二章
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カノン・グラディウスという男の容姿は、並んで歩くだけで辺りを絵画的にでも変えてしまう。黙っていればその周辺は、どんな画家でも敵わないような作品になる。海斗のような平凡な顔のヒトからすれば、羨ましい話だ。ただ、今日は酒臭いのが難点である。
カノンは先ほどまで哲郎と酒を飲んでいた。仕方ないと思いながら、段々と彼の言動が酔い故の本心なのかわからなくなってくる。
酒に酔っている時は本能が動くと聞く、嘘ではないと信じたい。
静かな田舎道を、二人ぽつぽつ歩く。本当はかなり酔っていたのだろう。一仕事終えてどこか眠そうなカノンが面白くなって、自宅まで手を引いた。抵抗をするでもなくカノンは海斗に手を引かれるまま、ゆっくりゆっくり、歩を進める。
うつらうつら、海斗の後ろを着いて来る様子は普段よりも素直で可愛らしく、より一層愛おしくなった。
コンクリートの道と緑の生垣で囲まれた一軒家を沢山通りすぎて、ようやく家に辿り着く。随分走ったものだ。こんなに我儘な距離を、カノンは追いかけて来てくれた。普段は無愛想なのに。
家に着いてから、すっかり消灯されてしまった室内を見渡す。哲郎はというと、海斗やカノンを待ちくたびれたのか、居間で大きないびきを響かせていた。
はなから期待はしていない。どうしようかと考えて、二階の自室へ階段を上る。何を疑うでもなく、カノンは手を繋いだまま海斗に引かれていく。
少し古いドアを開けて部屋に入ると、中学校の頃からなんの代わり映えもしない風景が二人を出迎える。
とりあえずベッドに引っ張って、共に座る。座ってそのまま眠りそうなカノンの背中を、海斗はそっと撫でて体調を伺う。
「……大丈夫? 水、飲む?」
「……ん」
カノンから小さな返事が聞こえ、さらに小さく首が縦に動く。了承を得てから、カノンが眠らないうちに一階のキッチンへ向かう。
高い位置にある戸棚に手を伸ばし、適度な大きさのグラスを探す。昔使っていたマグカップを引っ張り出し、どことなく幼少の頃を思い出した。
昔は、このカップにオレンジジュースが入っていた。今は蛇口をいっぱいに捻って、水を入れる。蛇口が回されてきゅ、きゅ、と鳴き声を上げると、吐き出す水の勢いが多くなる。
カップいっぱいに水が満たされてから、蛇口を今度は反対に回す。完全に締まったことを確認してから、暗い家の中の階段を上る。
律儀に自分の部屋のドアを叩く。叩いたところで返事は確認しないまま、部屋に入る。案の定もう夢の世界へ旅立ちそうなカノンの頬に、水の入ったぬるいマグカップを押し当てる。
鬱陶しい、そんな表情をしたカノンが不機嫌にカップを受け取る。そのまま眠りたかったのだろうか。
海斗はベッドの空いたスペースに寝ころがって、水をちびちび飲むカノンを見守る。慰めたり、眠そうにしたり、無愛想だったり、本当に自由だ。
「なあ、カノン……俺、自分の好きなように生きていいんだよな」
「そうだな」
唐突に切り出した話題に、カノンはいちいち答えてくれる。酔っぱらいながらも律儀なところが、可笑しい。
「戦うためじゃなくて、いいんだよな」
「自分の望まない道や行き方は、辛いに決まっている」
「その方が楽かも知れない」
「それで本当にいいのか?」
「……わからない」
「自分のやりたいことは? 心のそこから好きになったヒトは? これから先の、無限の可能性は? 全て仕方ないからと言って、捨てるのか?」
目を伏せて、考える。
「……嫌だ」
「そうだろう? それが当たりまえの感情なんだ」
「俺の感情なんて、優先していいのかな」
「良いんだ、自分の気持ちに素直になれ。 自分の人生に何を躊躇う必要がある」
「誰かが不快になるかも知れない」
「他人の顔色ばかり気にして、何になる」
「……何にも、ならない」
「時には誰を思いやることも大切だ。だが、他人にばかり縛られて自己を失うな」
「自分の人生は、自分の意志で決める?」
「そうだ。自分の気持ちに従うことは、悪ではない」
「カノンは、俺がそうした方がいいのか?」
「聞くな」
「じゃあ、どうしたら」
「海斗がそうしたいと思うのなら、そうしろ」
カップの水を飲みほしたカノンが、ベッド脇のデスクにカップを勢いよく置く。「寝る」と一言高らかに発言して、そのまま勝手にベッドに横になった。
寝そべったままの海斗はベッドから追い出され、床の上で目を丸くする。何勝手にヒトのベッドで寝ているのだ。
「カノン?」
そのまま、すうすうと寝息を立てる音が聞こえる。もう一度彼の名を呼ぶと、完全に夢の世界に旅立った美丈夫な男がごろん、と寝返りをうち、海斗の方へ向く。これで意識がないというのだから、不思議なものだ。
閉じた薄い唇は緩やかに結ばれ、睫毛の長い目元は酒でほんのり赤く染まっている。
改めて、暴力的なほど整った顔面だ。人形だって嫉妬するだろうカノンのひとつひとつのパーツは、思春期の海斗の目には充分すぎる程の毒であった。
「なんだよ、勝手に寝るなよ……」
恨めしい顔をして、海斗はベッドのシーツを握る。心臓がやけにうるさい。最悪だ。寝るなとでも、いうのだろうか。
患った少年の心は葛藤をしながら、長い長い夜を迎えた。