二章



 ◇


 玄関をくぐり、藤野家を後にする。
 開口一番に海斗がカノンに放った言葉は、「ごめん」であった。
 他に適切な言葉が思い当たらない。まだ潤んだ瞳に、頬は涙の跡が残っている。
 失敗をしたまま、居続けることが怖かった。だが、そのまま逃げることは、もっと怖くなった。

「……どうした、急に」
「ごめん、俺……最低だと思った」
「何が」
「自分のせいなのに、カノンに押し付けようとしてたこと。 色んなことから、逃げようとしてたこと、迷ってたこと」
「別に私は……」
「それでも、ごめん」
「……なら、謝るな。 謝罪ではなく、礼を言え」
「礼?」
「こういう時は、ありがとうと言うんだ」
「ありがとう……?」
「ああ。行動によりお前は一つ、学ぶことが出来た。 私はその手伝いをしただけだ。何度でも言うが、原因の根本は私にある。彩愛が死んだ責任はお前にはない」

 成人したカノンの手が、海斗の頭を撫でる。今度は、嬉しくて涙が出そうになる。貧弱だ、泣き虫だ。本来は素直すぎるものだから、感情が一度暴れると、抑えられない。いつもなら、もっと無関心を貫けるのに。
 むず痒い気持ちを深呼吸で落ち着け、海斗は礼を言う。それから安心して笑うカノンを、脳内に刻み付ける。

 こんなにも海斗のことを真剣に考えてくれているのに、海斗は艦を降りようとしていた。けれど、もう一度向き合う覚悟ができた。彩愛の死が、現実と責任を教えてくれたから。
 このまま逃げてしまえば、一生後悔する。カノンに辛い思いをさせてしまう。そう、気づいた。

 小さな和解という前進をし、来た時と同様に、タクシーに乗って都心部へ向かう。
 適当な場所でタクシーを降りると、カノンが「お茶でもどうだ」と提案をした。
 気遣いだろう。海斗が今、自分の人生を手探りで探しているように、カノンも海斗への接し方を探しているのだ。
 出会った当初、叱られた時では考えられない。それがまた、嬉しい。
 海斗は、カノンが「居場所になる」と言ってくれた夜を思い出す。その言葉の意味が、海斗にとってどれだけ与えられることを望み、依存性の高いものであるか。カノンは、知らないのだ。
 近隣の喫茶店に入り、席に座る。席の関係で向かい合うと、変に恥ずかしい心情に襲われた。いざ面と向かってカノンの顔を凝視すると、もう一度撫でられたい衝動に駆られる。   
 自分の中の無意識の感情に気付いてしまったためか、欲望ばかりが先行する。
 メニューを見るカノンの様子を伺っていると、目線がぱちり、交じり合う。

「何を飲むんだ」
「え?」
「……飲み物だ」
「あ、えと……オレンジ、ジュース……」
「本当にそれでいいのか?」

 とりあえず目についたメニューを口にする。
 せっかく喫茶店にきたのに信じられない、とカノンは困惑している。海斗が遠慮していると思っているのだろう。
 カノンは店員を呼ぶと、自分の飲みたいものを頼み、オレンジジュースではなく少し値段の張るフレーバーティーを頼んだ。
 店員が丁寧にお辞儀をしてカウンターの奥に去って行く。それを見届けてから、カノンにそれとなく、声をかけた。

「カノン」
「私の奢りだ、気を使うな」
「いや、でも」
「私の奢りではお茶が不味いとでも言う気か?」
「とんでもございません」

 少しムッとしたカノンが頬杖をつく。すねた顔も案外様になるものだ。美形というのは、どんな顔をしてもそれなりに見えるものだから羨ましい。
 とはいえ、まだ気持ちが完全に元気になった訳ではない。ぼろぼろに泣いたのは、つい先ほどのことだ。一瞬で元気になれる程、器用ではない。
 目はまだ腫れぼったいし、優しい言葉をかけられれば当たりまえのようにまた泣く。
 不安定な胸の内を逸らすのに必死だ。カノンがそれを察すれば、すぐに砂糖のようなセリフで海斗を甘やかすのだろう。

 心情を悟られないよう、海斗は辺りを見渡した。都会の中の、個人経営の喫茶店。たまたまタクシーで降りた付近にあったので、入店した。
 シックな内装に、観葉植物、流れるジャズはデートにぴったりだろう。
 ガラス張りから見える景観は、向かいのビル、花屋、賑わう大通り。
 他の席にはカップルが目立つ。軍服で座る二人組は、他の客から見たらどう見えるだろうか。

