二章
◇
父はいるだろうか、いないだろうか。少しぼろい、小さな一軒家。まだ日本の文化を残した形状の家屋は、海斗の祖母の代からここにある。
久しぶりに帰宅したもので、なんて顔をすればいいかわからない。士官学校は宿舎だったため、海斗は十五歳の頃から三年間、ここに帰っていない計算になる。
もう父の顔――赤羽哲郎の顔も記憶の中どこかおぼろげだ。半場飛び出すように家を出たため、連絡だって取っていない。
玄関でまごつく。チャイムを押そうとして、躊躇って、海斗はようやく自分の家の呼びベルを鳴らした。この家には今、哲郎しか住んでいないはずだ。
家の奥から、面倒そうな声と合わせてどたどた、大げさな足音。息を呑む。ドアノブが回り、ひかえめに扉が開いた。
「はいは……い」
「……」
「おま、え」
「……ただい、ま」
「……おかえり」
「うん……」
「おかえり、海斗」
家主である男が目を見開いて、静かに驚いてから、息子の帰還に不器用に笑う。以前の記憶と変わらない、無精髭に纏まらない青い髪と、気だるそうな赤い瞳。
父親の哲郎につられて、海斗も困った風に笑う。なんだ、案外、普通じゃないか。
二人で戸惑うだけ戸惑って、ようやく家に入る。家の鍵を閉めてから中を見渡すと、何も変わっていなくて、緊張はあっという間に消え去った。
廊下に置かれた小さな棚とその上の固定電話機も、居間に入る時の暖簾も、趣深い食卓セットと古い形式の冷蔵庫が置かれた台所も。変わらない我が家の何もかもに涙が出そうになった。
自分は今、家にいるのだ、と。家のことなんて忘れたつもりだったのに、いざこうやってこの場に立つと、何とも言えない感情が込み上げてきて、海斗を嬉しいような悲しいような気持ちにさせた。
台所で突っ立っていると、哲郎が何年か前に見たコップに、麦茶を淹れて持ってきてくれた。口をつけると市販の麦茶の味がして、やっぱり変わってないな、とまた妙な気持ちが海斗を襲った。
「……母さんに、手、合わせとけよ」
「うん」
二階にある自分の部屋に荷物を置き、一階の和室で仏壇に手を合わせる。名前と写真の顔しか知らない母、エミリア。こんな時、母がいたら手料理の一つや二つでも出てきたのだろうか。
ないものねだりをしても仕方がない。手を合わせて、小声で「ただいま」とそこにいないヒトに呟く。
母はどんなヒトだったのだろうか。海斗は、おぼろげに覚えている記憶のなかの面影と、カノンから聞いた話の中の人物しか知らない。
哲郎は母の話などほとんどしなかったし、何より話そうとしなかった。愛していたのだろう、深く。思い出の中に丁寧にしまって、話すことが出来ない程に。
哲郎は不器用な父親だった。海斗のことをなんとか育ててくれようとはしていたものの、愛情の向け方などわからないと言ったようで、いつも無口だった。酒を飲むと饒舌になったが、母の話だけは頑なにしようとしなかった。男手ひとつで働いて、何も語ろうとは、しなかった。
けれど、夢の話を聞いたことがある。「どうして親父は軍人だったの」と聞くと、「ヒトを守りたかったから」と昔の話をしてくれた。本当は、警備部隊に入りたかったのだと言う。
今となっては、そんな父が自分を愛してくれているのか、もうどうだっていい。ただ、空虚感だけが残る。
普通の家庭が羨ましかった。家に帰ると暖かいご飯があって、お風呂が沸いていて。そんな生活を、してみたかった。
そんなことは、思っても言わなかった。寂しかったなど、言えなかった。海斗よりも、エミリアを失った哲郎の方が、ずっと空っぽだったから。
怒られも泣かれもしなかった。哲郎の育児は、良くも悪くも海斗に無関心だった。放置されないだけ良かったのだが、同時に何かを得ることもなかった。理解できたのは、大切なヒトを失ったヒトは、弱いということ。
たった一回だけ、思い切り怒られたことがあった。海斗が士官学校の試験を勝手に受けて、合格の通知が家に届いた時だった。今まで海斗を叱ったことなんてなかったのに、急に、「軍人にだけはなるな」と。
きっと母が軍人として死んだから、哲郎が軍人として母を守れなかったからだろう。その時の父の気持ちなど、考えたこともなかった。
