一章
◇
ヒトの描いた夢は儚い祈り。だって、夢は叶わない。叶わないから夢なのだ。叶うものは理想と呼ぶ。
エミリアがカノンに言った言葉だ。カノンの叔母であるエミリアは、格言という刃でカノンを困らせるのが大好きだった。ただでさえ口下手なカノンは、反応に困っていたのを思い出す。
思い出とは、遠ざかる程に褪せていく。今では、ほとんどの言葉を覚えていない。それもそうか、ヒトは、自分にとって有益な言葉ばかり覚えておくものだ。
「……はぁ」
どうにも仕事が捗らない。それもこれもエミリアの子供、海斗のせいだ。
何が運命だ。忘れていたものを、いつの間にか軍人になって目の前に現れて。軍人にはなるなと言ったのに。いや、それも忘れていたなら無理な話か。それでも、普通に生活していれば軍人になる確率は低い。
軍人なんて危険な仕事、やらせたくはなかった。最初に海斗の詳細が記載された書類を見た時は、頭を抱えたものだ。遠ざけていたのに、カノンが指揮する師団に配属されることになったのだから。
そもそも上は、知っていて海斗を第一師団に入れたに決まっている。エミリアもカノンも、アースガルドでは煙たがられていた。エミリアの子供だって同様だろう。
せめて海斗が折れてさっさと軍人を辞めればよかったのに、あれよあれよと情に流されこの様だ。居場所がないと言われてしまったら、優しくしなければと思ってしまうではないか。
「いかんな……休憩しよう」
執務室の大型のモニターで艦内の様子を見る。椅子に背を預け、カノンはいったん仕事を止めた。この艦の執務室は、艦内の全てを見渡せるようになっている。
そのため、各部署の仕事の様子がすぐにわかる。ついでに監視も可能なので、侵入者もすぐにわかる。まあ、この艦に侵入できる者などいないのだが。
発進ブロックを見ると、一機の機体が艦に着艦するところだった。天界と地上の警備を務める、遊撃隊のマークが肩部に入っている。
機体名はトール、拳を使った超接近戦を得意とする機体。もうすぐ、あのわんわんとうるさい部下がカノンの執務室目掛けてくるだろう。
「さて……」
カノンはアンティークな背の低い棚に足を進め、少し屈んでガラス戸の中を見る。
料理こそできないが、カノンにはコーヒーを淹れるセンスがあった。これもエミリアに仕込まれたものだ。「男たるもの、コーヒーの一杯くらい淹れなさい!」と言われたのを機に、毎日コーヒーを淹れさせられたのはもう十年以上前のことか。
流石に毎日淹れれば上手なる。料理も毎日やればうまくなるのだろうが、食わせる相手もいない。寧ろ食わせれば大変なことになるのを自覚している。
棚の上に乗る電気ケトルに、隣に用意しておいたミネラルウォーターを注ぐ。アンティークな執務室はエミリアの趣味だったが、所々文明が発達しているのは、効率化が大好きなカノンのせいだった。
棚の横にコンセントがあり、電気はそこから引いている。お湯を沸かすうちに、棚からコーヒーを淹れる道具一式の準備をする。
ドリッパーにペーパーフィルターを着ける。あらかじめ中細挽きにされたコーヒー豆を、計量スプーンで二杯。もう一杯加えると、カノンの舌に好みの濃い味が出来上がる。
ケトルで沸かしたお湯を、細口のポットと二つのコーヒーカップに注ぐ。
ガラスサーバーにドリッパーを乗せ、豆をゆすって平らにしてから、ポットに移したお湯を少量、ゆっくりと円を描いて流し込む。
少し蒸らしてから、再度、真ん中から円を描く。コーヒーの豆が膨らむ度にお湯を止め、湯が落ち切ってからまた注ぐ。
二人分のコーヒーが出来たことを確認してから、最後の一滴が落ち切らないようにドリッパーを外す。
手頃な皿にドリッパーを置き、コーヒーカップのお湯を電気ケトルに戻した。
サーバーからコーヒーを、二つのカップに流す。半円上の、淵に草木のお洒落な柄が入ったカップだ。
ソーサーにカップを乗せ、足の低い、応対机に持っていく。応対机は執務室の真ん中にあり、その両脇に二人掛けのふかふかで赤いソファがある。
コーヒーを置いたところで、執務室の扉が三回、ノックされる。
「どうぞ」
「失礼します」
扉が開き、入って来る強面の男。前髪のほとんどをオールバックにした風貌は、その近寄りがたい雰囲気に拍車をかけている。
見た目とは裏腹にびしりと姿勢をただし、男はカノンに敬礼をした。
「レオン・マグナ少尉、ただいま着艦致しました!」
「ご苦労、丁度来るころだと思っていた。コーヒーを淹れておいたぞ」
「あざっす」
カノンが座るように催促をする。レオンは扉を閉め、ソファへ歩みを進めた。厳つい顔は自然に和らぎ、座る頃にはすっかりふやけている。
レオンは向かいではなく、カノンの隣に座る。男二人で座るソファはその重さに不機嫌そうに凹む。何を考えているのだ、こいつは。
