二章



 ◇


 ヒトは、何もかもを失ってしまうと、本当にどうでもよくなってくる。大切なヒトや、自信、気力。それらものを一気に喪失してしまうと、無気力の出来上がりだ。
 海斗自身、元より精力的ではなかった。このぐらいがいいのかも知れない。もう、何もかもどうだっていいのだ。

 面倒だな、と思いながら軍服を身にまとう。もうこれに袖を通すこともなくなる。
 今日が終わった後はどうしよう。どうもしない。
 カノンは、機体を使って艦を出てもいいのだと言った。なら、そうさせてもらおう。もう、ここに自分が存在すべき場所はないのだから。
 頑固で熱血なヒトならば「ここで逃げてどうするんだ」というのだろう。
 だからなんだ。留まって、醜態を晒せというのか。過ちを犯した者への叱咤や激励など、言われれば言われるだけ、やる気を削ぐ。己の失敗など、分かっている。それを認めることが、怖い。認めたとして、さらに責め立てられることが、もっと怖い。
 仮に汚名を返上したとしても、過ちを犯した過去は変えられない。
 逃げたい。周りの目から、己から、誰かの死から。

 海斗にとっては、一度のミスはゲームオーバーに等しい。もう、終わりなのだ。
 荷物をまとめて部屋を出ると、彩愛が死んだ直後であっても、皆忙しなく働いていた。どうでもいい他人の死など、そんなものだ。
 透明人間にでもなったつもりで、ゆらゆら格納庫へ向かう。途中、知り合いとすれ違った気もするが、気のせい。気付かないフリをした。

 狂っていて、優しい。世界はいつもそうだ。自分で楽な道を選んでしまえば、その通りになる。生ぬるい選択肢を選べば、周囲の目もそれとなく別の方向を向く。
 皆自分よりも上のものばかり見るのだ。下のものなど見ようとしない。無意識に他人を見下して。誰も自分よりも駄目になった軍人など、見向きもしない。
 弱きを蔑み、強きを挫く。ヒトの嫌な性質だ。

 格納庫もいつも通り、ぱたぱたと整備スタッフが駆け回っている。
 上を見上げると、出撃予定があるのかフレイ・リベリオンが調整を受けているところだった。警報が鳴っていなければ、パトロールに出た隊が敵と遭遇した話も聞かない。何故だろう。
 海斗は立ちつくし、赤く存在を主張する機体を見上げる。
 すると、「どうした」と後ろから声をかけられる。振り返れば、そこには今一番会いたくない人物が立っていて。どんな顔をして、今さら話せというのだろう。

「……カノン」
「もういいのか」
「……うん」

 気まずいのは、カノンも同じなのだろう。あまり目を合わせようとせず、なにもない空間を見ていた。無言でしばらく身体だけ向き合う。海斗はちらちらと視線を伺わせた。
 男と少年が立つ光景は、言葉にし難い違和感を産んだ。
 何か発しなければ。海斗が言葉を探すよりも先に、カノンが声を出す。

「……一緒に、来るか」
「なんで」
「……気まぐれだ」
「……どこに」
「来ればわかる」

 ついて来るまではトップシークレットらしい。
 本当はカノンも薄々勘付いているのだろう、海斗がこの艦を降りようとしていることを。もう、関わることはないのだと。これが最後、だと。
 誰のせいでもないのに、絶望さえ奪われたような心は、肯定も否定もしない。自分で決めようともしない、曖昧さ。悩み、目線を向ける。カノンはそれ以上、何も言わない。
 決めねば、この場から逃げることもできない。

 これ以上、後悔や自責に駆られることなどないのだから、どうにでもなれ。無言で首を縦に降る。
 海斗の意志を受けとめてから、カノンが自機に搭乗し、発進ブロックへ向かう。海斗も機体へ乗り、後ろを追う。

