トリコ
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梅雨時期はどうも苦手だ。身体は浮腫みやすいし、風呂上がりに
「寝たわよね……」
ふい、先まで互いを重ねて居た彼へ眼を配る。風のない静かな夜、雨と共に響いた束の間の熱情が蘇った。ダブルベッドに横たわる彼の寝息を確かめ、念の為に。その分厚い胸板を軽く揺さぶってみたが、微動だにしない。この様子だと恐らく、深い眠りに落ちているはず。
「よし、」
そうして暗闇の寝室。情事の前に肌から離した下着を手探りで拾い求め、キャミソールと適当なショートパンツを身に着ける。―――一年のうち、一ヶ月間の梅雨。それでも、憂鬱な季節にたった一日だけ。一年に一度訪れる特別な日と、それは重なる。
「鉄平の誕生日ケーキ作らなきゃ」
六月十七日、彼の誕生日前日である。毎年誕生日のケーキは手作りをしているのたが、一から始めるとどうにも時間を要する。デコレーションのみならば一時間程度で済むも、スポンジを焼くとなれば一晩寝かせた方がいい。その為、毎年彼の誕生日前日は、オーブンでふわふわのスポンジを焼く事が ほぼ恒例行事となっていた。寝静まる彼を起こさぬよう、
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卵三個、グラニュー糖九十g、ふるった薄力粉九十g、牛乳二十cc、無塩バター十g。材料は
この瞬間、いつも思う事がある。何年経っても未だ解らない。彼は毎年、決まってブラックベリーの乗ったショートケーキをリクエストするのだ。もう何度作った事だろう、たまには苺だとか、オレンジだとか。変わったフルーツにして見てはどうかと提案したのだが、断固一点。頑なにブラックベリーと口にする。まあ、誕生日くらいは誰だって好きな物を食べたい物だ。こちらが促す事でもないし、彼が喜んでくれるのであれば、意のままに作った方がいいに決まっている。
「あ、チョコレートプレート、買ってたかしら」
砂糖と卵を湯煎し泡だてる途中に気付く。常、ショートケーキの上には楕円型のチョコレートプレートへメッセージを乗せていて。一応記念に残るよう、メッセージの内容も毎度と変え、遊び心を加えていたりする。初めは無難に“HAPPY BIRTHDAY”だった物が、年を追うに連れ、愛が深まり。確か去年は“You are my Mr. Right.(あなたは理想の男性よ)”、その前は“You’re the one for me.(私にはあなたしかいないわ)”になり。さて、今年はどんなメッセージにしよう。考えるだけで、楽しさが湧く。
時刻は静寂の夜、二十三時半。スポンジを焼き、粗熱が冷めた所でもう一度眠りにつこう。チョコレートのプレートへ書くメッセージは、明日。ケーキをデコレーションするまでに考えて置くとする。手の止まっていた作業工程へ戻り、全て混ざった生地を焼き型へ流し込んで居た最中だった。
『名前、』
「きゃっ、て、鉄平…、やだ、
『いや』
突然に耳へと響いた声に、無意識と肩が震える。見開いた眼と共、視線を向ければ。そこには、先まで深い眠りに付いていた恋人が、下着だけを身に着け寝室より顔を覗かせていて。
『凄え、いい匂いするからさ。つられちまった』
「起こしちゃって、ごめんね」
『俺が勝手に起きたんだよ』
そう言うと、寝起きの彼は。垂れた重たい前髪を掻き上げ キッチンのカウンターへ身を寄せるのだった。本当は下着だけじゃなく、上も着て欲しいのだが、雨の
『あ、もしかして。明日の俺用の、誕生日ケーキ』
「そうよ、スポンジだけは一晩寝かせて置きたいの。だから、あなたが寝たのを確認して、こっそり、ね」
『サンキュー。今年もブラックベリーだよな』
「勿論」
『やったぜ、楽しみだ』
寝起きの割り、随分頭が冴えてる気がする。寝ぼけて会話が通じないとも思ったが、もしかすると、だいぶ前から眼が醒めて居たのでは、そう勘繰りを入れてしまうほど。そうして、生地を流し込んだ焼き型を温めて置いたオーブンへ送った。そんな時。
『なあ、今年のチョコプレート、もう何書くか決めてる』
「それがまだなのよ。毎年違うメッセージを書いて来たから、いつかネタが尽いちゃうかもね」
そんな訳はない。伝えたい大切な言葉は、今だって数え切れないほどあるのだから。それに、私にとって毎年一回の楽しみでもある。今年はどんな事を伝えよう、それを渡した時、どんな反応をしてくれるだろう。その為、伝えたい事が尽きるなど、ほとほと無いに等しいのだ。すると、私が冗談で口にした事を鵜呑みにしたのか、彼は少しばかり考えたあと。
『今年はさ、俺が書いてもいい、それ』
「ええ、自分で書くの、自分の誕生日メッセージを」
『ネタ尽きそうなんだろ』
「さっきのは、」
言葉の綾で、と伝えようとした矢先。彼は早速と冷蔵庫に向かっては、楕円型のチョコレートプレートを取り出すのだった。既、その手にはチョコペンも握り締めており、湯煎に潜らせ本当に書く気でいる。―――待って、嘘よ、あなたへ伝えたい事は山程あるの。特別な言葉を綴りたい、私からあなたへ。
制しようとした時には、彼の太い指はチョコレートプレートへ乗せられていて。その光景を目の当たりにした瞬間、小さな事なのに、どうにも大きく肩が落ちる。
「………鉄平、」
しかし、どうだろう。お世辞にも綺麗とは言えないガタガタの文字。楕円型のプレートに白色のチョコペンが浮かぶそれは。何度読んでも、到底、読み間違えなんかじゃなくて。眼を落とした文字に、皮膚に埋まる心臓が、足早に駆けていく。
―――“Marry me?”
「待っ…て、」
『ド下手だって、言いたいんだろ』
「そ、そうじゃないわよ、これ、………」
言葉が続かない。まさか、奪われたチョコペンで、プレートで。こんな時間に、こんな格好で。唐突過ぎるプロポーズをされるなんて、誰が想像できるだろう。ふと、重たい前髪が垂れた彼と、視線が重なった。熱くて、熱くて、仕方がない。
「……ねえ」
『ん』
「これ、ほん、……本当」
『嘘なもんかよ、信じられねえってんなら』
オーブンからは、甘い、甘い、スポンジの焼ける匂いが鼻を掠めゆく。もうそろそろで、柔らかなスポンジが出来上がる事だろう。明日は一晩寝かせたスポンジへデコレーションをして、ブラックベリーを飾るのだ。ただ一つ、これまでと異なる事は。恒例のチョコプレートのメッセージが、私からでは無く、彼からである事。
『捉えたっていいんだぜ』
言葉通り。未だ驚きで眼を丸くする私の唇を。彼のそれが捉えて触れる。そうして
―――瞬間、時計の針が巡り。日付は、たった今、六月十八日を迎えた。