 店員が運んできたフレーバーティーは、ガラスの耐熱ポットに入れられ、どうにも可愛らしい。熱を帯びた赤紫は薔薇の香りを漂わせている。これまたガラスのカップに注ぐと、一層、匂いが濃くなった。
 「なんでこんなもの」と海斗がいじけた顔をすると、向かいでカフェラテを飲むカノンは悪戯な表情をした。
 怒っていないと言っていたが、やはり怒っているではないか。
 罰ゲームを口の中に入れると、想像通り甘い味は余計に海斗をいじけさせた。
 匂いが頭を支配する前に、カノンに話の続きを乞う。

「それで、」
「ん?」
「タクシーの中の話の続き」
「続き……ああ」

 忘れていたらしい。間が空いた後に、カノンは思い出したとばかりにわざとらしく頬杖をつく。

「それは、なんだったの」
「なんだったと思う」
「わからないから聞いてるんだ」
「……聞いても驚かないか?」
「どうして?」
「いや……」

 突然、何の話をしているのだろう。わからないと何度も言っているだろうに。
 痺れを切らした海斗が、眉を限界まで寄せた。それはカノンも同じなようで、苛ついた態度で海斗に衝撃を告げる。

「私とお前は従兄同士だから」
「は?」
「だから、従兄同士だ」
「……え?」

 従兄。いとこ。いとこ?
 思考が止まる。いとこと言えば、あの従兄だろう。糸こんにゃくの略、とかではなさそうだ。
 カノンの話が止まる。……口がへの字になっている。

「お前……これは覚えてないのか?」
「これは?」
「いや……」
「というか、初耳……」
「……本当に?」
「何で嘘つくんだよ、覚えてないってば」
「幼い頃に私が横で絵本を読んだことも?」
「想像つかない……」
「私の髪を食べて涎でべちょべちょにしたことも?」
「え、なにそれごめん……」
「仕事の邪魔をしてきたことも?」
「いや、だからごめんって……」

 覚えていないのをいいことに、次々に本当か嘘かわからないことを言われる。もし事実だとしたら、そんなの。

「不公平だ……」
「何がだ」
「カノンは俺を沢山知ってるけど、俺はカノンのことをそこまで知らない」
「……小さい頃のことだったから、覚えていないのは仕方ない。……時が立てば記憶は曖昧になる」
「それは……そうなんだけど」

 納得がいかない。だが、それならカノンが海斗を一人のヒトとして大切にしてくれることにも、合点がいく。
 ということは、シュレリアも従姉ということになる。彼女はそのことを知っているのだろうか。
 カップに口をつける。頭の中に浮かんだ疑問を赤紫に浮かべて溶かす。斜め上を見て、カノンの宝石に見える瞳を眺める。

「でも、従兄って誰の」
「お前の母親の、その弟の息子、それが私だ」
「……なるほど」
「あまり腑に落ちていないようだな」
「まあ……母さんの顔、あんまり覚えてないし」
「……そうか」

 母の話をすると、カノンは海斗から視線を外す。何かを考え込み、話そうと口を少し開いてから、やっぱりと口を閉じる。
 戦争の中で死んだヒトだ、事実を告げることを躊躇っているようだった。
 海斗自身、戦争の記憶を忘れるように、母のことをほとんど覚えていない。思い出すことを恐れているのか、それとも別の理由があるのか。
 記憶の中のおぼろげな母の面影は、温かで柔らかで、カノンのように綺麗な髪をしていた。
 母はどんなヒトだったのだろう。好奇心が現れては、心の影がそれを拒む。

 そういえば、海斗がシャツの下にいつも忍ばせているペンダントも、母が身に着けていたと聞いた。
 海斗は自身のシャツのボタンを外し、ペンダントを取り出す。喫茶店の中に麗らかな日差しが差し込み、それを取り込んだ石がキラキラと輝く。カノンは、その石に瞳を覗かせた。

「海斗、それは……」
「母さんの形見。 賢者の石って言うんだって」
「……、」

 カノンが、俯き、将校の証であるネクタイの留め具に手をかける。外すか否か、決断を迷う手が小指を立てると、外で大きな爆発音がした。

「――!」
「なんだ……!?」
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