「……レオン、座るなら向かいに」
「いや、ここでいいっす」
「私が良くない」
「俺はここがいいんっす」
普段は聞き分けがいいのだが、カノンと二人きりの時のレオンは妙に聞き分けが悪い。向かいに置いたコーヒーを、ご丁寧に引き寄せる。意地でも隣で飲む気だ。
もうこの際レオンの変な意地は放っておいて、カノンもコーヒーに口をつける。香りが良く、酸味の感じる豆だ。
「コスタリカっすか」
「よくわかるな」
「勉強しましたから」
「私のために?」
「うっす」
健気だ。カノンがコーヒーを飲むと知るとそれを勉強し、酒が好きと言えば色々な銘柄を持ってくる。
レオンは、カノンに忠実な番犬とも言える男だった。故に、カノンの信頼も厚い。今日も彼は手土産を持っていた。少し高そうな紙袋にレオンが手を入れると、巷で噂のワインが出てくる。
「カノンさん、お土産っす」
「毎回持ってこなくとも良いのだぞ?」
「いえ、俺がそうしたいだけなんで」
「礼を言おう」
カノンはワインを受け取り、目を細める。これは先日港街で買えなかったワインだ。今日は運がいい。
カノンは酒のみだ、どんな土産よりも酒が一番嬉しい。
シュレリアから「飲みすぎるな」と言われているのを思い出す。仕事のしがらみが多いと飲みたくなるのだ、許されたい。
ワインを机の上に置き、一息を着く。
「……それで、今回の報告は」
「はい」
今までの柔らかい空気が、張りつめた。
今回の報告、とは天界、アースガルドのことだ。レオンは軍に所属しながら、天界政治の情報を探っている。所謂スパイという奴だ。
天界の政治状況をカノンは把握できない。年中艦に乗っているため、上との通信以外で把握しようがない。
通信でレオンに情報を送ってもらう方法もあるが、ハッキングされる恐れもある。物資補給の名目で、レオンには情報を届けて貰っていた。
ただでさえ政治家の息子であり、民衆を守る軍人のカノンは天界の権力者達から嫌われ者だ。
権力者というのはいつでも傍若無人で、身勝手な奴らだ。彼らは民衆などどうでもいい。民衆の事を考えるカノンは、いつでも彼らに煙たがられている。
特に、天族のことを第一に考える天族主義者。我が身優先で民衆を顧みない奴らは、いつ何をするかわからない。常に動向を監視し、いつでも政界を乗っ取る準備を整えておく。
決してレオンからの差し入れが目的ではない。
横暴な権力者の情報の記録は、民衆のシュプレヒコールの役に立つ。
「やつら、核兵器を用意してるっす」
「核……? 何に使う気だ」
「……恐らく、想像通りっす」
「ニブルヘイムに打ち込む気か……」
「……会議から原質は取ってますっ」
カノンが考えていたよりも、ずっと早くことが動いている。天界も、そして、魔族達も。
先日の魔族達のことを思い出す。彼らの目的は、戦いのない世界だと言っていた。仮にそうだとしたら、彼らはこの事についてどう考えるだろう。もし魔族に、本当に和平の意志があったら?カノンの中に希望が一瞬、見える。
頭を悩ませた。だとしたら、核を使わせるわけにはいかない。無意味な殺戮と変わらないではないか。
魔族も生きている。想像が及ばないだけで、魔族が地底で文化を築いている可能性は充分にある。滅ぼしてしまうのは楽だ。だが、それは根本的な解決にはならない。
一度全てを消す感覚を身に付けてしまったら、もう元には戻れない。人間が天族の言うことを聞かなくなったら、今度は人間だって滅ぼしかねない。
恐怖を利用した支配は、いつか反乱の火種になり、再び戦争を引き起こす。
「この件について、次の会議は」
「まだ準備段階なんでなんとも……」
「わかった……もどかしいな、こういう時にすぐに動けない立場というのは」
「いえ……この件に関しては、カノンさん一人じゃきっと止められないっす……」
「ああ……知っているさ」
「……情報が入り次第、随時お伝えするっす」
一人の権力者として、天を仰ぐ。政治家と同等の舞台でも戦える立場なのに、現状はそれを許してくれない。虚空に溜息を着いた。
軍人として戦うのが正しいのか、政治家として戦うのが正しいのか。悩みの種は尽きない。
「次の会議、きっとカノンさんを支持するヒトはほとんど参加させないはずっす」
「だろうな……奴らはやりたいようにやるだろう」
「……外部で回しときます」
「くれぐれも、慎重に頼む。秘密を知る者は多い程漏れやすい」
カノンは渋い顔をして、コーヒーを飲み干す。もうすっかり冷めてしまった。あまり考えすぎても疲れてしまう。
レオンが「肩でも揉みましょうか?」と様子を伺っている。有難くその申し入れを受け取ろうとすると、執務室の扉が力強く二回、ノックされた。