【ナカトレ】バレンタインのはなし

 2月14日のバレンタインデー。私はいつも通りトレーナー室で事務作業をこなしていた。チョコをあげるような恋人はいない。

 担当ウマ娘のナカヤマフェスタにチョコレートをあげようと思って用意していたのだが、今日のトレーニングは休み。一応学内を探してはみたけれど、彼女の姿を見つけることはできなかった。

「はー、寂しいなぁ。独身三十路のバレンタインデーってやつは」

 エンターキーをターンと叩き、ため息をつく。同級生の結婚やら出産の知らせと、親からの「いい人いないの」攻撃に私は疲れ切っていた。

 仕事でずいぶん頭を使ったから、体が糖分を欲している。デスクの引き出しの中を適当に漁ったが、めぼしい菓子は入っておらず、いつのものだかわからない粉々になった煎餅が奥の方から発見されただけだった。

 飲みかけのペットボトルの蓋を開け、もうぬるくなったお茶でほうと一息つく。せっかくのバレンタインデーだというのに、ひとりきりな自分が情けないやら悲しいやらで、私は「もうイヤ〜」と嘆きとも叫びともつかない声をあげた。

「ん? ずいぶん寂しそうじゃねぇか。バレンタインデーの用事はどうした? トレーナーさんよォ」

 後ろからハスキーな、聞き慣れた声がした。振り返るとそこには、とっくに寮に帰っているはずのナカヤマフェスタが立っていた。

「なんの用事もないからここで仕事してるんじゃないの……」

 彼女の揶揄うような一言に私は力なく答えた。
「そんな寂しいトレーナーに、いいもんがあるんだけど。さて、いるかい?」

 彼女は後ろに回していた右手をサッと前に出した。その手に握られているのは、綺麗にラッピングしてある手作りと思われるチョコレート。

「わ! チョコレートだ! 用意してくれたの? 嬉しいなぁ」

 今年も誰にももらえないと思っていたから、たとえ義理チョコだったとしても嬉しい。私はるんるんで椅子から立ち上がり、ナカヤマフェスタの前に立って手を差し出した。

「おっと、タダでってわけにはいかねぇな」

 彼女はチョコレートを私の手が届かない高さにまでふっと持ち上げてしまった。あからさまにがっかりした私をみて彼女はさぞ愉快そうに笑った。

「ククッ、アンタはほんとに犬っころみてぇだなぁ。シリウスのとこのトレーナーみたいに、パピーちゃんって呼んでやろうか?」

 一瞬それも悪くないと思った自分がいたが、どうにか邪念を追い払う。

「なぁ。勝負しようぜ、トレーナー。かけるのはこのチョコレート。勝負の内容は……チキンレースだ」

 彼女と出会ったばかりの時に行った不良たちとのチキンレースを思い出した。あの時は確かバイクに乗り海に向かって……

「校内をバイクで走ったらダメだよ!!」

「は?」

 ナカヤマフェスタは呆れた顔でこちらを見ていた。
「チキンレースって言ってたから、前やったバイクのやつかと思って……」

 んなわけないだろう、と彼女はため息混じりに言った。

「せっかくならバレンタインらしくいこうぜ。そうだな……どっちがキス寸前まで顔を近づけられるかって勝負はどうだい?」

 んな、大学生の合コンでやる王様ゲームじゃないんだから……と言いたくなったが、確かにバレンタインらしいなと納得してしまったので、その勝負を受けることにした。

 これは、あくまでチキンレースだ。本当にキスするわけじゃない、ただの勝負だ。

 フェスタと向かい合ってソファに座り、勝負に挑む。すぐ横のテーブルには、愛バの手作りチョコレート。

 ーーこの勝負、必ず勝ってみせる!

