二章
◇
街灯がほとんどない田舎街は、住むにはどうにも不便すぎる。なんでもある艦内にいると、今の環境はどこか不安な気持ちになった。何もないのだ、ここには。海斗の求めるものが、何も。
守るべきものはある。けれど、誰も、守ってくれない。
しばらく辺りを彷徨った。漠然と、寂しさが襲う。結局は、独りなのだ。行き着いた公園のベンチにぼんやり、誰にも気づかれないように座る。くすぶり続ける痛みが、誰かに吐き出したいと叫びを上げている。
足元の砂はざらついているのに吸い付いてきて、靴底を汚す。きつく口元を結んで、鼻から荒く息を吸う。落ち着こうと、必死に。
遠くから足音が聞こえる、こちらに迫る軽やかな音。音だけでわかる、わかってしまうのだ。
彼は冷たいフリをして優しいから、そうやって、心の隙間に、入って来るのだ。
「海斗、」
「……カノン」
きっと探し回っていたのだろう、少し息が上がっている。心配したと言いたげに細められた瞳が、酒のせいなのかは知らないが、薄ら膜を張っていた。
名前を呼んで、互いの機嫌を伺うように見つめ合って、目を逸らして。ひっそりと風が海斗を撫でて、カノンの髪を闇夜に散りばめる。
夏の夜は暑い。ふと思い、汗ばんだ額をTシャツで拭う。何か言わなくては。いや、言わなくてもいいんじゃないか?
何も言わなければ、言わなければ何も進まないけれど、言葉が口から出ていくことを恐れている。
「カノン、俺さ」
「……なんだ」
「……」
「……」
いつもそうだ。気まずくなってしまった時、カノンと二人の時、何を話していいかわからなくて、静かな時間の流れがもどかしくて、それでも嬉しくて、なにを発するか、迷って。
恋の駆け引きに似た沈黙は海斗をずっと暖かく、包む。
耐えきれなくなったのか、カノンが海斗の横に座る。二人掛けのベンチに男が二人。
独りだと広いように感じた木製のベンチが、二人だと狭くて、それでも居心地が良さ気にキシ、と鳴いた。
距離が縮まると、気持ちが一層ない交ぜになる。渦巻く不安と恐怖と、期待。
「海斗、哲郎のことは嫌いか」
「嫌いじゃないけど、どう接していいかわからない」
「あいつも同じことを言っていた」
「……父さんも?」
「不安なんだよ。どう接するのが正解か、わからないから」
哲郎は良い意味でも悪い意味でも、心配性なのだろう。嫌われることが怖くて、だからいつだって正しいことを探そうとして、接し方がわからない。
コミュニケーションに正解などないのに。回り道をして、何度も迷子になって、そうして関係が積み重なっていく。過ちだって、正しい会話なのだ。多くの関わり、会話の積み重ねで、わかりあえる。
海斗と哲郎は、極端に正解の道ばかり探そうとしていた。無意味なことは何もないのに、時間をかけるのは嫌だから、結論ばかり急いで。
そうしたらいつの間にか、親子の関係は何が正解なのか、わからなくなってしまった。こんなところ、似ても仕方がないのに。
早くこうなりたい、ああなりたい。理想の自分であり続けたい、理想の関係であり続けたい。理想からかけ離れるのが不安で、迷っていたら結局理想から遠のく。
行動をしなかったのは、海斗も哲郎も同じだ。だからこんなに捻くれてしまって、他人に素直じゃなくて。直接、聞かないと満足できないのだ。言葉で聞かないと。
「父さんは俺のこと、大切じゃないのかなって」
「そんなことは思っていない」
「嘘だよ」
「何が」
「別に、俺のことなんて気にかけてない癖に」
「どうでもいい奴に世話など焼かん。私も、哲郎も」
分かり切っている癖に、カノンに言葉で答えを求める。安心したい。確信が欲しい。独りで考えるのは不安で。
不安を断ち切るために、孤独であるという想いを捨てるために、愛が欲しい。哲郎が海斗をたった一回怒ったのは、海斗を心配した現れだ。カノンがこうやって海斗を慰めてくれることだって、海斗を大切に思ってくれている証だ。
意地らしい。自分の満たされない感情の隙間を埋めるために、優しい言葉をかけて貰って。
認めて欲しい。戦いの中の自分ではなく、赤羽海斗というヒトとして、大切にされたい。ずっと、我慢していた欲求なのに。蓋をしていたハズなのに、些細なきっかけで、蓋が開いてしまった。
母親の存在に憧れていた。家族に憧れていた。誰でもいいから、海斗を肯定してくれる絶対的な味方が欲しかった。独りは、怖い。
