二章



 ◇


 一からネクタイを結びなおす。気が引きしまる。ふう、と息を吐く。軍服の襟を整えて、また軍人の日常が訪れる。
 堅い廊下は何度歩いてもいい音が鳴る。風を切りながら堂々とこの艦を歩くのは、以前では想像できなかった。
 海斗は、結局この道を選んだ。後悔はしていない。それを選んだのは自分だから。
 カノンと対話をしたあの日から、数週間。海斗の中で小さな小さな革命が起こって、本当に少しずつ、自分を変えていくように、意識を前向きに変化させた。
 地面を踏みしめ、迫りくる敵に迎え撃つ。海斗は殺すだけではなく、共に生きる道を、戦いの中で模索するようになった。甘えでも、逃げでもない。カノンが、母が夢見た、平和のために。己から歩み方を変えようと思った。

 力は自己満足でひけらかすものでも、敵を打ち倒すためのものではない。己と、未来と、大切なヒトを守るためのもの。彩愛の死が、海斗に教えてくれた。
 ヒトを殺さない戦いを決断する。
 恐怖を乗り越えながら、海斗は踏ん張った。歯を食いしばり、どんな苦境でも上を見上げなければ何も得られない。 
 そんなひたむきな海斗の姿を見て、カノンは度々海斗を気に掛けるようになった。時に柔らかな眼差しを向ける、或は激励を贈る。実績を上げた時には頭を撫でて褒め、落ち込んでいる時には母親のように抱きしめた。二人の間はより、親密になっていった。

 それが気にくわないのは、当然レオンである。
 主人を取られた犬は、激しく喚き立て、海斗と対立した。流石にしつこいとは思うのだが、海斗自身もなんだか慣れてしまって、とまどいはすっかり慣れへと変化していた。
 海斗はレオンのことが正直苦手だが、今のところ臨時でこの艦にいるだけだ。今は受け流せばいい。
 毎日のようにレオンは「テメェ! 調子に乗るな!」、「勝負だ!」と海斗へシュミレーションで勝負を挑み、その度に海斗は皮肉にも腕を上げていった。最初の頃は引き分けが多かったが、戦うごとに海斗はカノンに教えを乞い、自身を磨いていった。
 今では、海斗が負けることはない。なおさら気にくわないレオンは、さらに躍起になった。

 日課にも近いそれは、本日も欠かすことなく行われるのである。廊下の向かいから、見覚えのあるオールバック。海斗を探してわざわざ艦内を巡回しているのだろうか。よくもまあ、いつも決まった時間に遭遇するものだ。
 来たな、と思い海斗もつい足を止めてしまう。逃げたところで逆切れされるのだから、止まった方が賢明だ。
 険しい表情のレオンは足音強く、海斗へ歩を進める。腕を大きく広げ、握りこぶし。今時わかりやすい威嚇のポーズだ。
 海斗の目の前で歩みを止めたレオンは、足を肩幅くらいに広げて大げさに声を荒げるのだ。

「チビ! 今日こそテメェに勝つ!」
「あのさぁ……」
「なんだ」
「俺はチビじゃないし、あんたって物好きだよな」
「はぁ?」
「だって、毎日勝負だ! って言いに来るし、よっぽど暇なんだな」
「暇じゃねえ!」
「いや、暇でしょ」

 海斗がレオンを指さす。にやにや笑うと、レオンは簡単に頭に血が上り、ヒステリーを起こす。眉を顰めて、目元を引きつらせる。わなわなと震えてから、あちこちに劈く声を出す。
 最早艦の中で日常茶飯事であり、誰もこの二人を止めはしない。
 通りかかったエリオットがまたやってるよ、と冷ややかな目を向けるだけだ。
 何回目かわからない勝負を開始しようとしたが、艦内に警報が鳴り響く。
 敵襲だ。警報を鳴らす、スピーカーに視線をやる。そこに敵がいるわけでもないのに、つい見てしまう。

「ちっ、敵襲だ……チビ、勝負はお預けだ!」

 アナウンスがブリッジへの集合を促す。睨み合いを終えた二匹の獣は揃って司令塔の元へ向かい、鉄扉をくぐる。
 ブリッジには出撃メンバーが揃い、体調の戻ったらしいシュレリアもその場にいた。隊列の中よりも、まだベッドの方が似合いそうだ。出来れば彼女には出撃してほしくはないが、そうはいかないのだろう。 
 海斗はシュレリアの隣にそっと寄り、気遣いの言葉を投げた。「大丈夫よ」とだけ細やかな笑みを見せた彼女は、とても大丈夫そうには見えない。以前よりやつれた姿は、制服をだぼつかせ、彼女の戦いへのフラストレーションを暗示していた。
 司令椅子に座ったカノンは全体に冷ややかな声を放つ。脚を組んだまま、背もたれに上体を預ける姿は威厳を放つ。やはりこの男は司令なのだ、と再認識させられる。
 海斗の思考は、あっという間に戦いに引っ張られ、口からひゅうひゅう、空気を吸い込む。
 シュレリアのことは心配だ。だが、周囲ばかりを気にしていては、戦いに支障がでる。迷いは断ち切らなければ、無駄な犠牲が出る。
 作戦内容が告げられる。今回の敵は魔族。ヒトだ。彩愛が死んだ日を、思い出す。

