二章
◇
沈黙。ベッドは寝返りを打てばぎし、と返事をするが、それ以外は海斗にとっては居心地のいい場所だった。
ロウも同室だが、完全に背を向けているため顔を見ていない。時々食事を持ってきてくれる以外、あまり話をしていない。
今日一日この様子なので流石に心配したのか、ロウが海斗に声を掛ける。
「なあ、海斗」
「……」
「起きないのか」
「……」
「娯楽部屋行こうぜ、さっきエリオット中尉がポーカーで連勝してた、見に行こう」
「一人でいったら」
何を言われても、まともに返す気になれなかった。言葉を発したくない。疲れた。自分は所詮この程度のヒトなのだと、段々ネガティブになってくる。
横になっていると悪い考えばかり浮かぶとは聞くが、本当にそうだ。かといって、起き上がる気力もない。
気持ちは深く沈みこんで、このまま死んでしまいたいくらいだ。もう、誰も自分を見ないでくれ。何もない壁を、海斗はひたすらに見つめる。
目が渇くと眠って、起きたら壁を見つめての繰り返し。ポジティブな気持ちには、なれたものではなかった。
「なあ、海斗ってば」
「……ほっといてくれ」
「……ごめん。俺じゃあ、駄目なんだな」
ロウが申し訳なさそうに海斗の後姿へ語りかけた。そんな姿すら見る気にもなれず、壁を凝視する。何も視界に、心に入れたくない。今優しくされたら、枯らしたはずの涙がまた溢れてしまいそうで。
部屋の電子扉が開く音がする。それから部屋の中の気配が消えて、完全に独りになる。振り返る。誰もいない。
ロウも、海斗のことをどうでもいい、と思っただろうか。これだけ露骨な態度を取れば、嫌われもするだろう。いいのだ、返って気を使って暴走して傷つけてしまう。もうこれで、独りだ。
ベッドからゆっくり起き上がる。まだ昼過ぎであるのに電気は消えていて、薄暗く空気の悪い部屋は、海斗の感情そのものを現していた。
またひと眠りしようかと思い、上体を倒す。扉が控えめにノックされる。ロウだろうか。
「……なに、ほっといてってば」
「……私だ」
「っ……!」
扉越しに甘く低い声を聴き、一気に飛び起きた。カノンだ。何の用だろうか。
縋り付きたい淡い期待と、これ以上自分の情けない姿を見せたくないという反対の心が衝突する。躊躇って、息を小さく飲む。
「……入れば」
「……ああ」
部屋の扉が開く。カノンの目が一瞬大きく開かれる。髪がぼさぼさで、服もくしゃくしゃなだらしない海斗を見て、驚いたのだろう。昨日の夕方に帰還してから、ずっと寝ていたのだ、こうもなる。
外の明かりが眩しい。廊下の光が差し込むことで、部屋が多少明るくなる。
背中に光を浴びたカノンはまるで、生きた天使に見えて。泣きすぎた目はまた涙を流そうとする。どこまでも、弱虫だ。一歩、部屋の中に入り、カノンが海斗を気遣う。
「……調子は」
「……悪い」
「……そうか」
そこから互いに言葉を失い、じっとりと見つめ合う。睨めっこと呼ぶには些か陰惨な状況は、思考を奪った。
最初に言葉を放ったのは海斗で、それはやはり、謝罪のことばだった。
「ごめん」
「何が」
「俺が、駄目だったから」
「駄目じゃない」
「だって、彩愛は」
「……死んだ」
カノンの口からまで、現実が突き付けられる。
ヒトが死んだのに、それが海斗のミスであるのに、何が駄目じゃないというのだ。問題ばかりで、駄目な部分しか見つからない。
「俺が敵を殺せなかったから」
「……自分を責めるな」
「そんなの……無理だよ!」
泣きそうな声が、喉の奥から勝手に怒りとなって溢れる。誰への怒りでもない、海斗自身への怒りだ。
責めないで済むのなら、もうとっくの昔にへらへらしている。何も感じないのなら、いっそのこと良かったのだ。こんなに苦しまなくて済むのだから。だが、それもできずに、中途半端で。
自分以外に、誰を責めればいい。自分のせいで彩愛が死んだことは事実なのだ。セピア色に染まってしまった思い出は、戻ってこない。
親友であるロウにも、誰にもぶつけられなかった海斗の中の苦しみが、自責の念が、カノンに向かって放出される。受け止めて欲しいとばかりに次々に叫んだ言葉は、無意味に自分も他人も傷つける、刃となる。
「だって、戦わないといけない! そうしないと、誰も守れない! でも、俺は……怖いんだよ! ヒトが死ぬのが怖い! 自分が死ぬのも、誰かが死ぬのも……」
「……海斗」
「そうやって怯えていたうちに、彩愛は死んだ。俺が意気地なしなばかりに。俺が一瞬でも躊躇ったから! 俺なんて、戦えない人間なんて、いらないって! 言ってくれよ! いらないって! 俺みたいな奴のせいで、誰かが犠牲になったって!」
「……お前は悪くない」
「なんで!」
カノンの目が憐憫の情を浮かべる。違う、そんな目で見て欲しい訳ではない。否定されたかった。このヒトに。
今否定されてしまえば、縋り付かずに、これ以上恰好悪いところを見せずに済む。それでも、この男は。
「誰かを殺すことが怖いという感情は、当たり前の感情なんだ」
