忘却のアライブ 短編、セルフ二次
嫌よ嫌よも好きのうち。そんな言葉は誰が言っただろうか。本当にそうだったならずっといい。蓮は自分の髪を弄りながら、同じ部屋で職務に取り掛かる男を見る。
下を向いていると前髪が長いせいか、表情が良く見えない。真面目に椅子に座り、書類を書くカノンの姿は、どこかおかしかった。この男は事務など嫌いなはずだったが。向き合った机が似合わない。
あの頃と比べて随分偉くなったものだな、と眺めて、ぼやぼやと物思いにふける。それは自分も同じか、と気づき、誰に向けるでもない自嘲の笑みを零した。一人で笑っていると、カノンがふと顔を上げる。目が合い、変な間が開く。
「……何を笑っている、気色が悪い」
「なーにも?」
蓮がふざけて笑い返すと、カノンは怪訝な顔をした。こうやって見ていると本当に昔の姿にそっくりだな、と感傷に浸る。すらりとした肉体もサラサラと艶やかな髪も、整いすぎた顔立ちも、かつては自分のものであったというのに。美しすぎる彼の隣に立つためにこんなに自分も美しくなったのに、困ったものだと蓮は溜息を着いた。もう隣に立つ資格などないし、ましてや彼は彼であっても彼ではない。またカノンは下を向いてしまい、それ以上愛しい顔は拝めなかった。
来客用のソファの上で脚を組み、目の前の豪華な机に専用のカップを置く。今日の紅茶は一段と不味い。紅茶に浮かんだ蓮の顔は酷く滑稽な表情をしている。今度は前髪を弄ってみると、枝毛を発見した。シャンプーには気を使っているのに。
勝手に百面相をしている蓮が面白くないのか、カノンもまた、不機嫌そうに声をかける。
「お茶を飲むなら他に行ってくれ」
「僕はここがいいんだ」
「視界がうるさい」
「僕に友達が少ないの、知ってるだろう」
「エリオットの所にでもいけばいい」
「残念、今職務中」
「私も職務中だ」
ペンを滑らせ、こちらに視線を向ける様子もない。そこがまた、腹立たしい。
蓮には友達が少なかった。コミュニケーションが苦手な訳ではない。自分の素性がばれるのが嫌なのだ。必要以上に関わると、ろくなことがない。うまく振る舞えないのだ。どうやって他者と関わればいいかわからない。自分に酔うか、他者に酔うかしかしたことがない。
かつて自分の素性がばれた時に取り繕ってくれたのは、そういえば目の前で必死に書類を書いている男だったか。
カノンは別人であっても、その根底はやはり過去のままだと、愛しくなったのを覚えている。そんなことをされては、期待してしまうではないか。そう思ったことも覚えている。また、元のように、なれるのではないかと。記憶もないのに、無理な話なのは知っているが。何を犠牲にしたら彼の視線がこちらに向くのか。犠牲にするものもないのに。結局こうやって、過去に捕らわれて生きていくしかないのだと夢の続きを空想する。
夢は幻。叶わないから夢。でも、見る事くらいは自由だ。蓮はソファから立ち上がる。職務中のカノンに近寄り、書類を覗きみた。
「始末書」
「読むな」
「また誰か、ビルを壊したの」
「……部下の尻を拭くのも上司の役目だ」
蓮が知っている限りのカノンはこんなことを言う男ではなかった。日に日に思い出の中の姿に近くなっていく彼を見ていると、歯がゆく、苦しい。今の彼を支えているのは、自分ではない。憎い。カノンも、その周囲も。でも、殺せない。そんなことは蓮も、カノンも望んでいない。それこそ、無駄な争いと憎しみを生む。
今度はカノンの顔を覗き込むと、心底嫌そうな顔をされた。そこまで嫌がらなくても。これではまるで、迫っているようだ。
「なんだ」
「そんなに嫌?」
「また変ないたずらをされたら嫌だからな」
「変じゃなかったらいいの」
「そういう問題じゃない」
「僕の事嫌いでしょ」
「興味がない」
「……残酷」