ぼろぼろと涙が零れてきて、今までの自分は間違っていなかったんだと、間違っていてもこれから許されればいいのだと、虚しくも肯定されたがっている。
膝を抱える。ベンチの上で体操座りなんて、お行儀が悪いのは承知だ。心が押しつぶされそうになると、癖で自分を守ろうとする。
自分が怖い。哲郎が怖い。カノンが、怖い。何をしても失われない、無償の愛が欲しい。誰にも求められなかった自分を、求めて欲しい。承認欲求。
自分で道を選んだつもりで、結局は敷かれたレールの上を歩いていた。最初から、戦うためにここにいるのだろうか。海斗の意志などなかったのだろうか。死んだ母に決められた運命。自分で歩いてみようと思っていた道は、偽りだった。
何をすれば、どうすれば、海斗は正しいと、生きていることを認められるのか。迷いばかり、海斗を責める。
「わかんないよ、俺。 本当は必要なくて、戦わないなら、生きてなくていいんじゃないかって」
「……戦わないといけないヒトなんて、いない」
「でも、力がないと、役割がないと、誰も守れない。 ここにいちゃ、いけないのかも知れないって。 段々、怖くなって。 母さんは俺のこと、最初から戦いのために産んだのかな」
「そんな訳、ない」
「……なあ、カノンも俺のこと、そういう風に見てるのかな」
「見てない」
「……嘘」
「本当」
「じゃあ、なんで優しくするんだ」
「海斗、お前を大切にすることに、理由がいるのか」
「それ、は」
「海斗、私は……お前の居場所には、なれないのか?」
「違う、ただ……」
言わせたかった癖に。求めて欲しかった癖に。いざ優しくされると、今度は嬉しさで涙がでて。鼻水が止まらない、鼻を啜るので必死だ。
カノンが海斗を覗き込み、ポケットからシンプルなハンカチを出して、海斗に渡す。
汚していいものか、躊躇ってから、ハンカチを受け取る。顔にハンカチを当てて、見られないように謙虚に隠した。
「カノン、ごめん、俺」
「……どうした」
「怖くて」
感情の整理をする。ひとつひとつ、カノンに聞いてもらうことで、自分の感情も思考も、この世でたった一つ存在していてもいいのだと。無限の波にもまれながら、自分の存在意義を見出そうとしている。
「カノンに嫌われることが、捨てられることが、俺の存在意義がなくなることが、怖くて」
「捨てたりなんてしない」
「それでも、想像すると怖かった。 俺、自分の生きる意味なんてわからない。だから、お前に手を引いて貰えないと、確証がなくて歩けない。 自分で決められないんだ、自分のことなのに」
「誰だって、誰かに嫌われることも、自分の道を歩くことも、怖い」
「目的のための道具と自分を認めてしまうことも、嫌で」
「当たり前だ」
「なあ、俺、存在する意味があるだけで幸せなのに、おかしいのかな」
「おかしくなんてない」
「俺って……愛されてるのかな」
「……勿論」
いつものように頭を撫でられる。母は、父は、海斗をこんな風に撫でてくれただろうか。あったのかなかったのか、分からない思い出を記憶の片隅に追いやる。
再確認するように言葉を紡ぎながら、カノンに縋り付く。カノンがほんのりためらってから、そっと抱きしめてくれる。近くに、いる。鼓動の音が聞こえる。
逃げない。カノンは、海斗がどんなに弱くても、逃げない。目を逸らさない。最後まで、味方。
問いかける。この意味が、正しく伝わるかはわからない。隣にずっといてもいいのかと、弱弱しく確かめる。
「ここにいても、いいのかな」
「ああ……ここに、いればいい」
心臓がざわめく。息が苦しい。泣いているから、それだけではない。強がった心が一つ安堵の溜息を零している。
カノンの背中に、腕をきつく回す。今顔を上げると歪んだ顔を見られてしまうので、彼の胸に顔を埋める。
「……海斗?」
「なんでも、ない……なんでも」
声を上げるわけでもない、我慢しながら、それでも精一杯に甘えて、海斗はひたすらに泣いた。
なんでもないのだ、なんでも。明日には、いつものようになれるのだから。今はこうやって、もたれ掛ったっていい。それが許されるから。
何もかもをさらけ出せる相手。母でも、父でもない、それが、カノンだったというだけだ。
公園に、二人のシルエットが浮かび上がって、その瞬間だけがこの世の何もかもから切り離された。