ケンガンアシュラ
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『名前、今日の夕飯、何食べたい』
ランチをいつもより遅めに摂った
「そうね。あ、この前肉じゃがを作った時の野菜が余ってるから。スーパーでお肉とルーを買って、カレーにする?」
『おお、いいな。それじゃ、帰ったら父さんが作るよ』
「ねえ、平日は私が作るって前も言ったじゃない、忘れちゃった」
『覚えてる、覚えてる』
定時から少し過ぎた仕事帰り。平日は父より先に帰途へ着く事から、夕飯作りは私が担当している。特に強要されているとか、きっぱりした当番制を設けている訳ではい。ただ、日々を多忙とする父の手助けが出来たらいい、そう思い。家から通える範囲、ほぼ残業が無い会社へ就職したのだ。きっとそう口にすれば、“父さんは大丈夫だから”、“好きな所で好きな仕事をしなさい”と冴えない表情を浮かばせるだろう。その為、この想いは胸の中の奥、視えない引き出しに大事と閉まっている。
『たまには父さんが作ったって良いだろう、名前も毎日仕事 頑張ってるんだ』
「それはお父さんも同じでしょう」
以前、数日間。理由は解らずとも、父が家を不在にした事があった。仕事の都合で、と訊かされたが、どうも長年勤める乃木出版の関連では無いような気がして。それでも、真面目で子想いの父である、私が不安にならぬよう、精一杯の配慮をしてくれるはず。それに時が来れば必要な事実を告げてくれるだろう、とし。出張前に問いたい事柄は一旦全て喉奥へ押し込んで、薄いその背を見送ったのだった。
『なら、“お前が残業の日は父さんが作る”、どうだ』
「………解った」
さすれば、どうした事だろう。出張から帰って来た父は、明らかに別人で。自信がなく丸まって居た背筋も、くたくたに
『よおし決まりだ、スーパーへ寄ろう』
そう嬉しそうに歩を早める父は、何だか子供のようで。私も真似て早歩きをしては、帰途の手前、スーパーへの道のりを共に並んで行くのであった。
「あ、そう言えば」
『どうした、職場に忘れ物か』
子供じゃ或るまい。学校に教科書を忘れて来た、みたいな
「違うわよ、家にカレールーが半分余ってたような気がするの」
『辛口か、それなら甘口のルーを買って帰ったら丁度いい』
「それがね、思い出せないのよ」
困った事に。辛口か、甘口か、どちらか思い出せない。仮に家に在るのが辛口だったとして、スーパーで辛口を買ったなら激辛カレーで汗が止まらないし。甘口だったとしたら、お子様カレーが出来上がる。多めに作って明日も食べたい所、ここで間違えば極端なカレーを連続で食べる事になるだろう。陽の沈んだ夜道、スーパーの看板が視えて来た。辛口か、甘口か、未だどちらか思い出せない脳内は、より一層と焦燥に駆られ、増々記憶が探り難くなる。そう歩きながら大真面目に眉を潜める私を眼に、隣を歩く父はおかしそうと吹き出すのだった。
『お前は本当に、誰に似たんだろうな。その大真面目な所は』
「きゃ…、ちょっと。ヘアセット崩れるから頭撫でるのはやめて」
『もう帰るだけだろう、何を言ってるんだか』
「ああ、そういう所、本当デリカシーない」
その手は、苦労で培われた皺の寄った皮膚で。それでも何処か温かい、自慢の手だ。私はこの手が、大好で、大好きだ。何気ない幸せを噛み締める夜道。そんな所。
―――ふと、背後に大きな圧を感じた。思わず冷や汗をかくような嫌な威圧感である。治安がいい方の街だが、たまに居るのだ、こういう輩が。
「お姉さん、なにそれ、援交」