カノンの手が伸び、蓮の肩を押し返す。蓮より少し大きな手は、昔握ったことがあるものだった。いつだってあの頃のままだと信じていたのに。布越しの感覚がいやにノスタルジアを感じさせる。目が覚めて、ほんのり泣きそうになる。いつだって後悔と、あの日々に縋り付いているから。カノンには、久しぶりに触れられたかも知れない。ただ一瞬のことだったのに、自分の中にこんなにもセンチメンタルな部分があったのは意外だった。目を開き、自分で自分に驚く。
横に突っ立ったままでいると、今度こそ「仕事の邪魔だ」と文句を言われた。今まで愛憎の混じった感情をぶつけてきたのだ、嫌われているのは当たり前か。悲しい反面、これ以上嫌われないのだと嬉しくもなる。蓮の身体は、無意識に再度、カノンに迫る。どこか心の奥底で渇望していたのだろうか。心は何も返しはしない、涙の音がするだけだ。近寄ると、懐かしい匂いではなく、どこかで嗅いだことのある匂いがした。
「……坊やの匂いがするね」
「坊や?」
「赤羽海斗」
「……気のせいだろう」
カノンの頬が、ほんのり朱に染まる。解りやすい性格だ。こういうことがらに関してシャイな部分は、昔から変わらない。硬派なのだろう。そのまま匂いを嗅ぎ、肩に手を置く。男らしい肩だ。憧れていた、肩だ。
「ねえ」
「……寄るな」
「僕が抱きしめてっていったら、抱きしめてくれる?」
「はぁ?」
「キスは? してっていったら、してくれる?」
「するわけないだろう」
「……そうだよね」
「変ないたずらはやめてくれ」
カノンに手をパッと払われる。いたずらではないのに。今さら信じてはもらえない。今までおかしなちょっかいを掛けてきた。本当はこの姿でも愛し合えたら、良かったのに。変わってしまったのは、カノンではない。蓮の方だ。過剰に意識をして、理想の英雄を押し付けるだけになってしまった。頭の中で笑い、目の中には雫を押し込む。一度だけの過ちなら、神様は許してくれないだろうか。
顔を接近させて、への字に曲がった口に触れるだけ、唇を重ねてみた。
「――っ!」
「わっ、と」
今度は全力で跳ね除けられた。あまりに力が強かったので、蓮はへたりと尻餅をつく。カノンは椅子から立ち上がり、信じられないような顔で蓮を見ていた。心底嫌いなものに向けられる視線だ。なんとなく、わかる。こんな顔が見たい訳ではないのに。得られたかも知れないものを、もしかしたら全て捨ててしまったのかも知れない。
「……何するんだ」
「何って」
「いたずらにも程があるぞ」
「そんなに僕のこと嫌いなんだ」
「……興味がないって、言っているだろう」
「そう」
尻餅をついたまま、カノンを見上げる。興味がない。蓮にとっては一番傷つく言葉だ。嫌いでも好きでもない。それ以上の発展もない。興味が湧くならそれでよかった。他の奴らは嫌いだとか、好きだとか、色々な感情を向けてくるのに。嫌いと言って貰えるなら、いっそのことその方が幸せだった。もうこんな想いは抱かなくて済むのだから。優しいから、嫌いなんて言葉を言わない。それは好感度にプラスもマイナスもないと言うこと。優しい? 嘘だ。優しいフリだ。傷つけないように、気を使っているのだ。本当に、こういうところが憎い。興味がない癖に、気ばかり回すところが。大嫌い。
ゆっくりと蓮が立ち上がる。お互い睨み合ってから、距離を取る。
「……じゃあ、僕はお暇するよ。その顔が見れただけでも収穫だ」
「二度とくるな」
「また遊んであげる」
様にならない捨て台詞を吐き、蓮はひらひらと踊るように歩く。痛い視線を背中に受け手、執務室を出る。廊下は静かだった。扉を背に、こっそり泣いた。
「何やってるんだろう、僕」
自分で自分を笑う。はたはた、雫が床に落ちて、小さな水たまりを造った。また一つ、夢から遠ざかる。大切だった彼の笑顔を捨てる代わりに、彼の軽蔑を手に入れてしまった。扉は何も返さず、冷たく蓮を支えた。