「ルールは簡単だ。より唇を相手の唇の近くまで持って行けた方が勝ち。

 彼女がコインを投げて、先攻と後攻を決めた。裏がでたから、私が先攻だ。

「さて、お先にどうぞ? トレーナーさん?」

 後攻の彼女が、軽く目を閉じる。初めて見る愛バのキス顔。まだ勝負は始まってもいないのに、もう心臓がドキドキと激しく脈打っている。

 もともと綺麗な顔立ちとは思っていたけれど、こうしておとなしく目を瞑っているとますます美人だ。まつ毛なんて私の2倍は長い。

「じゃ、じゃあいきます……」

「ああ。いつでもどうぞ」

 彼女の唇に、自分の唇を近づける。彼女の息が顔にかかる。それは、初めて感じる彼女の湿度だった。

「ーーッ! も、もう無理〜!!」

 互いの唇が2センチほどまで近づいたところで、私はギブアップを宣言した。彼女のうすい唇がニィっと吊り上がる。

 ドキドキのあまりに目を閉じていた私が目を開けると、彼女は既に両眼をあけて私のことを見ていた。途中からこっそり目を開けていたようだ。

「トレーナーの記録は……2センチくらいか。次は私の番だ。さァ、目を瞑んな」

 両眼をぎゅっと瞑り、彼女との勝負に挑む。

「勝負スタートだ」

 さっきは結構がんばったから、きっとチョコレートは私のもの……

「ーーッ!?」

 スタートした直後、唇にむにゅりとした感触があった。心の中では緊急事態を知らせる赤色灯がピカピカと点滅している。

「ーーんッ……んむッ…………!!」

 数秒経っても彼女の唇は離れなかった。それどころか、彼女の舌が私の口内に侵入してきた。そして、ぬるりと這うように私の歯茎をなぞった。

 とっさに離れようとしたけれど、既にナカヤマフェスタは私の頭を両手で挟んでいて動けない。

「ーーんんッ……うぅッ…………」

 口内を執拗に攻められたからか、全身の力が抜けてしまう。そして、ソファにもたれかかった私を彼女は押し倒した。

「んッ……ぷはぁッ……はぁっ、はぁっ…………」

 ようやくじっとりとした深いくちづけから解放された私の頭は、しばらく歯茎を舌を口内全てを犯され続けたせいですっかりとろけ切っていた。

「この勝負は私の勝ちだな」

 ナカヤマフェスタは口元を手で拭い、誇らしげな顔をして笑った。

「こんなの……ずる……いよ…………」

 息も切れ切れに、なんとかそう訴えたけれど、彼女は少しも息を乱さないままにこう言った。

「より近づけた方の勝ち、実際にキスしちゃいけない、なんてルールはないぜ?」

 先ほどの会話を思い出してみる。確かに、キスをしてはいけないというルールはなかった。

「でも、でも……」

 密かに気になっていた彼女との初めてのキスが、ただの戯れだなんて…………

「そんじゃ、チョコは私のもんだな。欲しけりゃ分けてやらなくも…………えっ?」

 気がつくと、両方の目から、ぼろぼろと涙が溢れていた。生暖かい水が、頬を伝っては落ちてシャツに染み込んでいる。

 ーー私って、もう彼女のことが好きだったんだな。ちょっと気になってるだけ、なんて自分を誤魔化してたけど……

 でも、勝負で勝つためにキスをしてくるなんて、私のことはただの仲のいいトレーナーとしか思ってないんだ。当たり前だ。年も離れているし、将来有望な彼女が私なんかに……

「アンタ、何泣いてんだ。そんなに欲しいならチョコレートくらい全部くれてやるから……」

 鼻を啜りながら、ぶんぶんと首を横に振る。チョコレートなんて、どうでもいい。私は……

「こんなキスじゃいや……わぁぁん…………ナカヤマは私のことなんてなんとも思ってーー」

 涙が溢れて、視界がぐにゃぐにゃと滲んでいる。鼻水まで出てきてしまった。ああ、なんと情けない大人だろう。顔をぐしゃぐしゃにして咽び泣いている私に、彼女はきっと呆れているだろう。

「アンタ、バカか。なんとも思ってないやつに、あんなキスするわけないだろ」

 予想外の言葉に、ひゅっと涙が引っ込んだ。あまりにびっくりしすぎて、私は「えっ?」と情けない声を出す。

「その箱、開けてみな」

 彼女がテーブルの方に手を伸ばして、真紅の箱をこちらに渡してきた。なんだかよくわからないまま、リボンを解いて蓋を開ける。

「好きだ、よければ付き合って欲しい」

 箱の裏に貼り付けてあった、小さなメモ紙。そこにはぶっきらぼうな字で、確かにそう書いてあった。

「賭けには絶対勝てる気でいたから、それで諦めるつもりだったんだがなぁ。あんな可愛い理由で泣かれちゃ、見せないわけにもいかなかったってわけだ」

 頭の中に浮かぶたくさんのハテナマーク。ナカヤマフェスタが、私のことを好き? だってそんな素ぶり今まで一度も……

「びっくりしたかい? 色々アピールしてたんだけどな、トレーナーが予想以上の鈍感だった。だから、最終手段に出たってわけさ。思い出にキスのひとつくらい……なんて邪な気持ちもあったけどな」

 再び両眼から涙が溢れてくる。ナカヤマフェスタは私のことが好き、私も彼女のことが好き。もう、無理やり気持ちに蓋をしなくていいのだ。

「まぁた泣くのか……チッ。私が涙に弱いって知ってるだろ、アンタ」

 舌打ちをしたものの、彼女は嬉しそうだった。

「泣き顔までかわいいとか……トレーナーの方がずるいと私は思うぜ」

 涙でぐしゃぐしゃの私を、彼女は躊躇なく抱きしめた。私よりも少しだけ大きい彼女の体が、私を包み込む。

「こんな、ぐちゃぐちゃの泣き顔なのにかわいいの……?」

 彼女の薄い胸から顔を覗かせて、私は尋ねた。心なしか、彼女の脈もいつもより早い気がした。

「好きなヤツなら、どんな顔してたってかわいいもんだろ」

 ナカヤマフェスタは、照れくさそうにふいと横を向いた。

「今夜は無断外泊になっちまうな」

 なんで? と私が尋ねる前に彼女は再び私と唇を重ねた。さっきの深いキスとは違う、ゆっくりとした優しいキスだった。

「ほんと、アンタは鈍いな。今夜は帰らない、トレーナーも帰さねぇ。この意味、わかるか?」

 少しの間考えて、私は真っ赤になった。今夜は帰さない、ということは私たち……

「その反応だと、わかったみたいだな。んじゃ、宣言通りーー」

 ぼすり、と再びソファに押し倒される。荒い息遣いから、彼女の興奮が伝わってくる。久々のこの感じ。結構な間恋人のいなかった私には新鮮に感じられた。

「お手柔らかに、お願いします……」

「悪りィな、それは無理な相談だ」

 そう言い捨てると、彼女は私のブラウスのボタンに手をかけた。ボタンがひとつ、またひとつと外されていく。

「好きだ、トレーナー」

 そう囁くと、彼女は私の首筋に柔らかなくちづけをひとつ落とした。

「私もだいすき」

 彼女は、私を強く強く抱きしめた。私もまた、彼女をぎゅっと抱きしめる。

 ーー今夜このまま、ずっと彼女の体温を感じていたい。私は強く思った。
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