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あなたの目の前にいる人が鏡

2023/12/29 05:21
今日も神仏に携わる方の発信から。



昔は綺麗にに映る鏡なんてなかったから自分の姿はボンヤリとしか把握できなかった。
だから他人の目に映る「自分の姿」から自分を想定していた。
でも、こちらの方が的確に自分を把握できたと言います。

今、毛穴までクリアに見える鏡の前で…
見ている姿は本当の自分じゃない。

見ている自分は「見たい自分」。
気分がよければ「なんか今日イケてる」
気分が悪ければ「ホントに老けたな…」

そう映っている。

鏡は祭具。
古代は神の心を映すものだったのです。
今だって、鏡が映し出すのは「自分の心の真実」。
だから心構えなしにみると、あっという間に自我のとらわれの世界に行ってしまう。
これが「魔」。

今はどこにでも鏡があるから神聖さは失われて、鏡に映る姿が「自分」だと思ってしまいますが、実はそうではない。

いま、あなたの目の前にいる人が鏡。
全てそこに映し出されている。

年末年始は目の前にいる人とじっくり向き合える時間があると思います。
自分の鏡だと思って接してみましょう。



そうおっしゃっています。
鏡の姿を変えようとしても変わらない。
自分が変わらなきゃ、まさにそうですよね。

「鏡(かがみ)」から「我(が)」を取れば残るものは「神(かみ)」

昔から鏡を見るのがあまり得意ではない、と言うか朝お化粧や髪の毛を整える時以外は日中、鏡を見ることはあまりしません。
仕事の途中、お手洗いに行く際も手洗いを済ませると、目の前にある鏡をあまり見ないでお手洗いを出て来てしまう。
自分を見るのが恥ずかしい、そこに映る自分をまじまじを見るあの瞬間が今だに慣れません。
お手洗いでお化粧直しをされている女性を見ると、ご自分を直視できて羨ましいなと思うこともしばしば。
人ぞれぞれではあるでしょうけれど、この鏡と向き合う心と言うのは上記のように「神の心を映すもの」だったと思うとまだまだ自分は神の心を直視することが出来ない未熟者なのでしょうね。
ただ『心構えなしにみると、あっという間に自我のとらわれの世界に行ってしまう。これが「魔」』
となると、心構えなしに見られない自分は魔の世界にとらわれにくい、とも言えるのかな。

自分がどう他人から見られようと気にして来なかったのはよかったのかも知れません。
少しずつ、少しずつ。
目の前にいる人を今まで以上に愛おしみ、慈しみながらその人の瞳に映る自分を磨き続けてゆこうと改めて思わせてくださるお言葉でした。

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