二章



 ◇


 静かな場所だった。廊下が続いた先は和室で、畳が敷き詰められ、壁には掛け軸。失われつつある和を重んじるような家。
 室内から一望できる庭は池があり、緑が茂り、鹿威しが時折からんと音を鳴らす。和室の中央には、座布団の上に腕を組んで胡坐で座る、白髪交じりで初老の男がいた。
 カノンと海斗を迎え入れた女性は、彩愛の母親であった。彼女に案内され、和室に足を踏み入れる。
 ピンと張りつめた空気は心地が良いとは言えず、海斗の肺は圧迫されてぎゅうぎゅうになりそうだった。

 彩愛の母親が神妙な面持ちで、男の横へ座る。カノンもそれを確認し、二人の前に正座した。
 薄ら、これから何が起こるかは想像がつく。海斗もカノンの隣に正座で座る。

 前方の男から向けられる威圧に、押しつぶされそうだ。彼は恐らく、彩愛の父親だろう。
 何か感情を押し殺した彩愛の父親が、「何の用だ」とカノンに冷えた言葉を投げる。
 無言で言葉を受けるカノンは、肩からかけた鞄を彩愛の父親の前へ差し出す。そして中身を取り出し、見せる。鞄の中に入っていたのは、彩愛の使っていた私物だった。
 並んだ思い出を見て、彩愛の母親はとうとう抑えきれなくなったのか、声を出して泣き崩れる。
 そうして、カノンは深く頭を下げた。

「藤野彩愛さん……お子さんを守れなかったこと、大変申し訳ございません」

 気が動転する。幻ではないだろうか。あのカノンが、地面に頭を付けている。いつも誰にも屈しないとでも言いたげな顔の彼が。脚を畳み、上体を曲げ、権威も何もない相手に頭を下げている。
 畳の上に、太陽を浴びた月光が散りばめられる。色あせした畳の青朽葉に、そのコントラストは不釣り合いだ。

 カノンは敵にも味方にもベルセルクなどと呼ばれているが、他人の命を誰よりも重んじているのだ。部下の死に心を痛め、己の不甲斐なさを責めたてている。自分のせいではないというのに。

「謝って……娘が帰ってくるのか!」

 感情を抑えきれない彩愛の父親の罵倒が、耳を劈く。「信用して娘を預けたのに」「娘は戻ってこない」「何でお前は生きていてあの子が死んだ」、娘を心から愛していたからこその、やり場のない怒り、苦しみ。

 入隊した時大きく見えていたカノンの背中は、今は華奢に見えた。こんな背中で、何もかも背負おうとしているのか。涙など抱える暇もない。何も考えず、他人のことを四六時中考えなければならない。
 誰にも吐き出さず、一人で全てに耐える。これが、司令という仕事。ただでさえ辛い役職なのに、何をさせているんだ、自分は。

 海斗もまた、己を責める。
 繰り返される彩愛の父親の悲痛な叫びに、過呼吸が起きそうになる。彩愛のみならず、海斗は今、この場にいる全員に苦汁をなめさせている。これが自分の行動の結果だ。胸が痛い。言葉で刺されている。この言葉を受けているのは、自分ではなくカノンだというのに。
 カノンがいくら海斗を許そうと、こんなことをさせてしまっては。不甲斐ない。涙がでる。自分を責められる以上に、堪える。
 彩愛の父親の言葉に、海斗の叫びが割って入る。

「もう……やめてくれ!」
「……海斗、待て」
「カノン少将は……違うんです! 俺が……俺が! あの時、敵を討てなかったから! ヒトを殺せなかったから! 彩愛は死んだんです!!」
「やめろ、海斗」
「俺が、彩愛を殺したんだ! 俺がもっと、ちゃんと敵を倒せば、彩愛は死ななかった! だから!」
「……っ」
「もう、やめて、ください……」

 海斗の懸命な叫びは、最後の方は、ほとんど消えかけの言葉だった。言葉になっているかすら、わからない。自分を責められるだけなら、傷つくのも苦しむのも、自分だけだ。
 迷った挙句、なにも成すことのできない甘さを痛感する。カノンに土下座をさせて、のうのうと逃げようとしていたなどと。
 ぼろぼろと涙が零れる。自責、カノンへの申し訳なさ、彩愛の両親への罪の意識。
 誰に頼まれるでもなく、海斗は頭を下げる。カノンの横に並び、同じように土下座をした。下げた顔は涙でぐちゃぐちゃで、とても見せられたものではない。畳に塩辛い水を染みこませる。

 カノンが驚き、上体を上げる。泣きながら頭を下げる海斗に、ただ茫然としていた。何が起こったかわからないと言いたげだ。
 今まで鋭い言葉を放っていた彩愛の父親は、その切っ先をしまう。感情を暴走させていた束の間、海斗が突然謝罪をするので、冷静さを取り戻したようだった。
 短く時が流れ、彩愛の父親が深く息を吐く。海斗が恐る恐る顔を上げると、なんとも悲壮に満ちた顔で、彩愛の父親は畳の縁を眺めていた。
 怒りも悲しみも抑えきれないのに、それでいて未熟な兵士が懺悔をするものだから。もう何も言えないのだ、彼は。

「……もういい、わかっていたんだ。 軍人である以上、死ぬ可能性があることは」
「それは……」
「……もう、いいんだ……帰ってくれ、今の私らにはその言葉しか言えん」

 それだけ海斗とカノンに言い渡し、彩愛の父親は口を開くことはなかった。
 本当はわかっているのだ。これは戦争なのだから、誰にでも平等に死が訪れることなど。だが、それがいざ自分の身内に襲い掛かると、感情を抑えられないのは当たり前だ。

 それでも、彩愛の父親は「もういい」と言っているのだ。許された訳ではない、我慢している。
 改めて、海斗は犯したことの大きさを理解する。戦いである以上、命を奪いに来たものは対処しなければならない。それが出来ないのであれば、誰かが死ぬ。そうして、また誰かを悲しませる。
 誰も殺さなければいいと思っていた。逆だ。倒さなければ、守れないものもある。それが、戦争。
 カノンが立ち上がり、深く礼をする。海斗も続き、みっともない顔で礼をした。
 彩愛の両親が、こちらを見ることはなかった。
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