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とりとめのないことをそのままに
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記事一覧

  • 山寺さん?

    20230522(月)00:59
    鬼滅の刃第七話のお話になります。
    お気をつけくださいませ。









    第七話「極悪人」
    出だしの炭治郎から繰り出される技の描かれ方もまたまた細かい場所まで手を抜かない作画、惚れてしまいました。
    玄弥が喜怒哀楽鬼の分裂状態から吸収、合体する様子を冷静に分析する様子から彼もこれまで幾多の戦闘を経験して来たと言えますよね(彼の戦闘シーンはこれまでなかったですが…)
    炭治郎と玄弥もここに来て、足も出なくなりつつある中、さらに追い打ちをかけるように新たな6体目の鬼 憎珀天が出現。
    その威圧的なものに炭治郎もかなり怯んでしまうのもわかります…

    龍の作画もすごかったーーー!!!
    原作を読み返していましたがこの龍のシーン、原作でも迫力があってどう描かれるのかなと思っていました。
    ですが今までの龍が出てくる技もあった中で個人的にはこの色の少ない龍に作画スタッフさんの想いがとても込められている様にも感じました。
    色がないからこそ、その動きに色をつけるように描く、そんな風に。

    憎珀天に戻りますがここでベテラン山寺宏一さんが起用されたことがとても話題になっていますね。
    どう聞いても私のような素人には同じ声優さんには思えなかったです!
    今までたくさんの山寺さんの声を聞いてはいたものの、ある程度「そうかな?」と思うものが多かった中、見た目の若い憎珀天、声優さんの底力を見せつけられた想いです。
    ご本人もずっと「鬼滅に出たい」と言い続けて来られたようでここで起用されると言うのはある意味してやったり、だったのでしょうね。
    ただただすごい!
    山寺さんと知ってから聞き返した方などは「山ちゃんだ」とおっしゃる方もいて、それもお分かりになるのはすごいなーと思うど素人です。
    多くの方が予想されていた声優さんがトレンドに入ったり、こうして同じ時間を共有しながら楽しむアニメ視聴スタイル、現代的で楽しいですね。

    さて、ずっと、ずっと期待していた鋼鐵塚さん、いよいよ素顔が解禁されましたね!!!イケメン蛍さん、目の色がついてびっくりしましたがオレンジ色!刀を研ぐ音、リズム、息遣い、刀鍛冶としての命を削りながら全集中する姿は職人そのものでした。
    彼が研磨するこの刀、今後も注目です。

    小鉄くんの懸命な姿、また炭治郎と重なり合う赤い瞳で覚醒した無一郎、過去回想シーンを原作で再読してまた泣いていたのですがwアニメーションにどう変化するかも楽しみです。

    小鉄くん…!
    心配だけど……
    守り守られて…

    次週も楽しみです!!
    (本当に山寺さん、すごいなあ)
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  • 異空間 非日常

    20230521(日)08:25
    昔から映画を観るのが大好きでした。
    レンタルもよくしていましたがやはり劇場のあの空間、音響に包まれるのが何よりもその世界に没頭できた。
    約2時間のショートトリップ。
    アニメ、恋愛、アクション、サスペンス、ドキュメンタリー、戦争、ミステリー、ジャンルは問わず。

    最近はサブスクリプションが台頭して来て、自宅で楽しめるからわざわざ劇場に足を運ばないと言う方も増えたと言います。
    それもまた時代の流れ。
    さらには鑑賞代も大人料金が値上げされるとのこと、ますます劇場離れが進んでしまうのだろうか…と思ってしまいますが映画好きは料金如何で、その非日常体験を嫌うことはまずないと思っています。

    いままでも、これからも。

    最近、物よりも体験・経験に時間やお金を使うことに魅力と大切さをより感じるように……
    限りある時間の使い方を自分らしく、その記憶に非日常体験を刻んでゆきたいと。

    皆さまもそれぞれの大切なお時間を大切な人と1秒でも長く過ごせますように。

    先日、実家の本棚で父が劇場で買った50年も前の映画パンフレットが残っているのを発見、そんな想いを強めました。
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  • カナヲの存在

    20230520(土)04:23
    昨日は鬼滅のキャラクターの中でも物静かでいて、まだまだ隠された雰囲気を纏うカナヲのお誕生日でした。おめでとうございます!

