二章
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暖かいお湯がカノンの身体を叩く。壁に手を突き、それを浴びる。天井に近い位置に設置されたシャワーは、雨のようにカノンの涙ごと、感情を洗い流した。
海斗が脆いことは知っていた。海斗の父である哲郎はあまり子育てが得意ではなかったし、何より妻であるエミリアを失ったショックのため、まともに海斗に愛情を注いであげていたとは考えてもいない。
愛情を正しく受けられなかった子供は、心のどこかで歪んだ気持ちを抱えることになる。
想うだけなら簡単だ、伝わらなければ愛ではない。言葉にされない愛情など子供にわかるものか。
自分では何もできない歯がゆさと、無意識のうちに海斗を追いこんでしまっていた己の不甲斐なさが、どうにもカノンには堪えた。海斗を懐柔することで、エミリアへの償いが出来ていたつもりだったのだ。
最低だと、思う。
いっそのこと、海斗が自分のことを全て忘れたままでいれば何も悩まなかった。その方が無関心を貫けた。
よくもまあ、親の代わりなど務められると思っていたものだ。誤ったことを言ってしまった。海斗がただカノンに求めていたのは、親代わりでもなんでもない、一人のヒトとして、真に自分を受け入れて欲しいという欲求だったのだ。
応えられなかった、否、気付けなかった。役割を消化することに必死になって、彼が本当に求めている心に。もっと、優しく接してあげられれば。
受け入れることにばかり慣れてしまって、吐きだしようのない自分の感情が、カノンの中でもやもやと渦巻いた。
そもそも、今まで普通に暮らしてきた者がいきなりヒトを殺すなど、恐怖心がない方がどうかしているのだ。
海斗の感情は正しい。ヒトを殺すことに慣れて殺生を正当化すれば、命との向き合い方もわからなくなる。
海斗は、もう軍などやめてしまうだろうか。きっとその方がいいだろう。誰の死も見ず、命が危険に脅かされることもない。
だがもし、もう一度話すことがあれば、今度は逃げずに向き合おう。もう一度なんて、恐らく有り得ないだろうが。
これでよかったのだ、とカノンは自分に言い聞かせる。
ノズルを捻り、シャワーを止める。静かになった浴室は湯気で溢れかえり、カノンを包んだ。浴室の扉を開ければ湯気は部屋の中に逃げ、自室の空気がひやりとカノンに触れる。
ひたひたと水を含んだ髪が、水滴を落とす。柔らかい吸水マットの上に足を置き、手すりに掛けたバスタオルを頭からかぶる。
乱暴に髪を拭き、浴室の扉を閉めて換気扇を回した。ぶんぶんと虫が飛ぶような不快な声を上げながら、換気扇は湿気を吸いこんでいく。
カノンくらいの階級になると、軍人でも大きな一室が与えられるようになっていた。専用の浴室とトイレが付属し、部屋の大きさはおよそ十帖はある。ヒト一人がくつろぐには充分すぎる空間である。
広い部屋の中は質素なもので、柔らかいベッド、ソファとローテーブルが配置されている。壁際に冷蔵庫と少し大きな白いクローゼットがあり、その隣にはシンプルな本棚と、小物を収納する縦に長い収納ラック。本棚には戦いに役立つ技能書から自己啓発本が詰められている。
身体の水気をふき取ると、下着と白いスラックスを身に付け、ソファに身を投げる。シャワーを浴びれば多少は沈んだ気がまぎれるかと思ったが、案外、頑固な油汚れのようだ。
溜息を着いて、時計を見る。後少しで出る時間だ。本日の予定は、何よりも優先するべきものである。
この予定が入る度に酷く自己嫌悪に陥るが、やらなければ余計に自分を嫌いになってしまう。
「……しっかりしろ」
自分で自分に喝をいれる。いつまでも下を向いている訳にはいかない。
テーブルの上に置かれた、鮮やかな光の石が目立つペンダントに手を伸ばす。
賢者の石と呼ばれる石は、ユグドラシルの意志を具現化した結晶なのだそうだ。記憶や想いを司り、時にはヒトの記憶さえ書き換えてしまう力を持つ。
同じくユグドラシルが生み出したALIVEシステムと同調すると分析結果がでており、今後の世界の行く末を未来視できる手段といっていいだろう。
賢者の石は、エミリアが以前カノンに託したものだ。
興味がないと言いながら、それを身に付け、思い出として大切に持ち歩いている。
あまり褒められたものではないが、カノンは賢者の石の効果を利用したこともある。その結果は、喜ばしい結果ではなかったことだけは確かだ。
室内に備え付けの無線で格納庫へ電話をする。機体の整備を簡単に頼み、無線を切るとソファに掛けられたワイシャツに袖を通す。一個一個ボタンをちまちまと上まで止めて、ラックの上に無造作に置かれたドライヤーの電源を入れた。
これからは、ドライヤーの風などよりもっと熱い激怒を受けにいくことになる。