下を向いていると前髪が長いせいか、表情が良く見えない。真面目に椅子に座り、書類を書くカノンの姿は、どこかおかしかった。この男は事務など嫌いなはずだったが。向き合った机が似合わない。
あの頃と比べて随分偉くなったものだな、と眺めて、ぼやぼやと物思いにふける。それは自分も同じか、と気づき、誰に向けるでもない自嘲の笑みを零した。一人で笑っていると、カノンがふと顔を上げる。目が合い、変な間が開く。
「……何を笑っている、気色が悪い」
「なーにも?」
蓮がふざけて笑い返すと、カノンは怪訝な顔をした。こうやって見ていると本当に昔の姿にそっくりだな、と感傷に浸る。すらりとした肉体もサラサラと艶やかな髪も、整いすぎた顔立ちも、かつては自分のものであったというのに。美しすぎる彼の隣に立つためにこんなに自分も美しくなったのに、困ったものだと蓮は溜息を着いた。もう隣に立つ資格などないし、ましてや彼は彼であっても彼ではない。またカノンは下を向いてしまい、それ以上愛しい顔は拝めなかった。
来客用のソファの上で脚を組み、目の前の豪華な机に専用のカップを置く。今日の紅茶は一段と不味い。紅茶に浮かんだ蓮の顔は酷く滑稽な表情をしている。今度は前髪を弄ってみると、枝毛を発見した。シャンプーには気を使っているのに。
勝手に百面相をしている蓮が面白くないのか、カノンもまた、不機嫌そうに声をかける。
「お茶を飲むなら他に行ってくれ」
「僕はここがいいんだ」
「視界がうるさい」
「僕に友達が少ないの、知ってるだろう」
「エリオットの所にでもいけばいい」
「残念、今職務中」
「私も職務中だ」
ペンを滑らせ、こちらに視線を向ける様子もない。そこがまた、腹立たしい。
蓮には友達が少なかった。コミュニケーションが苦手な訳ではない。自分の素性がばれるのが嫌なのだ。必要以上に関わると、ろくなことがない。うまく振る舞えないのだ。どうやって他者と関わればいいかわからない。自分に酔うか、他者に酔うかしかしたことがない。
かつて自分の素性がばれた時に取り繕ってくれたのは、そういえば目の前で必死に書類を書いている男だったか。
カノンは別人であっても、その根底はやはり過去のままだと、愛しくなったのを覚えている。そんなことをされては、期待してしまうではないか。そう思ったことも覚えている。また、元のように、なれるのではないかと。記憶もないのに、無理な話なのは知っているが。何を犠牲にしたら彼の視線がこちらに向くのか。犠牲にするものもないのに。結局こうやって、過去に捕らわれて生きていくしかないのだと夢の続きを空想する。
夢は幻。叶わないから夢。でも、見る事くらいは自由だ。蓮はソファから立ち上がる。職務中のカノンに近寄り、書類を覗きみた。
「始末書」
「読むな」
「また誰か、ビルを壊したの」
「……部下の尻を拭くのも上司の役目だ」
蓮が知っている限りのカノンはこんなことを言う男ではなかった。日に日に思い出の中の姿に近くなっていく彼を見ていると、歯がゆく、苦しい。今の彼を支えているのは、自分ではない。憎い。カノンも、その周囲も。でも、殺せない。そんなことは蓮も、カノンも望んでいない。それこそ、無駄な争いと憎しみを生む。
今度はカノンの顔を覗き込むと、心底嫌そうな顔をされた。そこまで嫌がらなくても。これではまるで、迫っているようだ。
「なんだ」
「そんなに嫌?」
「また変ないたずらをされたら嫌だからな」
「変じゃなかったらいいの」
「そういう問題じゃない」
「僕の事嫌いでしょ」
「興味がない」
「……残酷」