 二機が艦から飛び立ち、青空を裂く。向かっているエリアは、N。日本エリアだ。無言で海斗はカノンの後ろを追いかけた。
 海の上を飛ぶ。水面が光り、太陽の輝きを呑み込む。美しい海の輝きが高速の機体を映す。
 血濡れた色の機体の背中は、記憶に眠る褪せない姿を思い返す。初めて無断で出撃した時も、月夜の夜も、この赤が海斗の視線を釘付けにした。

 港に到着し、機体を入港させる。軍の関係者が機体格納庫へ誘導する。
 指定された場所に止めて、機体を降りる。海に隣接していながら鉄臭いそこは、今までいた軍艦を思い出させた。
 何か大げさな鞄を肩にかけて機体を降りたカノンは、神妙な面持ちで街側への出口へ向かう。後を追い、海斗もまた、街へ出る。

 洋風雰囲気の中に高層ビルが入り混じる街並み独特の空間は、和などとは程遠く、日本であることを忘れそうだ。
 日本エリア、首都東京。日本エリアの中でも最も天界との繋がりが強く、その様子を色濃く反映する場所だった。入隊の際、戦艦スキーズブラズニルが停泊したのも、この東京だ。
 海斗の家はこの港から約一時間かけて行く、どちらかというと都会離れした場所にある。所謂田舎というやつだ。さて、一体東京になんの用があるのだろうか。
 適当なタクシーをカノンが捕まえる。この男がタクシーを呼びとめているのは、どうにも似合わない。日常的な動作がここまで不釣り合いなヒトはそうそういない。

 共にタクシーの後部座席に乗車し、カノンが行き先を告げる。了承した中年のドライバーはアクセルを踏み、車を発進させた。道路の上を走り、当たりの風景をぼかす。
 窓ガラスから見た風景コンクリートジャングルで、代わり映えもなく、見ていて楽しいものではなかった。
 窓の外も飽きたので、カノンの顔を覗き見る。彼もまた窓の外を意味もなく眺めており、何か考え事をしていた。本当は景色など見ていない、何も見えていない。窓に反射した顔は人形すら恐れるくらいに無表情で。
 ガラス越しに、目があう。こちらの視線に気づいたカノンが、海斗に顔を向ける。

「……どうした」
「……、何も」
「何か言いたい顔をしている」

 本当は言いたいことなど山ほどある。見捨てないで、だとか、ごめん、だとか。
 どうしようもない言葉ばかり言いたい。だから、何も言えない。これで最後かも知れないのに、今以上に彼を困惑させたくない。
 何も言わないでいると、カノンが誰に言うでもなく勝手に喋りだす。いっそ饒舌な方がありがたい。カノンの言葉ひとつひとつが海斗にとっては勉強で、栄養だ。
 けれど、今回ばかりは苦言ばかり飛び出してくるだろう。なんせ、我儘で傷つけた後だ。

「海斗、私はお前に言いたいことがいくつもある」
「……ごめん」
「お前を責める言葉ではない」
「何で」
「言葉の全てに理由がいるのか」
「……いらない、と思う」
「なら、黙って聞け」
「ごめん」
「謝るな」
「……うん」

 一度、謝罪しそうになった言葉を飲み込む。謝罪が正しいのだと思い込んでいる。謝ることでしか場を正す方法を知らない。
 だが、カノンはそれを望んではいない。怒っている訳ではないようだ。

「海斗、私は……お前が彩愛を殺したなどと、思っていない」
「……それは」
「お前は最前を尽くした。 それでも、敵を倒すことが怖かった」
「……、」
「それ以上に、誰も死なない戦いを探していた。違うのか」
「違わない」
「なら、気に病むな。 お前が必死にもがいて、答えを見つけようとしていることは、少なくともこれからの時代に必要なことだ」
「でも、その結果誰かが死んだら意味がない……死んだらヒトは戻らない」
「死者は戻らないが、死者を重んじて夢や想いを継ぐことはできる」
「夢を……継ぐ?」
「……ああ、あの子が望んだ、お前を守りたい、そして生きてほしいという夢を」
「――っ」