「……知ってるよ」
「海斗、お前は軍人に向いていないだけなんだ、優しすぎる。誰もお前を責めたりしない」
「っ……、」
「いいんだ、逃げても。それは恥ずべき行為じゃない。やめてもいいんだ、軍人なんて危険な仕事。もっと……自分の気持ちを大切にするんだ」
「俺の、気持ち」
「……そう、その感じ方も、心も、全部。大切なお前の一部だ。……辛くなったら、自分のエインヘリアルを使ってこの艦から出ていい。エインヘリアルは港に預ければ軍で回収する。時には逃げる選択も、間違いではないのだから」
「なんで、」
「……?」
「なんで! 俺に優しくするんだ!」
理不尽な他責。優しくしてくれて、嬉しい。なのに、応えられない自分が歯がゆい。
何の目標も夢もない自分に散々苦悩させ、生きることについて真剣に意味を探して。その末に細いながらも道を切り開いてくれたカノンに、応えたかった。
そうして、目の前の人物に甘えて、理不尽に当たって。
「カノンが俺に優しくするから! 中途半端に悩むしかなくて! 俺、カノンをずっと追い越したいって、カノンがあの時叱ってくれたから逃げたくないって!! 自分がいい加減だって気づいて!! 応えたいって、思ったんだ、思ってしまったんだ! でも応えられなくて、それが、辛くて……」
「無理に、応えなくたっていい。我慢することが正しいわけでもない」
「ならなんで! 戦わなくてもいいから、ここにいて良いって……言ってくれないんだ!」
「……!」
無意味に責めたてる。自分を責めていたのに、いつの間にかカノンを責めている。
こんなことをしても意味がないと、分かっているのに。
目の前の人形よりも綺麗な顔が、茫然と悲しみを溜める。少し、瞳が潤むのが見えた。一瞬でも憧れた瞳。すぐにその涙を拭えれば、と思うが、今の海斗にはそんな資格はない。
無条件に許されたかった。カノンに、受け入れて欲しかった。戦いなんて関係なしに、傍にいて欲しかった。
「傍にいたくて、カノンが俺の居場所になってくれるから俺は、戦えて……!」
傍に居てくれる、そう思い込むことで自分を守っていた。強くなったはずだった、だが実際は誰かに存在意義を見つけることで、自分を保っているだけだった。カノンの表情が曇る。あの顔は初めて見る。
ああ、あれは――自責だ。自分を責めている顔だ。
やめろ、何を言っているんだ、何て顔をさせているんだ。止まれ。止まれ、止まれ。
「俺は、俺は……!」
俺は、何を言いたい。
「……ごめん」
「……海斗」
「何」
「……お前は、何を恐れているんだ」
怖かった。帰るべき場所がないのが、それを失うのが。生きる意味を見失うようで。
戦いの中で居場所や誰かを失う。敵だって、そうだ。こんな恐怖を、他の誰かも味わうなんて。自分も味わいたくない、他人に味あわせたくもない。その潜在意識のせいで、結果として海斗は自分で自分を苦しめることになってしまった。
だが、さらに怖かったのは、自分と関わることで、誰かが傷つくことだった。誰かが傷つくことで、また自分が嫌悪感に苛まれるから。他人のことも、自分のことも傷つけて。
カノンから目を逸らす。これ以上、顔を見られたくない、見たくない。
「……カノン、もう俺に関わらないでくれ」
「……そうか」
最低だ。失いたくないから、遠ざけるなんて。いずれ失うなら、今失った方がましか。
カノンが、海斗に背を向ける。行ってしまう。もうきっと、彼は自分のことなんて見放したのだろう。嫌われた。
「海斗」
「……」
「私は、お前にここで戦っていて欲しいわけではない」
「何、やっぱ俺の事」
「生きて、自分を大切にして欲しいんだ」
「……、」
「生きていることに、誇りを持ってくれ。それだけ、覚えていて欲しい。後は何も言わないよ。お前の人生は……お前が決めることだ」
「……」
「海斗……お前は、頑張ったんだよ。何も力になることが出来なくて、すまない」
今度こそ、カノンが部屋から去る。電子扉がオートで閉まる。しん、と空気が笑った。
海斗は泣いた。我慢できなかった。ベッドに突っ伏して、泣いた。嬉しいのか、悲しいのか、わからなかった。握りつぶされた紙屑みたいにくしゃくしゃになって、嗚咽が止まらない。彩愛が死んだ、けれどそれ以上に、どこか堪える。何か大切なものを失ったような。
……そうか、自分は、無意識下に、あの男に惹かれていたのか。こんなにも、依存していたのか。
どうか、いかないでくれ。このはらはらと溢れる涙を、誰が止めてくれよう。繰り返される記憶の中の声、微笑み、言葉、あの日頭を撫でてくれた温もり。
思い返す度に、胸が痛い。手の中をすり抜けて行った恋情。
「うっ、く……なんで……」
なんで、こんなに信愛を向けてくれていることに、気付けなかったのだろう。とっくの昔にカノンは、ここにいて良いと、全ての態度で示していたではないか。受け入れてくれていたではないか。
海斗の胸の内で渋滞を起こした後悔は、涙という形で、クラクションを鳴らし続けた。