二章
◇
魔物が襲来した騒動の後、港街でワインが買えた。海斗も少し、立ち直った。それともう一つ、カノンにはお土産があった。
業務が一通り片付き、落ち着いたところで執務室の扉にロックをかける。それから、港へ一人忍ばせている密告兵から音もなく渡された手紙を、デスクの二段目の引き出しから取り出す。
近くに置きっぱなしになっているレターオープナーで封を開け、手紙を確認した。
“背景 少将へ
やあ、僕だよ。城崎蓮。そろそろ僕が恋しくなったんじゃない?
まあ、「ふざけるな」という君の反応は見なくてもわかるから割愛するよ。
さて少将、僕にやりたくない仕事をやらせたね?
いつも君はそうだ。僕の気持ちなんてお構いなし。その美しい顔に免じて、今回だけ特別に手を貸してあげようじゃないか。
本題に入るけど、魔族の動向だったね。僕の方でも気になって個人的に調べていたんだ。僕は王の特権が使えないからニブルヘイム、地下への出入りはできない。
でも地下から出てきた魔族から情報を入手するのは、法律で禁じられていない。
魔族は今、戦争を終わらせようと動いているようだ。そのためには今の王ではなく、新たな王が必要だと言っていた。王様なんてどうやって産み出すんだろうね?
後、君が睨んでいた通り戦力は二分していたよ。王を絶対として崇める派閥と、和平を望む派閥。なんだか反乱軍みたいだね。
和平派なら味方につけられそうだけど、どう動くかは任せよう。わざわざ手駒になってあげているんだから、感謝しておくれよ。
天界の情報からだと、ユグドラシルはこの先の未来を決めたらしい。これから先の未来には魔族の姿はない、そうだ。これって勿論、君が覆すんだろう?
会議が行われるそうだ、次期は秋の中旬。詳しい日程が解り次第伝えるよ。
そういえば君、天族主義者からは随分嫌われてるみたいだね。気を付けた方がいいんじゃないかな。
それから、ヴァルハラの警護ってアースガルド部隊のゲオルグ大将だっけか。あれはきな臭い、賢者の石を所持している。
賢者の石って霊力がないと使えないんだろう? 随分大勢がゲオルグ大将に味方をしているみたいだけど、もし賢者の石を使っているなら、今頃霊力がなくなってあの世行きのはずだ。引き続き調査をしておこう。
そうだ、君のところの元遊撃隊にいた大型犬は元気かい? 会う度に僕のことを睨んでくるんだから、もうちょっと躾をなんとかした方がいいよ。
今回の報告は以上だ。次の夏季休暇にでもお邪魔しようじゃないか。
敬具”
敬具なんて書いておきながら、次の便せんに日常が日記の如く書かれていた。カノンは覚えることだけ覚え、手紙を封筒にしまう。
レターオープナー動揺にデスクの上で放置されたオイルライターに手をかける。カチカチ音を鳴らしてから着火し、封筒を丁寧に燃やした。手紙の送り主に一応感謝はしておく。
第二師団に所属している城崎は、レオンとはまた別に調査を依頼している頼れる人物だ。自己主張が激しい部分を除けば、有能な軍人といえる。
さて、必要な情報は手に入った。次は魔族と接触し、対話を試みなければ。
執務室から出て、自室へ向かう。もう夜も遅いので、誰かとすれ違うこともない。
そういえば、今日も海斗はシュミレーションで訓練を行っているのだろうか。いくら立ち直ったとはいえ、また戦いがあったら本当に戦えるのか。戦えず戦死でもしたら?