今まで何も人生に関与してこなかったのに、いきなり反対をされた。それから海斗は、哲郎の反対を押し切って家を出た。今なら、哲郎の気持ちが少しだけ、わかる。
同時に祖母のことも思い出す。祖母は、海斗が小学校に上がるときに死んでしまった。決して高い額ではなかったが時々お小遣いをくれて、そのお金でお菓子を買うことが楽しみだったのを覚えている。
変わってしまった、何もかも。変化したこの環境で、海斗は何を得ることができただろう。
仏壇を、眺める。静かだ。平穏が、こんなにも身近にあるなんて。
「海斗」
「なに」
「……飯、食うか」
「変なの。気、使ってるんだ」
「……ダチに怒られたよ、お前のことちゃんと育てろって」
「お節介だね」
「ああ、凄く、な」
不器用な男二人が顔を見合わせて、笑う。今日は何を食べようか。以前は退屈で無意味だと感じていたこの細やかな時間が、今は悪くないと思えるように、なった。
◇
休みはいい、ぼーっとできる。心と身体が癒される。休日に寝そべる世のお父さんの気持ちが理解できた。テレビを見るのもたまにはいい、何もしない感じが最高だ。
海斗はテレビを見て、何をするでもなく寝そべっていた。日曜日にやっている落語家達の大喜利は面白い。歳を重ねると面白さがわかる、とはこのことだ。
チャイムが鳴る、来客だ。時刻は夕方の五時頃。こんな時間に誰だろう。父は仕事だっただろうか。いや、今日は休みか。飲んでくると言っていたのは、まだお昼になるよりも前だ。
海斗はすっかり地面と仲良くなった重い腰を持ち上げ、玄関に足を向かわせる。さて誰だ、人が楽しくテレビを見ていたのに。
「はーい……」
海斗は頭を掻きむしりながらドアを開く。立っている人物に目を向ける。自分の上官……カノンと、自分の父親。
「……」
「……」
「あのさ、それって」
「お届け物だ」
「あ、はい……」
相変わらず眉間に皺の寄った顔。今日はオフなのか、髪を下ろしている。七分袖のネイビーのシャツは鎖骨の下まで開けていて、色白な肌が眩しい。首からはネックレスにシンプルなドッグタグが二枚下がっている。カノンの身元が事細かに記録されているのだろう。足元は白いスラックスと、ブラウンの革靴。左脚にレッグホルスターとお馴染みの銃が一丁。休みでありながら、仕事を忘れない。
そしてカノンの肩に重そうにもたれ掛る父親、哲郎の姿。酒臭い。飲むのはいいが、飲みすぎはいかがなものか。
「おい、哲郎。家だ」
「ん~? 家~? 次は宅飲みかぁ~」
「……私は帰るぞ」
「上がってけ~」
「……おい」
カノンが止めろ、と言いたげに海斗に視線を向ける。海斗としてはどちらでもいい。このまま帰ってもいいし、父に付き合ってべろべろに酔っぱらう上官も見てみたい。
「カノン、今日全然飲んでないだろぉ!」
「私が酔ったら誰がお前の介抱をするんだ」
「は~? 海斗がいるだろ~! いいから上がってけ~!」
これは逃げられそうにないと観念したカノンが、溜息を着きながら家に上がる。
居間に二人を誘導すると、酔っぱらった哲郎がどこからともなく酒を持ってくる。どこに隠していたのやら。
「海斗も飲め!」と哲郎は喚いたが、未成年なので海斗は大人しく部屋に帰ることにした。
部屋の中でぼーっと考える。昔よりも時間の潰し方が下手になったもので、ベッドに寝転がり思考を巡らせる。
こういう時、士官学校の頃は仲のいい友人と話をしていた。今はロウや他の仲間たちに囲まれている。案外、独りではないことに気付く。
以前は勝手に孤独だと考えて、独り善がりだった。誰よりも強ければ誰かに認めて貰えて、誰かを守れば自分に価値が産まれると思い込んでいた。そんなことをしなくても、誰かがきちんと見てくれる。
他人に依存することを覚えた。誰かを頼るのは性に合わない。それでも大人になるというのは、自分の居場所や依存先を見つけることだと気付く。ヒトは独りでは、生きていけない。
悪い変化ではないのだ。天井に笑みを浮かべて、少し重くなった瞼を閉じる。後で、カノンに菓子でも持っていこう。
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