    彼女の初出は炭治郎たちと同じ最終選別でしたが、全く汚れもせず涼しい顔をしていたことがある意味、静かな衝撃を与えた登場シーンでした。
    炭治郎も善逸も玄弥もそれぞれが満身創痍な状態でしたからカナヲの無傷はより際立っていました。
    その後の那田蜘蛛山での冷静かつ圧倒的強さ。

    ですが彼女の生い立ちをめぐる回想シーン。
    あの時代は珍しくもなかったのでしょうけれど、それでも感情を無くし、言葉を忘れ、息をするだけのところから胡蝶姉妹に出会えたことで彼女の人生が一変します。
    自分の生まれた日がわからないと言うところから、昨日のお誕生日は胡蝶姉妹と出会った日、とのこと。

    生まれた日を大切に祝う現代ではありますが、カナヲにとっては生まれた日よりも自分を救い出してくれた胡蝶姉妹と出会った日の方が何よりも大切なものなのですよね。
    公式絵では姉ふたりからお祝いされているものでした。
    姉妹の表情の違いにもその性格が現れていてとても可愛かったですね。
    カナエは普段は穏やかな人、胡蝶さんは快活な雰囲気でした。その後、カナエの面影を追うように穏やかな人を演じていた部分もあった胡蝶さん。しかしカナエの真の強さと厳しさはのちに胡蝶さんを鼓舞させます。
    そんな姉ふたりに支えられ、カナヲは鬼殺隊にとってなくてはならない存在へ…

    カナヲと胡蝶さんのこれからも皆さんと見守ってゆきたいと思います。
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  • 猫カフェ

    20230519(金)05:32
    アニメ「カワイスギクライシス」の影響もあって猫ちゃんを愛でたくなり、早速猫カフェへ行って来た先日のこと。

    カフェと言っても保護猫ちゃんたちを匿うシェルターの役割もしているそうで、お茶をしながら、と言うものではなくただただ猫ちゃんたちの日常にお邪魔して愛でさせてもらうような空間。

    椅子や床に座るとすぐさま膝の上に陣取って来た「お膝大好きっ子」に射抜かれてしまい2時間の内の半分は布団と化していたマユムラでしたwww

    肉球も失礼してお触り放題(言い方w)させていただき、その感触に力が抜ける様でした。

    50匹はいたでしょうか。
    いろいろな性格の子がいるのはもちろんで

    一切人間のそばに近寄らないでキャットタワーなど高い場所でくつろぐ子、
    床に近いところにいたとしても触られるのが苦手な子、
    人間に近寄って興味はあれど素通りする子、
    ケージの中でじっとしている子、
    ケージの扉は開いているものの他の子からいじめられてしまうので出て来ない子、
    猫パンチを繰り出し他の子を威嚇する子、

    本当にさまざまでした。
    中でもわたしがずっと気になっていた子は、小脳に障がいのある子で歩行するも手足がきちんと出ずふらついて前に進むのも大変そうな子でした。詳しくは聞かなかったのですが小脳にダメージを受けた理由があったはずでそれが事故なのか生まれつきなのかはわかりません。
    それでも懸命にご飯のところまで歩いてのんびり時間をかけて食べ、再び自分のクッションに戻ってゆく姿を見ていると私たちの生きる世界の出来事の多くはなんとかなるさ、と思える。
    きっとその身体に対しては何も思うことなく生活している猫ちゃんなのでしょうけれどどんな境遇であっても「生きることを諦めない」そんな風に感じられました。

    このカフェに保護猫ちゃんしかいないと言うことは、ここに1匹も猫ちゃんがいないのが最高の理想ではあります。
    どの子も譲渡会で素敵な飼い主さんの元にご縁があります様にと願ってたっぷり2時間癒されて来ました。
    将来的に飼うことが可能になったら…
    こんな保護猫カフェから引き取りたいと改めて思いました。
    ボランティアに近いスタッフさんだそうで保護活動をし続けてらしゃる姿は頭の下がる思いでした。応援という形でまた再訪したいと思いながら…
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  • 自動車税

    20230518(木)04:34
    GWが過ぎるとそろそろ来るかな?とそわそわし始めるのが自動車税の納付書ですw 職場のスタッフと「届きました?」と話すのも毎年恒例のような気がして来ましたが、先週話していた時点ではお互いに届いておらず、話した翌日くらいにキッカリ届いていましたw w w
    やっぱり納税関係は忘れずにやって来ますね!

    お客様ともお話ししていましたが、普通乗用車と軽自動車では数万円の納税額の違いがあるので、普通乗用車を持つお客様は「そんなに軽が安いならみんな乗り換えますね」とのこと、街を走っていても軽自動車は本当に台数が増えました。

    車の所有に関しては環境を汚していたり、道路を走ることでアスファルトを傷めている責任なども含めての税金だと理解するのが一番納得できるかな、と自分では思っていますが場所によってはまだまだ道路の整備が追いついていない場所、やたらと工事ばかりしている場所など差も見られるのは不思議なところです。

    車を維持するのは確かに大変な面もありますが、乗り始めると自らの意思で、タイミングで行きたい場所に行けるよさも実感しています。
    知らない道、知らない景色を発見できたりするとわくわくしてしまうオタクなのでwまだまだ行っていない場所を見つけてみたい。

    通勤ではバスを利用していますが公共交通のよさももちろんありますよね。
    毎朝、抱っこ紐にひとり抱え、さらにベビーカーにひとり乗せたお母さんが乗車されるので駅に着くと声をかけてお手伝いしますが、バスの運転手さんによっては運転席から降りて一緒に手伝ってくださいます。
    自分で運転している時とは違った人との関わりも公共交通では新鮮ですね。

    お互いに労わり合いながら優しくできる世の中にもっともっとなりますように。

    そうそう、自動車税、納めてきます!w w w
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  • アクセスありがとうございます!