少しだけ訓練に付き合おうか。迷ったところで、カノンは大人しく自室の扉を潜る。
手紙の内容より、いつの間にかカノンの頭には海斗のことが思い浮かぶようになっていた。思考の一部となってしまうとは、入隊当初からは予想外だ。
自室を無意味に動き回って、落ち着かないまま二人掛けのソファに座る。
言おうと思って、結局言えない。海斗にエミリアの真実を、本当は伝えた方がいいのだろう。わかってはいても、カノンの口は素直に言葉を紡ぐことができず、また真実を先延ばしにしてしまう。
臆病なのは、海斗ではない、自分の方だ。本当の事を言えば、失望されるから。
エミリアの話をするとなると、嫌でもカノンの過去が表面に出てくる。自分をさらけ出すのは、怖い。
苦くて、甘くて、辛い、過去。昔のことを知られるのは、嫌いだった。汚点に、輝かしい栄光に、罪。
自分を形作った長い道を壊してしまいたいくらい、後悔していることがある。後悔などいくらしても何が良くなる訳でもないし、自分を苦しめるだけだとわかっていても尚、カノンは過去に縛られる。
否、縛っているのだ。同じ過ちを繰り返さないように、戒めている。もっとも、同じ過ちは繰り返しようがない。
深くため息をつき、軍服の袖をもてあそぶ。最近、疲れている気がする。新人が入ると教育に追われるため、疲れるのは当たり前だが、例年以上に身体も心も重い。
海斗と向き合うことは、自分と向き合うことに似ていて、カノンにとってどこか怖かった。純粋な瞳に、見透かされて、罪で串刺しにされそうで。
……袖のボタンが取れそうだ。シュレリアに頼んで縫ってもらわなければ。
重い軍服を脱いで、ソファに適当にかける。カノンは予め用意しておいた、テーブルの上のグラスにワインを注いだ。
自室のソファはいつもよりカノンの身体をぐったり受け止めているように見えたが、実際は変わりなく、体積が増えた訳でもない。
口にワインを運ぶと、濃厚な果実の風味と渋みが口いっぱいに広がる。
胸元のペンダントを手に取り、覗く。
そういえば、海斗の持っている同じ石は、カノン自身が渡したものだと思い出す。本当はエミリアが身に付けていたものだが、エミリアが戦死した際に回収し、息子である幼かった海斗に渡した。
まったく困ったものだ、縁というものは嫌と言っても絡みついてくる。本当にこれが運命なら、世界に仕組まれていたも同然だ。
部屋のインターフォンが鳴ったので、だらだら応答しにいく。ソファがカノンを駄目にするのでなかなか立ち上がれなかったが、尋ね人は律儀すぎるのできちんと待っていた。
「カノンさん、差し入れっす」
「……レオン、何時だと思っている」
「そろそろ飲み始めるころかと思いまして」
夜更けにカノンの部屋を訪ねてきたレオンはチーズやサラミと言ったつまみを手に持ち、満面の笑みを浮かべた。
あまりに幸せそうに笑うのでカノンも負けてしまい、ついレオンを部屋に入れてしまう。忠犬はカノンより前を歩くことはなく、主の後ろを黙って進む。
先ほどまで座っていたソファの、向かいにある別のソファに座るように促す。
カノンが空のグラスを持ってきて、自分が暖めていたソファに座ると、レオンは向かいではなくカノンの隣に座った。
以前からそうだ。この忠犬は何故かこういう時だけ、言うことを聞かない。やたら隣に座りたがる。
眉を顰めて、暑苦しいと言わんばかりにレオンを手で押し返す。レオンはビクともせず、寧ろどんどん近寄ってくる。これは何をしても無駄だろう。新しいグラスにレオンの分のグラスを注ぎ、当人の前に置く。
レオンが嬉しそうにグラスを手にすると、ちびちび口をつけ始める。カノンも再度飲もうと思いグラスを手に取る。いつにも増してソファが窮屈だ。
「近い」
「カノンさん、温かいっすね」
「変態か?」
「へ、変態じゃないっす」
「私が嫌がっているのがわからんのか」
「い、嫌でしたか!?」