 今度は、上手くできるだろうか。不安が海斗の頭をよぎる。数週間ぶりの、ヒトとの戦闘だ。
 寧ろ数週間、ヒトと戦わなかったことが幸運だ。海斗にとっては気持ちの整理をする時間ができたのだから。
 もう、過ちを犯さない。誰も死なせたくない。弱虫だった少年が、決意を固める。
 伝達が終わり、全員が敬礼をする。出撃の前に、カノンがさらにその場に集まった者達に付け足しで話を続ける。

「皆に知らせがある。 レオン・マグナ少尉だが、本日から第一師団の第一小隊への配属となる」
「……え?」

 レオンが、第一小隊へ、配属。今、なんと。海斗にとってはあまり嬉しい出来事ではない。なにせ、毎日喧嘩を売られることになるのだから。
 海斗の戸惑いなどどうでもいい、と言わんばかりに話はとんとんと進んでいく。
 そうか、彩愛の死により、人員補給が必要だ。その人員が、レオンなのだ。それにしても、もっと他の人員はいなかったのか。こんな喧嘩腰な人員はお断りである。
 レオンが一歩前にでる。熱心にカノンへ向けていた身体を隊列に方向転換し、軍人のお決まりのポーズをした。

「レオン、挨拶を」
「っす! レオン・マグナ少尉っす。 遊撃部隊に所属してましたが、本日からこちらでお世話になります。 既に世話になってる奴は何人かいますが、引き続き、頼むっす」

 爽やかに挨拶をしたつもりか、猫をかぶって。皆が朗らかに彼を向かえるが、海斗の心情は穏やかではない。
 海斗はカノンに抗議の目線を送ったが、抗議と思っていないらしく、「ん?」と首を傾げた。少し眉を上げて今にも「どうした?」と言い出しそうだ。なんだか可愛らしいが、違う、そうではない。
 配属の知らせが終わり、皆がぞろぞろと出撃の準備へ向かう。疎らに散っていたヒトに取り残された海斗は、ぽかんとヒトの群れを見る。
 後ろを振り返ったレオンが、海斗に睨みを聞かせる。やめてくれ、ただでさえ対人戦闘で混乱しているのに。

「おい、チビ」
「……なに」
「テメェ、ヒトを撃てるんだろうな」
「……それは」
「それは?」

 咄嗟に足元を見る。一瞬、考える。まだ、ヒトを撃つと決まったわけでもなければ、撃ちたいわけでもない。それなら、答えは。運命の鼓動が鳴る。

「……その時になったら、考える」
「はぁ?」
「もしかしたら、撃たなくていいかも知れない。状況によっては撃たなきゃいけないかも知れない。だから、その時になったら、覚悟を決める」
「曖昧だな」
「曖昧でいいんだ、ヒトの命を粗末にしたくない」
「……は、偉そうに」

 話に飽きたレオンが、ずかずかとブリッジを後にする。
 今の海斗には、それが精いっぱいの答えだ。殺したいわけではない。かといって、誰かが死ぬのも見たくない。優しさが選んだ、自分なりの、道。
 その場で話を聞いていたカノンが、椅子から立ち上がり、海斗の元へ歩を進める。

「……ごめん、俺さ」
「それがお前なりの、今の答えなのだろう? 恥じることはない」
「怒らないのか」
「何を怒る必要がある」
「だって軍人って」
「軍人はヒトを殺す仕事ではない」
「……ヒトを守る仕事」
「そう、だからそれも一つの答えだ。私はそれを否定しない」
「でも……覚悟はできた」
「……相手が自分の命を奪いに来る者なら、その時は……殺せ。そうでなければ、己の身を守れない」
「……うん」
「残虐かも知れない。だが……自分を大切にしてくれ」

 乱暴に頭を撫でられ、海斗の毛がふわりふわり踊る。心地が良いので目を瞑る。母親のように小さな手でもなければ、父親のように無骨な手でもない。中性的なしなやかな手は、体温が低い。
 手が離れたので目を開く。相変わらずカノンの顔は仏頂面であるが、海斗を見つめる眼差しは慈悲深くなったものだ。ほんの少しだけ、目元が笑っている気がした。
 応えなければ、今度こそ。偽りそうな胸の熱を、戦いへの闘気に変える。

「カノン」
「ん?」
「いってくる」
「……ああ」

 堅い拳を作って、ぐっと掲げる。掲げた拳にこつん、と意を理解したカノンが拳を合わせ、決意の儀式が完了する。なんてことはない、まじないだ。心が折れないように。生きて帰れるように。
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