    20230517(水)04:51
    こんな底辺を這いつくばるようなサイトに足を運び続けてスキを残してくださる方、通りすがりに味見をしていってくださる方、アクセスくださいまして本当にありがとうございます!

    刀鍛冶の里編の第六話以降、いつもよりもアクセス数がちょっぴり多くなっているのを感じて、とても嬉しい管理人です!
    更新頻度が亀以下になっているにも関わらず検索をして見つけてくださるのか、嬉しい悲鳴をあげています。

    大正軸のお話はほとんど書いておらず現パロ専門屋ではありますが「生きること」をいろいろな面から書いてみたいと思って続けています。
    唯一「tourniquet (ターニケット) ─止血帯─」は原作に沿いつつも記憶ありの現パロとなっております。それに関連した短編「誰が為に」は捏造だらけの大正軸です。

    今回母の日にちなんで「Pear toxic」の後日談をこちらtweettweetに載せました。
    また父の日には「tourniquet (ターニケット) ─止血帯─」の後日談を前々から考えているので当日上げられるように頑張ります!
    この後日談は過去の記憶や大正軸のお話は出て来ない予定なので現パロとしてお読みいただけるかと思います。

    ただいま連載中「風の街 風の人」の最新章、もう少しお時間いただけたらと思います。お待ちくださっている方がいらっしゃるか…分かりませんが……申し訳ありません!

    いくつかグッズも壁やコレクションケースに増えましたw w w
    最新章アップ後、日記「山籟」の方もアップしたいと思っています。

    皆さまと同じ推しであるならばこれ以上の喜びはありません。
    心の中で皆さまと推し談義、させてくださいね♪
    またよろしければ遊びにいらしてくださいませ。
    ありがとうございます!
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  • 不死川家

    20230516(火)05:27
    昨日書きましたtweet tweet、第六話の玄弥の回想シーンについてもう少し書き足しておきますね(自分の覚え書きにw)

    母が長い時間、仕事で家を留守にする間、実弥と玄弥が弟妹たちを守っていたのは父が不在がちだったことも相まってかなり幼少期からだったと想像出来ます。それが固く結ばれた兄弟間の絆にも繋がり、物質的な不足の中でも心だけは豊かであったと、実弥が母を探しに行ったあとの弟妹たちの和やかな様子からも見て取れました。



    ・兄弟で寝る際には実弥が入口近くに寝ている
    ・実弥と玄弥は5歳差とファンブックにもありますが年齢差の割に玄弥の体格がよく、実弥は華奢であることから、体質以外にも下の子たちに優先にご飯を分け与えていた可能性
    ・街を2人で歩くシーンでは大八車(リヤカー)を引くほど実弥の腕力は強かった
    ・竈門家は同じ東京でも電気がまだ通っていなかった可能性があるが、不死川家には電気が通っていた(中央区京橋)
    ・妹の出生順が貞子ちゃん、寿美ちゃんの順の可能性が高い(拙作では長女寿美ちゃん、次女貞子ちゃんと自己解釈していたのですみません!w)
    ・末っ子はことくんで間違いないこと



    アニメオリジナルも含め、不死川家を知る上で重要な描写がたくさん盛り込まれていました。
    実弥が玄弥に笑いかけた表情、再び取り戻すことができるのはずっとずっと先……
    ラストまでみなさんと見守ってゆきたいと思います。

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  • 柱になるんじゃないのか!

    20230515(月)01:11
    鬼滅の刃第六話のお話になります。
    お気をつけくださいませ。










    玄弥の特異体質が徐々に明らかになる中、少しずつ炭治郎と玄弥の間に流れる空気感も変化してきた第六話でした。
    鼓屋敷での伊之助と炭治郎の出会いを彷彿とさせるほど。
    炭治郎の真っ直ぐに人を信用するくもりなきまなこな姿に玄弥も持って行かれている様子が可愛かったです。

    喜怒哀楽鬼を斬ったとて回復されてしまう。
    それも頸を斬ってもダメであると悟った後の炭治郎の切り返しの速さは赫刀を手に入れた彼の一段階上に登って行った形なので来週以降の玄弥との共闘も楽しみ過ぎます!

