ケンガンアシュラ
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寝坊だ、完全に寝坊した。携帯のカレンダーにも、冷蔵庫にマグネットで貼り付けていた紙のカレンダーにも。今日の会食について忘れず書き込んでいたと言うのに。――…晴れた日中だったのもあり、洗濯ついでに張り切って掛け布団も干しては我満足と、大仕事を終えたような気分に一人胸を張っていた。同棲中の彼からは、『休みなのに働き者だな』と柔らかに頭を撫でて貰える物だから、休日でも、たまの早起きは悪くないと思えた。
「大変、どうしよう、……服…、服はこの前買ったワンピースで良いや……あ、やだ、タグ切ってないんだった」
空に浮かぶ陽が橙色となった頃だ。取り込んだ洗濯物と、掛け布団を部屋へ運ぶと。晴れた日特有の温かい太陽の匂いがして。隣で黙々と洗濯物を畳む意地らしい彼。そんな様子を眺めるだけで怠け、布団を抱いていたら、どうした事だろう。次にこの瞳を開けた時には、オレンジ色の空が あっという間、星がくっきり見える程の黒色になっているではないか。
『アラームは鳴ってたぞ』
「熟睡過ぎて、聞こえなかったのよ」
『何時から』
「十九時」
幾ら布団の感触が気持ち良くたって、さすがに寝過ぎだろう。珍しく休日に早起きをした
『送ろうか、車なら出せるぞ』
「平気、近くのコンビニの駐車場に、智子が車で迎えに来てくれるから…、…わ、不在着信がこんなに…」
焦って良い事はないにしろ、さすがに人を待たせる趣味はない。化粧は何とか済ませたものの、袖を通すはずのワンピースには、未だ切らずある値札タグ、ハンカチの準備も、バッグ、靴だってどれにするか全く以て決め兼ねている。焦燥し、部屋のフローリングをはたはたと慌ただしく駆ける私の様子に。彼は細い溜め息と共、苦笑を漏らすのであった。
『こら、名前、落ち着け』
落ち着いた声色に目を配れば。ワンピースのタグはすっかり切られており、いつもデートの際に愛用しているハンドバックが用意されていて。
『財布と携帯、ハンカチにポケットティッシュも入れてある。伝線した時用に予備のストッキングも』
「明さん」
『玄関に、白のショートブーツを出しておいた。これで出掛けられるか』
「…ごめんね、自分の事なのに用意させちゃって、本当にありがとう」
抱き付きたい気持ちを堪え、彼の準備してくれたワンピースに袖を通す。滑り易いフローリングを駆けては、玄関に綺麗と揃えられた白のショートブーツを履くのだ。
『終わりは何時なんだ』
「二次会は先に断ってあるから、二十一時」
『了解、楽しんで来いよ』
玄関先で爽やかに見送ってくれた彼には、せめてものお礼に。帰り道にでも何かスイーツを買って帰ろう。私は、ハンドバックの中で何度も鳴る松田からの着信をようやく耳へ充て、車が待つコンビニへと足を早めた。
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松田からの誘いがなければ、この会へは来なかっただろう。常、彼が連れてくれる静かなバーでも無ければ、出てくる料理も油物が多い惣菜ばかり。松田は車の運転もあり酒は断っているものの、相変わらず独特なテンションで一人、異様な盛り上がりを見せている。「名前は、あそこのカップリングどう思います!?」と騒ぎ立てては、遠くの席へ座る懐かし気のある同級生にその瞳を煌々と輝かせている
「二組の名前だよな、久しぶり」
「…………どうも」
突然に隣から掛けられた声。驚きに振り向けば、名前なんてとっくに忘れた男が一人。何となく見たことがある気もすれば、そうでない気もする。しかし、相手が私の名前を知っているのだ、きっと当時、挨拶くらいは交わしたのだろう。ふと、安いアルコールの匂いが鼻を
「変わってないな、いや、高校の頃より綺麗になった」
「そう」
安いアルコールに、安い口説き文句。本当なら、次の彼とのデートで着ようと大事にしていたワンピース。買ったばかりの、まだ皺一つない新品だ。そのワンピース越し、薄い生地に充たるよう、太ももが違和感を以て近づけられる。
「なあ、今、彼氏いるんだっけ。俺、結構お前の事良いなって思ってたんだよ。このあと二人で抜けようぜ、後腐れなく一回だけ、な」
嫌悪でしかない。不幸中の幸いは、自身がアルコールを控えていた事だ。きっと、気持ちの悪い口説き文句を耳にしたと同時、吐き気が助長されていたに違いない。松田に席を代わって貰おうと見渡すが、愉しそうに旧友らと盛り上がる様子を目にすると、いくら松田と言えど気が引ける。仕方がない、席を外そう。
「悪いけど、お手洗い」
そう、手持ちのハンドバックからハンカチを取り出した時だ。ふと、家を出る前、身支度の殆どを彼任せにした事を思い出す。同窓会に参加すると伝えた時も、二つ返事、渋る様子すら皆無、見送られた玄関先でだって、気持ち良く送り出してくれたのに。想い起こす表情、声とはまるで裏腹。気付かぬ間に、忍ばせてあったそれは、男物の、彼のハンカチ。瞬間、驚きと嬉しさが交差して、思わず苦笑が溢れてしまう。これは紛れもない ――“牽制”。
「私、とびきりのイケメン社長とお付き合いしてるの。安い酒で女を口説くような下世話な貴方と、比べ物にならないくらい良い男とね」
「……」
取り出したハンカチを目の前でちらつかせ、固まる男をそのままに、「ご機嫌よう」と嫌味たっぷり、手洗いへと席を立つのだ。口説いて来たその口は、未だ間の抜けたよう空いたまま。そんな男を背に、颯爽と歩き出しては、何だかおかして、つい笑ってしまった。つまらないと決めつけていた会も、どうしてだろう、彼の小さな嫉妬のお陰か、こんなにも弾んだ気持ちになる。店の手洗いを開ける直前、ハンドバックの中で携帯が鳴っている事に気付く。
「…明さん」
メッセージアプリには、一件の短な通知。
――役に立ったか?
その文字を 一体どんな顔で打ってくれたのだろう。心配を浮かべて、それともしてやったりな表情で、はたまた肌を紅くさせて。いずれにしても、やはり。異性が来る場に向かう事に、多少なりとも懸念があったに相違ない。途端、吐き気の消えた胸には、締め付けられるよう愛おしさが込み上げ、心臓をきつくしていくのだった。
「“つまらないから、今から明さんとデートがしたいな”………と」
メッセージを送れば、早々、『迎えにいこう』と応えが返ってくる物だから、堪らなく嬉しくて。ふい、預けられたハンカチを鼻先へ充て、深く、深く息をするのだ。太陽の匂いと共、微か、彼の匂いが染み付いた 薄く、軽い布は。瞳に捉える事の出来ない、耽溺たる重みを教えてくれる。