レオンが慌ててソファから降り、地面に座る。途端に縮こまり、カノンを上目使いで見上げる。焦っているのか緊張しているのか、手はわきわきとズボンを摩り、手の汗を拭いているようだった。地面に座れとまでは言っていない。
「……レオン、向かいのソファに」
「隣は、お気に召しませんか」
「……はぁ」
本日何度目かのため息。仕方ないのでレオンが隣に座る許可を出す。喜悦の色を浮かべて横に座ったレオンは、いつの間にやらカノンの悩みを吹き飛ばしていた。これがいいのか、悪いのかはさておき。
「カノンさん、今日は何かあったんすか」
「いや、何も」
「……いつもより、疲れてます」
「私の観察が得意だな、お前も……」
「お前も……?」
も、という言葉にレオンの眉が動く。その言葉が指す人物を察したのか、レオンの機嫌が一気に悪くなる。
レオンは初対面から海斗を良く思っていない。嫉妬なのか、単純に馬が合わないのか、行き過ぎた忠誠心のせいなのか。本人は深く語らないため、カノンからも特別何かを聞くことはない。逆に聞きにくい。
「何か、話をしたんすか」
「いや、特には……」
「昔のこととか、カノンさんのこととか」
「……それをすると、何か問題があるのか」
「カノンさんのことを深く知ってるのは、俺だけでいいっす」
「……」
カノンもこれには頭を抱えた。レオンは、以前から独占欲が強い。しかも、カノンに対してだけ異様に。
信頼されているのはわかる。以前軍を辞めたレオンへ、再び軍人の道を示したのはカノンだ。恩を感じているのだろう。
だが、流石に度が過ぎる。自分の話を誰にするのも勝手だし、こうして隣で晩酌に付き合う義務もない。
せっかく気持ちよく酒を飲んで寝ようと思ったのに、これでは余計に疲れてしまう。酒が不味い。グラスを無言で傾ける。
「カノンさん、最近あのチビのことばっかりっす」
「……そうか?」
「いや、あのチビがカノンさんに縋り付いてるんすね」
「そんな訳では、ないと思うが」
また、訳のわからない事を言っている。左耳から入る情報と酒を、ひたすらに体内へ流す。参っている時に自分に負荷をかけるのは勘弁だ。
横でレオンが繰り返し、言葉を紡ぐ。その度にカノンはレオンから逃げるように、酒を飲む。グラスを空にしては、注ぎ、また飲んで、空にして、繰り返し。
酒は好きだ。見たくない現実から、カノンを逃がしてくれる。本当は、逃げたいのだ。世界など、見たくもない。怖い。存在をしていることが。己の存在が、誰かを傷つけてしまうことが。強がりで、弱い自分を悟られることが。
カノンにとっての酒を飲むという行為は、唯一の逃避方法だった。楽しい気持ちになれる、本当は心の底から笑いたい現れだ。
無理して飲み続けるうちに、意識がぼんやりしてくる。レオンの話はもう、雑音にしか聞こえない。瞼が下がる。眠い。
これでいいのだ。楽だから。さっさと気持ちよくなって、嫌なことなど、忘れて、しまえば。
「カノンさん」
「……ん?」
「やっぱり、カノンさんにはあんなチビは似合わないっすよ。 こんなに、カノンさんのことを悩ませて。 最低な奴っすよ」
「ふふ……考えすぎだ」
レオンを見て、小さく笑う。笑顔が増えるのは酔っている証拠だ。こうなったら、話なんて聞いていないどころか覚えていない。覚えていたくないから、こうやって酒で曖昧にするのだ。
都合がいい。ソファに頭を預けたカノンは、寝る体制に入っていた。
「俺が、あいつのこと追っ払ってやりますから」
真剣な顔のレオンがカノンに覆いかぶさる。人間臭い掛布団だ。暑苦しい。少し熱っぽい手が、カノンの頬に触れる。
いつも、酒で寝る前はこうだ。レオンが何かをしようとしていて、途中で眠気に負けるので続きはわからないまま。触るな、と言おうとして、眠いのでやめた。
「……カノンさん」
「ああ……」
「おやすみなさい、カノンさん」
「……うむ」
恋人に囁くように、レオンが呟く。普段からは想像のできない、甘い表情をするものだ。
意識が溶ける。闇の世界に行く前にカノンが見たのは、目の前のレオンではない。脳裏浮かんだ、ふにゃふにゃに笑った海斗の姿だった。