HUNTER×HUNTER
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体温より、ほんの少しだけ涼しい風。時折高い音を立てながら、薄く開けた窓の隙間に流れてくるそれは。青葉が鼻を掠める、この季節特有の薫風である。仄かに香る細い風が肌を過ぎては。これを境、夏が来るのだと知らされる。
『風が気持ちいい』
海は陸よりも気温が緩やかだ。それに、冬と違って風向きが異なる所もいい。特に夏、密度が大きくなった海上の空気は、徐々、下降気流を起こし。気圧の高い海から、気圧の低い陸へ向かって風が巡ってゆく。風向きの影響はあるにしろ、幾分、眼の前の本に集中出来る心地良い空気である事に相違はなかった。
『…ちっと、根詰め過ぎたか』
机に広げた幾つもの参考書やノート。時間を忘れてペンを握って居た事もあり、気付けば指の皮膚は赤みを帯びていた。集中力が欠ければ効率も悪い、そろそろ休憩を挟んで置くのも良いだろう。―――忘れた事など、ただの一度だって無かった。かつて友人が当時の流行り病でこの世を去った、あの日の事を。彼が患った病は特段難しい病気では無かった、その事実を知ったのは、だいぶ歳を重ねた頃になる。あの時、然るべき治療を受ける事が出来たなら、今。友人は自身と同じよう、歳を重ねていただろうか。
「レオリオ」
『おう』
「入ってもいい」
『いいぜ』
勿論、過去を悔いても仕方がない。だからこそ、皆が同じようにまた明日を迎えられる手助けをしたいのだ。幼心より胸に秘めた誓いには、
「勉強の邪魔して、ごめんなさい」
部屋のドアが開くと、いい換気になった。窓から流れる空気が循環し、息も吸いやすい、これは気分転換になる。最近は、意識をしなければ手洗いさえ忘れてしまう程 机に張り付いて居たのもあり、彼女の来訪は指からペンを離すきっかけになる物だった。しかし、穏やかな空気とは裏腹。ドア先へ向けた眼が捉えるは、思わず声が掠れる程に焦燥を掻き立てる。
『おい、何だよそれ』
「レオリオ、助けて」
無意識、座って居た椅子を倒す勢いで立ち上がり、そうして彼女の元へと駆け寄るのだ。唐突に膝を伸ばした
『何があった、誰にやられた』
「あ、違うのよ、あのね、」
『何でこんな、…俺が傍に居ながら……クソッ! おい、名前、お前は此処に居ろ。絶対外に出るんじゃねえぞ』
「待っ、だから訊いて」
『いいから待ってろ、俺がこの手でギタギタにして、首根っこ捕まえて此処で土下座させてやる』
丁度勉強ばかりで身体が鈍っていた所だ。人の女を泣かせるなんて、何処のどいつか知らないが、全く良い度胸をしている。頭に上った血をそのままに、シャツの袖を捲りあげ。いよいよ外へ向かおうと大股で踏み出した時だった。
「レオリオ、これは違うの」
『何が違うってんだ、泣いてんじゃねえか』
「ねえ、お願い、待ってってば」
大になった声と共、シャツを捲り
「眼にね、何か入ったみたいなの」
『……………は?』
予想打にしない応えは、自然と喉奥から出る声を掠れさせた。裏返り、腑抜けた息を溢した物だから、そんな様子に彼女は小さく吹き出して。大きな瞳が雫で揺らぎ、赤く充血しているのは、誰に何をされた訳ではないらしい。理解した瞬間、何だか気が抜けて。一人怒り心頭、剥き出した先ほどの感情がどうも恥ずかしくなり、頭を乱暴と掻かずには居られない。全く、早合点もいい所である。後、気を落ち着かせる為に深い溜息を付いてから。今度こそ彼女の話しに耳を傾けるのだ。
『んで、何が入ったって』
「それが解らないよ、けれど痛くて仕方がないの、ちょっと見て貰える」
瞬きを一つすれば、大粒の涙が頬を伝って顎先へ下りた。俺はその雫を拭うよう、彼女の顎に指を伸ばし、少しと引き寄せる。眼をよくよく見張れば。水の浮かんだ澄んだ瞳が、なんて綺麗な事だ。綺麗で、穏やかで、静かで。さながら―――水光よう。
「どう、何か入ってる」
『………お、おう。睫毛、が。入り掛かってんな、これ。ちょっと待ってろ』
純粋に見上げられ、少しの間、見惚れてしまっていた。慌て首を横に振っては、彼女を涙させる原因。瞳を刺激する細い睫毛へ慎重に指先を伸ばし。そうして擦らず払うよう、優しくそれを退いてみせた。睫毛は簡単と抜け、何処か視えない床へと散っていく。
『取れだぞ』
「ありがとう、わ、凄い、もう全然痛くない」
『たく、脅かすなよ。泣いてる
「ごめんね、でも本当に助かったわ」
彼女は苦笑を浮かべながらも、先には無い晴れた瞳でいつもの笑みを覗かせる。ふと、柔らかな視線は
『名前』
「なに」
振り返った彼女の顎先を上手く捕まえる。少し前に流した涙は、もう乾いて蒸発したようだ。突然の呼び掛けと、顎へ添えられた指先に、当たり前と彼女の瞳は大きくなる。視線はただ直線に絡まって、まるで時が止まっているかのよう。―――気付いてしまったのだ。その眼に映る、確かな物に。気付いてしまったのだ。綺麗で、穏やかで、静かで。さながら水光ような燐き帯びる中に。俺が、俺が存在していると言う、確かな事を。彼女の瞳には俺が居る、俺が居るのだ。
「レオ、リオ……、どうしたの、まだ。何か眼に入ってる」
―――俺が水光の一部となって、彼女の中で息をしている。その事実が、どうしようもなく、この胸を熱く締め付ける。
『そうだな、まあ、でも。そいつは取らねえ方がいい』
「ええ、どうして。また痛くなったら困るわ」
必死と見上げ、細い手指をこの胸板へ充てながら。高く背伸びをする様子が、愛おしくて、愛おしくて、仕方がない。眉を八の字とする彼女の瞳には、今尚、俺だけが其処に居た。
『いいから、そのまま入れときな』
「嫌よ、ねえったら、早く取って頂戴」
『やーだね』
固く絡まった視線を外し、そっぽを向けば。部屋の窓から心地良い風が流れ、頬をすり抜けていく。それとほぼ同時と、瞬間。静かな風の音にさえ埋もれてしまうほど小さな声が、この耳に触れるのだ。思うは。
「………レオリオの意地悪。それなら、取ってくれるまで あなたの傍から離れないわよ」
『―――……』
「いいの」
『そっちのが、都合いいや』
巡る風の心地良さは、彼女に似ていると言う事。明日も明後日も、永遠に続けばいい、そう思うのは贅沢だろうか。胸に在る煌々の願いは、まるで水光。俺は彼女の瞳を覗き、燐きに馳せるだろう。何度も、何度でも。