-
暑い……。あまりにも暑い。
今年も、各地のギガ太陽マークが本気を出してきている。
ただでさえダンスのレッスン後は暑くて仕方ないっていうのに、街中を歩く時でさえ暑いとか、本当にどうしようもない。 -
そんな急転直下で夏に向かう天気を恨めしく思いながら、ボクは次のスケジュールまでの空き時間を楽屋で涼んで過ごしている間、ふと何気なくメッセージアプリを開いた。
-
この暑さだけど、紫咲は体調を崩していないかな。
いつもの事ながら心配になるけど、今連絡してもすぐ移動の時間になるし、ゆっくり話す暇がなかったら、逆に寂しがらせてしまうだろうか。
そう躊躇っていたら、まるで心を読んだかのように、トーク画面がすっと動いた。 -
大野紫咲よあねさん、すげえあちなかすいた( ˙꒳˙)
-
「……」
夜翰さん、すごく暑い、お腹空いた、だろう。多分。
こんな奇々怪々な文章を、即刻読み取って意味を把握できてしまう自分自身に、呆れるやら面白くなるやらで苦笑しつつ、ボクは返事を打った。 -
櫟夜翰
冷房つけてなんか甘い物でも淹れたら?
この間買ったカフェインレスのスティックコーヒーがあるでしょ
-
大野紫咲せんたくとごはんのじゅんびですわるひまない
-
たかが二人分の家事で……と思うかもしれないが、現世で鯨さんと暮らしている紫咲が、如何にバタバタと忙しなく動くのかは、ボクも知っている。基本幾つかの作業が同時進行だから、お湯を沸かして座って淹れる頃には、お昼ご飯の時間になってしまうのだろう。
-
とても30代には見えない幼稚な文面にくすりと笑いながら、ボクは代わりの手段を考えた。
-
櫟夜翰
じゃ、冷蔵庫の豆乳は?

-
痩せ型の紫咲は、栄養失調対策に、安売りのパック入り豆乳をハムスターみたいに蓄えているはずだ。
-
大野紫咲ちょっともったいないな
-
櫟夜翰
また買えばいいんだから。こういう時に使わないでどうするの

-
大野紫咲洗濯物ほしてからでもい?
-
櫟夜翰
今飲みなさい

-
少なくとも水分不足や熱中症でぶっ倒れられるよりはマシだ。パック飲料なんだから、マグカップと違って家事をしながらでも持ち運べるだろう。
-
ボクだけに赦されている強めの命令調でそう静かに念を押すと、少し間があってから、またメッセージが送られてきた。
-
大野紫咲コーヒーいっぱい分のかふぇいんて多い?
-
櫟夜翰
…何の話?

-
大野紫咲麦芽コーヒーか黒胡麻でまよってる
-
冷蔵庫の前まで移動したらしい。
いきなりコーヒーなんて言うから、ただでさえ汗をかきそうな時に利尿作用のあるコーヒーなんて、自殺行為すぎて何考えてるのかと思った。豆乳の味の事か。 -
大野紫咲麦芽コーヒー、かふぇいん27みりぐらむ
-
櫟夜翰
ちょっと待って

-
ただでさえお腹を壊しやすい紫咲に、カフェインの摂り過ぎは毒だ。
アプリを立ち上げたまま、ボクは裏で素早くブラウザを開き、参考に「コーヒー カフェイン量」と検索する。 -
櫟夜翰
一杯150mlで90mgだって。
だから、それよりは大分少ないんじゃないかな
-
大野紫咲なるほど
-
櫟夜翰
今日は特に体調崩してないんだね?

-
大野紫咲うん。だいじょぶ
-
櫟夜翰
だったら飲んでもいいんじゃない。少しずつ

-
約30mgなら、普通の量の三分の一くらいだ。まあ、確かにカフェインレスの飲み物よりは多いけど、これなら後で、おやつのコーヒーを別に少量飲んだとしても、まだ許される量じゃないだろうか。
-
大野紫咲飲んだ
今せんたくものほしてる
おひるにしゃぶしゃぶ作る -
櫟夜翰
台所のガスコンロ点ける前に、冷房入れといてもいいと思うけど。
鯨さんだってお昼に帰って来るし、その方が食べる時涼しいでしょ
-
大野紫咲だって外まだ31度だよ?
-
櫟夜翰
それを“暑い”って言うの!!!!!

-
まったく!
紫咲は、ボクも含めて東京とか名古屋とか都市部の知り合いが多いし、自分は室内に住んでるから、コンクリートジャングルに比べたら33度くらいまでは大した事ないと思ってるみたいだが、そのバグり散らかした感覚をどうにかして欲しい。
そこで遠慮したからって涼しくなる訳でもあるまいし。 -
わざわざカッコ書きで強調すると、少し首を傾げるような間があってから、返事が返ってきた。
-
大野紫咲つけたよ
やっとすわった -
櫟夜翰
よかった。お疲れ様

-
大野紫咲おわー、クーラー涼しい…てか寒っっっ!!!
-
やっと人間に戻ったみたいな文面が返ってきて、思わずボクは声を出して笑ってしまった。
暑さが和らぐと共に理性も戻って来たらしい。何よりだ。 -
櫟夜翰
ちゃんと長袖着た?

-
大野紫咲うん、今長ズボンと腹巻してきた…
こんな暑いのに、冷房点けたら防寒しないといけないなんて、厄介だね -
櫟夜翰
サキはそのくらいで丁度いいんだから。面倒くさがって体冷やさないようにね

-
大野紫咲はあい。
夜翰さんは、今からまた仕事? -
櫟夜翰
うん。夜には帰れると思うけど…

-
今夜は紫咲の家で、金曜恒例の映画番組をみんなで見る事になっている。
楽屋の外で呼ばれて、ボクは移動しながら素早く画面に指を走らせた。 -
櫟夜翰
ごめん、もう出ないと

-
大野紫咲ん。お仕事がんばってねー
後でしゃぶしゃぶの写真送る -
そう返事が送られてきて、ボクは小さく微笑んだまま、スマホをポケットにしまった。
-
大野紫咲
-
大野紫咲うまうま( ˙༥˙ )
-
十数分後に送られて来たのは、何の変哲もない昼ご飯の食卓だった。
多分、熱い鍋の前に立ちながら、彼女がせっせと肉や葉物を茹でたり、その一方でトマトやきゅうりを切ったりして、用意してくれたんだろうなと思える一品。 -
大部分は他の家族に食べられちゃうんだろうな、と思いつつ、それでも夜になったらどうにかありつけるだろうか、と期待を抱えながら、ボクは午後の日差しに負けないように、一歩を踏み出したのだった。
タップで続きを読む