トリコ
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極々たまに、心配になるほど。彼女の寝息と来たら、それは静寂を絵に描いたような空虚で。夜中、喉が渇き身を起こした際、もしかしたら息が止まっているのではないだろうか。そんな不安に駆られ、形の良い唇に片耳を寄せたりもする。時計の秒針さえ邪魔に訊こえる程に、全ての意識を聴覚に向けなければ、なかなかどうして訊こえ難い。今日の夜中もまた、ふと眼が冴えた時である。案の定、いつも通り、息があるのか無いのか、こちらを焦燥に導く。そうして俺は、リップバームで濡れた唇へと耳を傾けるのだった。
『…歯ぎしりでもしてくれたらいいのに』
安堵の溜息をひとつ。片耳を向ける手前、まず身体へ触れればいい。仮に息が止まっていたとしたら、既、冷たくなっているはずなのだから。それでも、寝起きと焦燥が入り混じれば、正常な判断など
『本当、人の気も知らないで』
やれやれ、と。二度目の溜息を着いた時。時計へ眼を配ると、時刻はまだ午前五時。薄暗な空に、ほんの少しだけ陽を感じる程度である。この所、朝晩はだいぶ涼しくなってきた。最近までの熱帯夜が嘘のよう、眠りにつく前なんかは特に、脚先が冷えて仕方がない。彼女もそうだ。―――夏場、背を向けて眠る彼女を後ろから抱き締めれば、暑い、暑いと何度腕を解かれた事か。その癖、この頃に至っては、脚先が冷えて眠れない、と手の平を返したように擦り寄ってくる。全く、現金な人だ。それでも、その愛らしい瞳で覗かれたなら、断る理由も浮かばなくて。ついつい可愛がってしまう所は、父親譲りなのかも知れない。
「………メルク」
『まだ、寝てな』
「何処行くの」
『何処へも行かないよ、君の傍にいる』
「………ん」
寝言か否か、ベッドを共にする彼女は、薄目すら開けず頼りない声を響かせた。俺は、陶器のような白色の頬へ指先を充て、眠りを促す。それは、滑らかで、柔らかくて、温かかった。生きている、人間の体温だった。―――血の繋がりのない父親が居た。当時彼女と共に拾われた事から、兄妹として育てられた。寡黙だけれど優しい父親、放っておけない妹。ただ、ただ。ただ、幸せだった。そんな父親がある日突然、笑顔のまま姿を消した。よく眼にする光景だったし、夕方になったら帰って来るだろう。そうして大きな背中を見送った日、父親は帰って来なかった。明日になったら帰って来るだろう。来週、来月、来年には必ず帰って来るだろう。そう、思い続け幾年も経つ。しかし、世間にとって父親の不在事情など二の次三の次。当たり前にも仕事は日々、絶える事はない。試行錯誤で仕事を
「メルク……」
『……』
「大丈夫よ、大丈夫、だから……ね……」
一瞬、心情を見透かされたのかと心臓が跳ねた。寝息と共、寝言か否か、励ましの声を掛けられて。本当は起きていて、俺を
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先日、朝食に炒飯を出したら、彼女は唇を尖らせた。喰えるだけ有り難いと思って貰いたい物だが、どうも朝から油を纏った米は重いらしい。味は結構、いけてると思ったのに。先、眼が冴えてしまった事もあり、今日の朝食は彼女の口角があがるよう、少し手間暇掛けて作るとしよう。
『パンは…まだあったよな』
そういえば、甘いパンケーキではなく、塩気のあるおかずパンケーキを食したいと言っていたっけ。冷蔵庫を覗くと丁度、分厚いベーコンに、ウィンナー。ついでに卵とリーフサラダがある。一皿に奇麗と盛り付け、温かいミルクでも淹れたなら、きっと。起床した彼女の笑顔が容易に思い浮かぶほど。そうして、まだ食事作りには早いものの、支度を始めるため、壁に掛けてある包丁を手に取った。―――音は、立てずにいたはずなのに。金音となると耳が異様に反応してしまうのは、おそらく。育ての親が同じである証拠。俺は、柔らかな気配を感じ、そうして自身の背を振り返るのだ。
「メルク、おはよう」
『……名前、起こしちゃった』
「脚が寒いから、メルクに温めて貰おうとしたのに。隣を視たら居ないんだもの」
『ごめん、ごめん』
俺は細い視線を配る彼女の機嫌を
「また炒飯?」
『違うよ、この前、不評だったから。今日はパンケーキ、塩っぱい方の』
「わあ、最高、メルク大好き、愛してる」
『はいはい』
全く、本当に現金な人だ。苦笑の末、俺は食事時にと思っていたミルクを。寝起きの彼女へ手渡した。ティースプーンで二杯だけの蜂蜜を入れ、バニラエッセンスを二、三滴。白い湯気が立つホットミルクを受け取ると、彼女は嬉しそうと微笑む。―――その表情が好きだ。刃物のよう鋭さの一切が無い、まるで綿菓子、マシュマロ、カステラみたいに。甘い、甘い、君の表情が好きだ。彼女の隣に居る時だけは、包丁の事も、仕事の事も、父親の不在の事情についての全てを。ほんの一瞬だけ、記憶の彼方へ葬る事が出来た。それが良いか悪いかは、また別として。
「メルク」
『嗚呼』
気付いたのは、二人同時だった。何者かが、すぐ傍まで近づいて来ている。まさか、このメルクマウンテンを登る者が父親の他に居るというのか。そして何だ、この異様な気配は。不確かな存在であるも、唯一理解できる事、それは。相当、強いと言う確固たる事実。―――胸騒ぎが、した。
『君は此処にいてくれ』
「でも」
『平気だ、名前は、俺が護る』
「……」
『大丈夫、信じて待ってて』
「解った」
どんな手練れかなんて関係ない、すぐ其処まで近づくそいつは、俺と互角にやり合う気でいるらしい。面白い。メルクの名も、父親が遺した仕事場も、ただ一人の家族である彼女も。全部、全部、俺が護ってみせる。そうして、少しばかり不安気な彼女を家に残し、ようやく陽が登った空の下へこの身を晒すのだ。―――瞳に捉えるは、まるで空の青を映したよう。清々しいほどの青色で。この時の俺はまだ、知らない。その大漢との出会いがまさか、ずっと想い続けていた父親に繋がるなんて。きっと、未来の俺が事実を訊いたら、情けなく。本当に情けなく、泣いて、泣いて、泣きじゃくるだろう。俺はまだ、何も知らないのだから。
『俺の名はメルク、研師、メルクだ』
―――歯車が動きだした日。
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