    無一郎も玉壺の攻撃に手も脚もでない状況下、ギリギリのところで冷静な判断をしてゆくでしょう。

    全23巻の原作の中でも自分の中で前半戦の大きな山場となる玄弥の回想シーン。
    アニメオリジナルも回想シーンに盛り込まれていました。
    兄弟が布団を並べて寝ているシーン、オリジナルでしたがやはり長子実弥はみんなを守るために一番入り口付近に寝ていた。
    玄弥が抱っこしていた末っ子はファンブックの記載通り弟のことでしたね。
    実弥が帰りの遅い母親を探しにゆく前の玄弥との会話もオリジナルでしたし、弟妹がくすくす笑うごくごく普通の家庭の様子とその後の凄惨な場面との対比が母の日に…と思うと胸が締め付けられる思いでした。

    柱合会議で炭治郎にぶつけられた「善良な鬼の区別もつかないのか」と言われた際の実弥の心境は計り知れず、さらに鬼になった禰󠄀豆子が鬼殺隊に認められていることに対しても実弥は後々まで自分の母親と重ね合わせてゆくので今回の回想シーンをきちんと描いてくださりすごく、すごく、よかった…です…

    でも…辛い!

    なので創作で不死川家を現パロの形で救っていきたいと、烏滸がましくも…
    父親と母親と兄弟と…

    リアタイとお代わり2回してもまだまだ足りませんが…
    次週も楽しみです!
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  • 黄色い想い

    20230514(日)14:49
    今日は5月2週目の日曜日、母の日です。
    昔の幼稚園、小学校などではこの時期にお母さんの似顔絵やプレゼントなどを図工の時間に描いたり、作ったりしていたものですがもう何年もそんな風習は廃れてしまったと聞きます。
    さまざまな家庭事情を汲んでの流れとも聞いて、それぞれの立場に想いを馳せることの大切さを知らされます。

    拙作「Pear toxic」ではどうやら母の日のプレゼントについて小さな出来事が起きているようです。







    4月上旬、忘れることなく花が咲き、家族総出で行っている梨の交配を終えた。手で行う人工授粉の範囲を徐々に狭めて、ミツバチに受粉を手伝ってもらう自然受粉に切り替えているから昔ほど多くの人手が必要ではなくなった。しかしうちの家族はこの時期、誰が何を言うわけでもなく休みを取って集まってくる。
    それぞれがひとつずつ歳を重ねて仕事や家族が変化しているにも関わらず。その報告なんかも兼ねてうちはこの時期がとても賑やかだ。特に盆は休まず収穫、販売が続く家業だし正月くらいしかしっかり休んで家族が集まる機会がない。なので余計にこの時期にみんなが帰って来るのかも知れない。

    交配作業がひと段落する4月下旬には梨園全体を覆うネットを張る作業に入る。
    それが終わると世間と同じようにゴールデンウィークに入る流れだ。しかしどこも混雑するし家でのんびり過ごすのが通例だった。
    納屋で今後使う道具の準備や軽トラの掃除をしていると、長男がひとりで現れた。
    本人なりに小声で話し始めたもんだから、俺も手を止めて耳を傾けることにする。

    「おとうさん!ようちえんで“ははのひ”のえほんをせんせいがよんでくれたんだけど……
    ぼく、なにかおかあさんにプレゼントしたい!」

    地面を強く踏み締めるようなその出立ちに強い意志を感じた。
    去年までは俺が彼女へ母親業への感謝の気持ちとして渡していた花を見ても何も言って来なかった長男だったが、ここへ来て幼稚園で先生が読んでくれたと言う絵本でスイッチが入ったのだろう。

    「で?どんな絵本だったんだ?」

    だいぶ体つきもがっしりして兄貴らしくなって来た。両脇に手を入れえて抱き上げるとずっしりと腕にかかる命の重み。
    抱えた後に軽トラの荷台に乗せてやり俺も一緒に荷台に飛び乗る。
    荷台に乗ったまま走行することは違反なのでやってはならない。
    時効だと思って聞いて欲しいのだが、小さい頃は親父が俺たち兄弟を荷台に乗せて園まで走っていたものだ。

    長男と一緒に軽トラの荷台であぐらをかき、顔を突き合わせる。

    「んと…まいにちかぞくのためにがんばってるおかあさんうさぎに、子うさぎたちがきょうりょくしてかわのちかくにさいてるきれいなおはなをつみにいくっておはなし」

    俺の息子にしては絵本の内容をよく覚えているな…と変なところで感心してしまった。

    「おぅ、そうか。途中、怖いオオカミなんてのは出て来なかったか?」

    定番の流れだろうと思ったがやはりその通りだったようで

    「うん、いたよ、コワくておっきなオオカミ。
    でも子うさぎのきょうだいがオオカミをやっつけて…きれいなおはなをつみにいけたんだ」

    握り拳を小さく作ってその子うさぎたちの勇気を感じているんだろうか。

    「もしお前と弟と妹の前に怖いオオカミが出たら、同じように出来るか?」

    ちょっと意地悪な質問だったかも知れないが5歳の長男が何を言うか聞いてみたかった。
    今年で6歳、来年には小学校に上がる。
    こいつの冒険心を掻き立ててやりたい。