 生きて欲しい。彩愛は、海斗にそう望んだ。守ると、言ってくれた。それがどうしてかなんて、海斗の小さな脳みそではどれだけ考えてもわからない。機体から流れてきた情報だけでは、納得ができない。
 だが、意味は理解できる。彩愛が成そうとしたこと、その行動の意味。
 誰かに生きて貰う。この世で最も難しくて、大変で、苦痛を伴う行為。だけど、それと同時に幸福を得ることのできる行為。

「俺は……」
「今はできなくても、いずれそれが出来ればいい。 すぐにできるのなら、私だってそうしている」
「カノンも、そうやって生きてきたのか」
「そうだ。私も誰かを失って、その度に後悔をして、泣いた」
「泣くところ、想像できないな」
「失礼な奴だな」

 カノンが鼻先で一笑する。ようやっと、二人の距離が少し縮む。海斗も小さく笑い、応えて見せた。
 一度間が空き、「それから」とカノンが話を変える。真面目な顔をして、海斗を見つめるカノンはお見合いにでも来たのか、と突っ込みたくなった。そうまでして、海斗に伝えたいことなのだろう。頼りない自身の顔を引き締め、カノンを見つめ返す。

「私は、お前を嫌ってはいない」
「……どういう、こと?」
「言葉通りの意味だ。 お前が何か失敗を犯したくらいで、見捨てはしない」
「う、わ……」

 いつものように「何で」と聞こうとしたが、それより先に驚きの声が漏れる。カノンに驚いたのではない、与えられた言葉に嬉しくなる自分に、驚いているのだ。
 失敗は、何度繰り返してもいい。その度に、何かを掴んで、学んで、変わっていく。
 理由より先に、自分の感情が優先される。

「カノン、」
「何で、か?」
「……うん」
「そうだな、それは……」

 カノンが何かを言おうとする前に、ドライバーが「もうすぐ行き先だ」と二人に声をかける。会話をしていると、あっという間だ。
 目的地付近で車体が止まり、カノンは胸ポケットからカードを取り出す。領収書は切らない。私用だろうか。
 しかし、私用の移動手段にエインヘリアルを使うのは大胆だ。もし敵に見つかったら、撃ち落とされるだろうに。この男に限ってそれはないか。何せ、ベルセルクと恐れられるほどの腕だ。簡単に撃ち落とされるとは思えない。

 都会から少し離れた住宅街に降りる。先ほどの続きを聞こうとしたが、カノンは海斗を置いて歩を進める。こういう部分は無神経だと女性に怒られそうだ。
 昼でありながら、カノンのすけるようなプラチナブロンドの髪は、月の明かりのように綺麗だった。月光の後を追い、辺りを見渡す。
 タクシーに乗っていた時間は、三十分程だっただろうか。一軒家が立ち並ぶそこは、どれだけ歩いても同じような風景が立ち並んでいる。家、家、家。見飽きてしまう。

 カノンがとある一軒家の前で足を止める。ここが目的の場所なのだろう。知り合いでもいるのだろうか。
 屋根は瓦で、庭には盆栽。古風な一戸建ては、歴史を感じさせる。長いこと、この地を温めてきたのだろう。
 カノンはふう、と息を吐いた。緊張しているのだろうか。カノンが緊張していると、海斗も心臓が痛くなる。
 表札を見る。家主は、藤野というヒトらしい。藤野。どこかで聞いたような。そうか、彩愛の姓だ。藤野彩愛は彼女の本名。まさか。

 チャイムを鳴らすと、玄関からは淑やかな年配の女性が出てくる。カノンが、ぺこりと頭を下げる。女性はぽかんとカノンを見、軍服の彼を見て息を呑んだ。
 女性が泣くよりも早く、カノンが死神として言葉を発する。にこりともせず、冷酷に、機械のように。

「私は、世界統一連合軍、第一師団所属、カノン・グラディウス少将です。 藤野彩愛さんの……ご自宅で間違いないでしょうか」
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