カノンの手が伸び、蓮の肩を押し返す。蓮より少し大きな手は、昔握ったことがあるものだった。いつだってあの頃のままだと信じていたのに。布越しの感覚がいやにノスタルジアを感じさせる。目が覚めて、ほんのり泣きそうになる。いつだって後悔と、あの日々に縋り付いているから。カノンには、久しぶりに触れられたかも知れない。ただ一瞬のことだったのに、自分の中にこんなにもセンチメンタルな部分があったのは意外だった。目を開き、自分で自分に驚く。
横に突っ立ったままでいると、今度こそ「仕事の邪魔だ」と文句を言われた。今まで愛憎の混じった感情をぶつけてきたのだ、嫌われているのは当たり前か。悲しい反面、これ以上嫌われないのだと嬉しくもなる。蓮の身体は、無意識に再度、カノンに迫る。どこか心の奥底で渇望していたのだろうか。心は何も返しはしない、涙の音がするだけだ。近寄ると、懐かしい匂いではなく、どこかで嗅いだことのある匂いがした。
「……坊やの匂いがするね」
「坊や?」
「赤羽海斗」
「……気のせいだろう」
カノンの頬が、ほんのり朱に染まる。解りやすい性格だ。こういうことがらに関してシャイな部分は、昔から変わらない。硬派なのだろう。そのまま匂いを嗅ぎ、肩に手を置く。男らしい肩だ。憧れていた、肩だ。
「ねえ」
「……寄るな」
「僕が抱きしめてっていったら、抱きしめてくれる?」
「はぁ?」
「キスは? してっていったら、してくれる?」
「するわけないだろう」
「……そうだよね」
「変ないたずらはやめてくれ」
カノンに手をパッと払われる。いたずらではないのに。今さら信じてはもらえない。今までおかしなちょっかいを掛けてきた。本当はこの姿でも愛し合えたら、良かったのに。変わってしまったのは、カノンではない。蓮の方だ。過剰に意識をして、理想の英雄を押し付けるだけになってしまった。頭の中で笑い、目の中には雫を押し込む。一度だけの過ちなら、神様は許してくれないだろうか。
顔を接近させて、への字に曲がった口に触れるだけ、唇を重ねてみた。
「――っ!」
「わっ、と」
今度は全力で跳ね除けられた。あまりに力が強かったので、蓮はへたりと尻餅をつく。カノンは椅子から立ち上がり、信じられないような顔で蓮を見ていた。心底嫌いなものに向けられる視線だ。なんとなく、わかる。こんな顔が見たい訳ではないのに。得られたかも知れないものを、もしかしたら全て捨ててしまったのかも知れない。
「……何するんだ」
「何って」
「いたずらにも程があるぞ」
「そんなに僕のこと嫌いなんだ」
「……興味がないって、言っているだろう」
「そう」
尻餅をついたまま、カノンを見上げる。興味がない。蓮にとっては一番傷つく言葉だ。嫌いでも好きでもない。それ以上の発展もない。興味が湧くならそれでよかった。他の奴らは嫌いだとか、好きだとか、色々な感情を向けてくるのに。嫌いと言って貰えるなら、いっそのことその方が幸せだった。もうこんな想いは抱かなくて済むのだから。優しいから、嫌いなんて言葉を言わない。それは好感度にプラスもマイナスもないと言うこと。優しい? 嘘だ。優しいフリだ。傷つけないように、気を使っているのだ。本当に、こういうところが憎い。興味がない癖に、気ばかり回すところが。大嫌い。
ゆっくりと蓮が立ち上がる。お互い睨み合ってから、距離を取る。
「……じゃあ、僕はお暇するよ。その顔が見れただけでも収穫だ」
「二度とくるな」
「また遊んであげる」
様にならない捨て台詞を吐き、蓮はひらひらと踊るように歩く。痛い視線を背中に受け手、執務室を出る。廊下は静かだった。扉を背に、こっそり泣いた。
「何やってるんだろう、僕」
自分で自分を笑う。はたはた、雫が床に落ちて、小さな水たまりを造った。また一つ、夢から遠ざかる。大切だった彼の笑顔を捨てる代わりに、彼の軽蔑を手に入れてしまった。扉は何も返さず、冷たく蓮を支えた。
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