    「……うん…できる!できるよ!ぼく、ぴーまんもたべられるようになったし、なんでもできる!てきからおとうとといもうとをまもらないと!」

    最初こそ迷いがあったようだが、戦隊ヒーローものに絶賛夢中になっているだけある。
    語尾の強さに奮い立つものを感じた。
    少し伸びた髪の毛を掻き回すように頭を包んで手荒に撫でてやる。

    「よし、じゃあ花屋に買いに行くか?お前、どんな花をお母さんにあげたいんだ?」

    俺の顔を見上げて大きく見開いた目を瞬時に細める。破顔した顔は彼女と瓜二つだ。
    嬉しそうな顔から一変、今度は難しい顔になり変わり、その浅慮さが子どもの勢いであり、俺の息子だな、と笑ってしまう。

    「そうか、それなら母の日に花屋に行ってみるか。俺もお母さんに渡す花を注文してるところだから。お前が自分で選んだらいいよ」

    母親へは寿美と貞子が花担当だから、俺ら男兄弟はそれぞれ違ったものや形で何かをしている。言葉でもいいし、母の日当日は家事全般を一手に引き受けてもいい。兄弟みんなができることをしているだけなんだが、何よりも当人が喜んでくれるならどんな形でもいい。
    普段は質素で外食も極力しない人が年に一度の楽しみなのか、俺にはホテルや洒落た街場のレストランのランチビュッフェをご馳走してくれと言われる。寿美や貞子に連れて行ってくれるよう毎年頼んで、軍資金だけそっと渡していた。

    妻である彼女へは子どもたちの世話、母親業への感謝も気持ちを込めて俺があの花を贈っていた。誕生日も何かの記念日もすべてあの花でいいと言う。それだけ思い入れのある花なんだろう。
    長男が今年花を贈りたいと言い始めたことで来年からは俺が花を贈るんじゃなくて、子どもたちにスイッチしてもいいかも知れない。

    そんなことを思いながら母の日当日。
    駅前のスーパーの中にテナントとして洒落た花屋が入っていていつもそこで買うことにしていた。
    同級生の一族が所有する広大な駅前農地を整備し、スーパーに土地を貸出していると言う。
    こうして農地を商業施設、また宅地へ整備してゆく様は地元民としては一抹の寂しさを感じてしまうが、生きてゆくにはこれもまた仕方のない流れなんだろう。

    車で10分かかるかどうかと言う距離だが、今日は歩いて行ってみることにした。
    今朝、長男がこっそり次男に耳打ちしているのを見て、これは大事になりそうな予感しかなかった。
    案の定、彼女に聞こえる声で次男が

    「とと、ぼくもおはなやさんいく!」

    と言い出した。
    視界の片隅で下を向いて笑いを堪えている彼女が目に止まったが内緒もへったくりもない状態…
    そして兄貴2人が外出の準備をしていれば予想通り長女も自分の靴をわざわざ玄関から持ってきて

    「いく!いく!」

    と言う。
    3人引き連れて行くなら帰り道は予測が付くってもんだ。
    車で行きてぇ……

    大人なら20分もあれば到着する距離がこれは1時間はくだらないコースになるな…
    開店直後を狙った方が花屋も混雑しないだろうと思って、朝食を済ませてすぐにチビ3人を引き連れて出発することにした。
    俺たちに手を振る彼女は俺を一瞥すると俺の心理を読んでいるのか哀れんだ目元の後、いかにも可笑しそうに笑っていた。
    しゃがんで長女の靴を調整していた彼女が
    「これは必需品」
    と言って抱っこ紐を俺の身体に装着して送り出してくれた。
    まあ、そうだろうな。

    駅前まではほぼ平坦でいて、車通りの少ない住宅街を抜けて歩く。
    5月の心地いい天気は湿度もなく、見上げれば空の青さが目に刺さるようだ。
    サングラス、かけてくればよかった。
    少し先ゆく長男と次男のケツを確認しながら、長女はまだ俺の手を握って離さないがこの人も根っからの自由人。何か興味のあるものに対しては突っ走るので目が離せねぇ。
    すれ違う散歩中の大型犬に対して突進していったから慌ててしまったが、長男の話では
    「おともだち」
    の犬らしい。
    ゴールデンレトリバーの長めの毛を少しだけ引っ張りながら撫でていても、犬の方は大人しくされたままだ。
    最後には犬の首元に腕を巻きつけてぶら下がらんばかりの慣れ慣れしさ…
    飼い主に礼を伝えて、再び歩き出す。
    すると長女がたんぽぽを見つけて数本強引に根元から毟り取った。

    「これ、かかに!」

    あぁ、なるほど長女はこれでいいようだ。
    もしかしたら先週、日帰りで彼女の両親の墓参りに行った際に手向けたひまわりの花の色を覚えているのかも知れない。
    彼女もしきりに

