は彼女を見下ろして。

「本気で付ける気だったのかよっ?!」
「だって、きっと可愛いよ?」
「可愛くせんでいいっ! 持つのは俺だ!!
頼むから、無難なのにしてくれ。
欲を言えば、渋めにつくって欲しい!!」
「じゃあ、藍染の布に刺し子で苺の刺繍を……」
「だーかーらっ! 苺はいいんだよ、苺はっ!!!」

ついつい、声が大きく荒くなる一護。
そんな彼の様子に、胡桃色の髪の少女は肩を揺らしながら、くつくつと声を立てずに笑う。
からかわれたのだと悟った一護は、眉間に一層の深い縦皺を刻みながら織姫を一瞥すると
「……行くぞ」と言いながらく踵を返して、さっさと歩き出した。

「こめん、黒崎君、待って……」

ぱたぱたと駆け寄ってきた織姫が、再び隣に並んで歩き出す。
そっぽを向いたまま、一護は憮然としてつぶやいた。

「俺で遊ぶなよ」
「ごめんなさい」

殊勝に謝る少女をちらりと見て、ふうっとひとつ、彼は溜息をつく。
そのまましばらく、黙って歩を進めて。

「……話、変わるけどよ」

おもむろに切り出された一護の声に、何かしらいつもと違った響きを感じた織姫は、頭ひとつ高いところにある彼の顔を、ゆっくりと振り仰いだ。
見つめる彼女の視線の先で、顔を前方に向けたままの一護が言う。

「この先クラスが違っても、都合がつく日は一緒に帰らないか?」

ゆっくりと大きく見開かれていく、織姫の目。
何気なく振り返って、その彼女の表情の変化を目の当たりにした一護は、急に羞恥の心がこみ上げてきて。

「あ、いや…その、なんだ……えっと……」

視線を落ち着かなくさまよわせながら、早口でまくしたて始める。

「図書館で勉強したりとか、参考書探しに行ったりとか、塾にも行かねぇで学年トップ3維持してる井上が一緒なら、ガッコのテストも受験勉強も、すんげぇ心強いし、そんで……」

ふっとそこで、一護は口をつぐんだ。
何故なら。

織姫が、あまりにも真剣な眼差しで、自分を見ていたので。
まっすぐに。ひたすらまっすぐに。
静かに、ひたむきに、彼をみつめていたので。


逃げることは、多分簡単だった。
実際、そうしかけた。
だけど…笑って誤魔化そうとした正にそのとき、脳裏にまざまざと蘇ったのは………。


『たとえば突然、自分の命がつきる瞬間がきても
悔いはないと胸を張って笑えるような
そんな人生を送りなさい……
いつも全力で、他人(ひと)と向き合いなさい……』


懐かしい懐かしい、あの人の言葉。
  
……だから彼は。
ここを正念場と覚悟して。
大きく深呼吸すると、臍の下にぐっと力を入れた。


そして。 


「そばに、居てくれ」
「黒崎君……」
「隣に、居て欲しいんだ。いつでも、どこでも、どんなときでも」
「……く…ろ…さき……くん……?」
「俺な……井上を……」

 
好きだよ……?


言ったとたん、真っ赤になってそっぽを向いた一護。
その顔を見上げる少女が、頬をほんのり染めながら、ためらいがちに口を開く。


私で、いいの……?


聞き取れないくらいの微かな声が、形の良い唇からこぼれる。

「井上が、いいんだ………」

そっと差し出す、己の手。
おずおずと触れてきた一回り小さく華奢な手を、そっと包み込むように握って。

「井上は……? 俺で、いい?」

織姫は、ふるふると小さく首を横に振って。

「……で、じゃなくて、が」
「え?」
「私も……黒崎君が、いい」
「そっか……」

こくり。
俯いたままの少女が頷く。

「じゃあ……これからも、よろしくな?」

もう一度、しっかりと首を縦に振って、泣き笑いの表情で織姫が一護を見上げる。
どきりと飛び跳ねる心臓。だけど彼は、それを彼女には悟られたくなくて。

「遅くなった。帰ろう……」

少しばかり乱暴に、織姫の手を引いて歩き始めた。




「黒崎君……」
「何だ?」

恐らくは未だ朱に染まったままであろう自分の顔を見られたくなくて、一護は振り返らないままに返事をする。

「あのね…私……私はね……」


……とってもとっても、諦めが悪いの。


その言葉とともに、つないだ手を握り返してきた織姫の、その指から伝わる力の強さに。
一護は思わず、足を止める。
振り返れば、薄茶色の瞳に、なんとも言われぬ力強い光を湛えた織姫がそこにいて。
ゆっくりと、ゆっくりと、彼女が言葉を紡ぐ。

「お釈迦様は、一度で諦めてしまったけれど……私は。
私はきっと、諦めない。
何度切れても……絶対に諦めない」
「……井上」
「それでもし、全ての糸が切れてしまって、為す術を何ももたなくなったら、その時は私が………」


黒崎君と同じものになる。
同じ場所で、生きていく。


「井上………」

凛として言い切られたその言葉に、一護の胸がじわじわと熱くなる。
彼女の言葉が、自分に対する想いが、あんまり嬉しくて、嬉しすぎて、笑ったらいいのか泣いたらいいのかも、わからなくなって。
 
つないだ手に力を入れて。
彼女の体を、少しだけ自分の側に引き寄せて。
ふわり……と体をゆっくりくの字に傾けた一護は、そっと彼女の肩口に自分の額を押しつけた。

「黒崎、く…ん………?」

彼の行動に戸惑う織姫の、その耳にだけやっと聞こえる小さな小さな声で、一護はそっと呟く。



ありがとな?………………と。






始まったばかりの、淡く不器用な二人の恋を。
月と星だけが、そっと見ていた。

  







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