馬鹿を言って貰っては困る。歳が離れている男女が歩いて居るだけで援助交際と決めつけるなど、苦笑が溢れるだけだ。父も気付いているが、背後に立つ漢の声からは明らかに濃い酒の匂いが立ち込めている。酔っ払いをまともに相手するだけ無駄、関わらないで置くがよし。それに、もう少しすればスーパーへ着く。幸い近くには交番もある事だ、これ以上着いてくるならば、そちらへ引き渡してしまおう。『名前、行くぞ』そう短く声にした父に
「オイ、無視すんなよ、んな くたびれたオッサン捕まえるより、俺と遊んだ方が愉しいだろうがよ」
余程酔っているのか、発せられる言葉の語尾は叫びにも似て、強く恐々しい。咄嗟、耳に響いた衝撃音に思わず硬直した身体は、前に進む脚を強制的に止めさせた。おかしな事に、一歩も、一歩足りとも動けなかった。後、酒の匂いが幾分濃くなったと思えば、その分厚く汚れた掌が私の肩へ乗ろうと成す。冷や汗が上り、冷たく硬直した身体、ただに息をする事しか出来ない情けない身体。どうしよう、怖い。―――しかし次の声により、まるで動かぬ魔法が解けたかのよう、身体に体温が戻ってくる。それは、他でもない、父の声であった。
『この子は私の娘だ』
「あ゙?」
酒の匂いが遠ざかる。父の皺がれた、それでも力強い掌が、私の肩を掴んでは。己の後ろへ引っ張るのだ。前に立つ父、背中をまじまじと見つめたのはいつぶりだろう。その背と言えば、逞しく。誰よりも。
『娘に指一本触れてみろ。地獄の果てまで追い掛けて』
―――誰よりも大きかった。
『一生、後悔させてやるぞ!』
背に回った所為、父が今。どんな表情、どんな視線を相手にぶつけているか定かでない。しかし、父より大きな漢の顔色は、酔いが一気に醒めるよう青くなり。程なくして後退り、この場を去っていくのであった。
「…お、おと、お父さん、あり、がとう…、」
怖気付いて、全く動けなかった私に対し、父は遥か勇敢だった。見た目よりも大きな背へ、小さく礼を述べると。先までの姿は何処へやら。深い溜息を付き、魂が抜けたよう震えているではないか。
『お、おっかなかったあ…、』
「も、もう、無茶するんだから。近くに交番だって在るんだし、お巡りさんに任せても良かったのに」
今にも膝を折りしゃがみ込んでしまいそうな父へ手を差し伸べる。乗せられた手は、やはり皺がれて居て、細くて、薄くて、頼りなくて。でも、この手が私を必死と護ってくれた事実は、全く揺るぎない。
『いや、父さんさ、お前が産まれた時に誓ったんだ』
「…なにを」
『命に変えても、この子を護る』
「―――…」
嗚呼、なんて、格好良いんだろう。胸が、締め付けられる。ふい、重なった瞳は重たく、そうして温かい。
『いつか名前が離れる日が来ても、父さん。それだけは、ずっと護るからな』
繋いだままの手。皺がれて居て、細くて、薄くて、頼りなくて。でも私は、この温かで強い手が、大好きだ。大好きで、大好きなのだ。
「あっ、」
『どうした』
「思い出した、家に置いてあるカレールー、甘口だった」
『ええ、今思い出すの、それえ。父さん、ちょっと格好良い事言っちゃったんだけど』
「それじゃあ、辛口のルーを買って帰ろう、ね」
『ちょ、聞いてる、名前、父さんはね』
知らない訳がない。暑い日差しの中も、酷い嵐の中も。毎日毎日、家族の為に重ねて来た日々を。知らない訳がない。彼は自慢の父親なのだから。それを私が知らない訳がないのだ。
「知ってるわよ」
『……ふぁ、』
「お父さんが格好良い事は。ずっと前から、知ってる」
伝説のサラリーマンだか何だか知らないけれど。私にとっては、ずっと前から。世界一格好良い自慢の父親なのだ。皆、気付くの遅過ぎるったらない。