    「このお花が一番好き」

    と子どもたちに伝えているから色のインパクトが大きいのだろう。
    前を歩く長男と次男が戯れ合いながら戦いごっこを繰り広げている。

    俺と玄弥もよくやっていたこと。
    大きくなればそれぞれ別の道を歩き始め、交わることはほとんどなくなる。
    家庭を持てば尚更だ。
    それでも頭の片隅に残る兄弟との時間は、忙しい毎日から離れ、ほっとできる懐かしい記憶。
    こいつらにもそんな日が来るんだろうな。

    あと少しでスーパーと言うところで長女が
    「だっこ」
    と言うだけで3人とも元気に歩いてくれた。
    行きの所要時間45分。
    “お友達”との触れ合いがあったにも関わらず、比較的早く到着できたのは3人が成長して体力が付いてきた証拠だろう。
    長女を抱っこしながらスーパーへ入るとまだオープン間もないのもあって客も少なめだった。

    入り口の左手奥にある花屋に進む。
    母の日当日と言うこともあって店員も増員、すでに店頭には大小さまざまなカーネーションの花束や鉢植えのもの、アレンジされたものなどが所狭しと並べられていた。
    俺が注文していたひまわりの花を告げると、すでに用意されていて、息子たちの選ぶ花待ちになった。
    長女が握りしめていたたんぽぽはすでに元気をなくし萎れてきてしまった。
    それを見た店員のひとりが

    「それ、お水をあげましょうか?」

    と長女に声をかけてくれた。
    握っていた花を見遣り

    「うん!」

    と返事をした長女からそっと萎れているたんぽぽを受け取って店の奥で何か作業してくれた。
    この一年でも一番忙しい日に、しかも外で摘んだ花に元気をくれると言うからサービス業の人たちには頭が下がる思いだ。
    地面に咲いている状態が一番ベストであるたんぽぽはあれ以上はどうにも出来ないだろう。
    しかし店先に戻ってきた店員の手の平には透明なラッピングを施された小さな小さなたんぽぽの花束が乗っていた。

    「これ以上元気にしてあげることは難しいんだけど、元気に咲いてくれるように少しだけおまじない、かけておいたからね」

    そう長女に伝えてそっと手渡してくれた。
    小さな手に戻ってきたたんぽぽの花束は手元にリボンまで結ばれ、立派な花束となっている。

    売り上げになるならないに関わらず、誰かに寄り添ってその気持ちを汲めることは同じ人間として見習いたい出来事だった。

    そんなやり取りの間に長男は黄色のカーネーションを、次男は見る限り黄色の菊らしきものを指さしている。

    「お前…これ、菊じゃねぇのか?」

    次男にそう言っても菊がどんな花かなんて知りもしないのだろう「これ!これがいい!」と譲らない。
    いわゆる仏花とは違った形でよく見なければ菊には見えないが流石に菊はな…と思っていると先ほどの店員が

    「こちらは菊ではあるんですけどスプレーマムと言うんですよ。菊は仏花としてのイメージが先行してしまいますよね。
    スプレーマムは、1本の茎に複数の花を咲かせるアメリカ生まれの品種でおしゃれな雰囲気を楽しむことができて人気があります。
    このスプレーマムは菊と同じ「高潔」という花言葉を持っていて、気高く気品ある花姿に由来します。さらに「清らかな愛」という純粋さを感じさせる花言葉から、ウェディングブーケによく用いられるんですよ。母の日のプレゼントにもとてもおすすめです」

    目線を次男に合わせながら俺にも説明してくれた。さらに続ける。

    「スプレーマムのマムは英語で言えばお母さん、と言う意味ですしわたしとしてはカーネーションと共に母の日のお花としてぴったりだと思っています。うちはわたしが小さい頃、両親が離婚していて父に育てられました。大人になって母と再会して毎年このスプレーマムを入れたお花を贈っています」

    そう言うと長男と次男の選んだ花の本数を俺に確認して、すぐにまた子どもたちに合う花束を作って戻って来た。
    俺の注文していたひまわり、長男のカーネーション、次男のスプレーマム、そして長女のたんぽぽ。揃って全てが黄色の花々だ。
    それぞれが花束を手に持ち、再び自宅へ戻った。案の定長女は途中抱っことぐずり、そのまま抱っこ紐の中に収まる。
    次男もどんどん足取りが重くなり最後にはしゃがんでうずくまってしまったので、背中に背負って俺は前と後ろの重みで汗が噴き出して来た。
    頑張る長男に全員の花束を託し、なんとか自宅に戻ると昼に差し掛かっていた。
    玄関にどさりと腰掛けてしまったが、後ろの次男を引き剥がされ、今度は前の長女が連れて行かれると、そのまま玄関先で大の字に寝っ転がった。ひとりひとりは楽勝だと思っている重みだが、確実に成長している証拠を己の身体で体感した。

    長男が彼女に何やら話しかけている。
    どうやら今日の晩飯は自分たちで何か作りたいと申し出ているようだ。
    彼女と冷蔵庫の中を覗きながら俺と作れるものを考えている長男。
    今は寝ている次男と長女も絶対に手伝う!と言うだろうから台所が大惨事にならないようなメニューを求む!と思っていると

    「おとうさん、カレーいっしょにつくろ!」

    そう言われ、こいつの気持ちが詰まった旨いカレーができるだろうと思いながら、大の字で寝っ転がっていた玄関から跳ね起き、室内に戻った。

    昼飯の時間にそれぞれの“黄色い想い”を手渡すと、両手いっぱいに花束を抱えた彼女の頬と目に映える黄色が俺たちを家族を優しく包んだ。





    ひまわり 「あなただけを見つめる」
    カーネーション 「無垢で深い愛、美」
    スプレーマム 「高潔、清らかな愛」
    たんぽぽ 「神の神託、幸せ、真心の愛」



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    小説後日談

  • ありがとうの神様

    20230513(土)19:58
    2015年に発売された『ありがとうの神様』と言う本があります。著作家である小林正観さんが40年間に及ぶ研究をまとめたもの。臨床心理士などの資格も持ち、精神世界にも精通されていました。

    以下、本の中を抜粋しながらご紹介させてください。







    末期ガンが自然治癒した人の共通点は「ガンになってよかった」と心から感謝していたことだそうです。

    帯津良一先生と言う現代医学(西洋医学)とホリスティック医学(東洋医学、自然療法など)を融合させた治療を行っている医師がいらっしゃるのですが、免疫力を上げるためには「笑うこと、小さな幸せを大切にすること、生命の躍動のある生活」これらがとても大切と述べてらっしゃいます。そして85歳を超えた今も川越と池袋で診療をされています。
    10年以上前になりますが池袋行われていた帯津先生の講演会に行きました。本当にお元気そのもの。当時も70歳は超えてらっしゃったでしょうけれど肌つや含め、免疫力の高い人のエネルギーはこうも高いものなんだなと肌で実感したのを覚えています。

    小林さんの著書に戻ります。
    新聞でも取り上げられた中に、末期ガンの患者だけを集めて富士登山を行った医師グループのことがありました。
    医師の中に、昇幹夫先生という方がいて、昇先生は「日本笑い学会」の副会長でもあり、ガン治療に「笑いの効用」を取り入れているのだそうです。
    昇先生のお話によると、手の施しようがなくなった末期ガン患者の中に、自然治癒する人がいると。
    そして自然治癒した人たちには共通項があるということでした。

    「ガンになる前よりも、ガンになってからのほうが、ずっと幸せだった」

    と思っていたのだそうです。

    「ガンになって人生が変わった」

    ガン患者だけの富士登山に、70代の女性が参加していました。
    その女性は「ガンになったから、よき仲間と助け合いながら富士山に登ることができた。70歳を過ぎて富士山に登るなんて思わなかった。ガンにならなかったら登らなかっただろうし、ましてや70歳を過ぎてからなんて、考えられなかった」と。
    それからさらに4、5年がたち、その女性は、ガン患者とともに、標高・約4810mのモンブラン(ヨーロッパ)に登ることになります。
    そして帰国後、昇先生のところに次のような手紙が届きます。
    「70歳を過ぎてヨーロッパに行くことは考えられなかったし、ましてモンブランに登ることなど、思いもよらなかった。ガンになって、本当によかった。ガンにならなければ、富士山に登ることも、モンブランも知らなかった。こんなにすばらしい仲間と知り合うこともなかった。ガンになって本当によかった。ガン細胞に心から感謝しています」
    この女性、その後も元気に暮らしているそうです。

    「受け入れる」ための訓練

    小林さんのご長女は知的障害を持っているそうなのですが同様の障害を持つグループと交流の中で分かったことがあると言います。
    それは知的障害を持つ人の中で、ガンになる人は少ない、ということ。
    その理由は恐らく「ストレスを感じることが少ない」からだと言うのです。
    ストレスはガン細胞を活性化させる要因のひとつなのでストレスを受け流すやわらかさを持っている人はガンになる可能性が低くなると考えることができるそうです。

    小林さんの講演会で、「ガン患者の中には、ガン細胞がなくなる人がいるようだ」という話をしたあと、次のような質問がありました。

    「私の友人で小林さんの本を読んで心穏やかになった人がいます。ですがその人のガンは治らずに、亡くなってしまいました。いい人だったのに、どうしてこのような不幸が起きるのでしょうか?」

    小林さん曰く「よいか、悪いかの問題ではない」とのこと。

    「なんで私がガンになったのか」と嘆いている間は、「死に向かって一直線に全力疾走している」ことを覚えておいて欲しいと。

    「私は悪いことをしてこなかったのに、なんで病気になったのか。どうしてこんなにひどい目に遭わなくてはいけないのか」と、その現象を否定した瞬間に、全速力で死に向かって走り出すように考えてらっしゃいます。

    わたしの母は昨秋、胃ガンの手術をしました。
    ステージ1、リンパ節転移もなく、術後の抗がん剤治療も一切ないレベルでしたが、ガン細胞のできた箇所が広範囲だったのもあって、結局胃全摘になってしまいました。
    手術も成功、腹腔鏡手術だったため傷もあまりなく順調に回復しました。
    ですが、上述のように自分がガンになってしまったことを常に嘆いてしまっていて、結果、食べること、生きることを諦めてしまいました。
    母としては自分の寿命を早い段階に受け入れていたのかも知れません。
    手術から数ヶ月、駆け抜けるように逝ってしまいました。
    さよなら、ありがとうも伝えることなく。
    私自身、救急が到着するまで、母の心臓マッサージをやってあげられたこと、自分の布団の上で静かに拍動を止め、病院ではなく自宅で最期を迎えられたことが何より母の望みだったのだと、そう家族としては受け入れています。どの方にも「70歳はまだ早い」と言っていただくのですが、それも母にとってはこの年齢が寿命だったのだと、そう思っています。
    今もほとんど涙も出ず、こうして毎日なんらかの文章を書き続けることが自分にとっては癒し、供養のような気がして続けています。

    なぜ、その病気になったのか。
    それは「受け入れる(感謝する)」ための訓練なのかも知れないと小林さんはおっしゃっています。
    命をかけて、その訓練をしている、と解釈することもできる。
    だから、ガンになったことに「感謝」できるようになったとき、神様は「もう訓練の必要はありません」と、その人からガン細胞を取り除いてくれるのかも、と言います。

    神様が味方をしてくれる人になる習慣

    人は1人で生きていると「ヒト」ですが、喜ばれるように生きていくと、人と人の「間」で生きる「人間」に変わります。
    人の間で生きるということは「自分が必要とされている」ということ。
    「人間」の生きる目的は、ほしいものを得たり、何かを成し遂げることではなく、

    「人の間で喜ばれる存在になること」

    「『ありがとう』と言われる存在になること」

    にほかならない。
    発する言葉や表情など、その人のふるまいが「まわりを喜ばせるもの」になっていれば、投げかけた結果として、まわりの人が私たちにとっての「よき仲間」になってくれると。

    「自分が必要とされている」こと。
    これは本当に大事な生きる意味のひとつだといつも思います。
    仕事でも家庭でも地域社会でもどんな立場の方にもある生きる世界で毎日繰り返されている日常について回る生きる意味。
    「誰かのため」に生きていていると思っていることが結果「自分のため」になっていた、と言うことばかりです。

    誰かに喜んでもらいたい。
    人と人との間で人間になってゆくための修行なのでしょうね。

    物質的な「モノ」を手放し、身軽になると結局大切なものしか残らなくなると断捨離をしていても感じます。
    物に囲まれて満足することもひとつの通過点。
    特に若い頃はそれでよかったし、自分のためにお金を使うこともとても幸せでした。
    今も、もちろん自分のためにお金は使いますがモノよりも体験・経験にお金を使う大切さもますます感じるようになりました。

    「しあわせ」の語源は「為し合わせ」。お互いにしてあげることが、「幸せ」の本質。

    努力をして、頑張って、必死になって、自分の力だけを頼りに生きていこうとする人のもとには人は集まりません。
    「孤独という状態」が続いてしまう。

    一方で「自分の力なんてないんだ」と思っている人は、まわりに支えられて生きていることがわかっているので「謙虚」です。
    「謙虚」とは「感謝」すること。
    「感謝をする人(「ありがとう」を言う人)」のもとにはたくさんの人が集まってきて、「よき仲間」に囲まれます。

    教え合い、学び合い、交歓し合う「よき仲間」に囲まれたなら、それだけで「天国度100%」。
    頑張りも努力も要らない。
    ただ「喜ばれること」を続けていけばいい。

    「思いを持たず」よき仲間からの「頼まれごと」をただやって、どんな問題が起こっても、すべてに「ありがとう」と感謝する(受け入れる)こと。

    「そ・わ・かの法則(掃除・笑い・感謝)」を生活の中で実践することであり、「ありがとう」を口に出して言い、逆に「不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句」を言わないこと。

    すると、神様が味方をしてくれて、すべての問題も出来事も、幸せに感じて「よき仲間に囲まれる」ことになり「喜ばれる存在」になる。
    これこそが「人生の目的」であり「幸せの本質」なのです、と。



    その人それぞれの幸せの形。
    過去の、現在の、未来の皆さんや大切な方が、最良な幸せに包まれますように。
    母の日の前日、そんなことを思いながらお花を手向けて来ました。

    世界中のお母さん、ありがとう。




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