ケンガンアシュラ
name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
憂鬱な平日。吊り革すら掴めない満員電車に揺られ、来る日も来る日も仕事、仕事。本当は、余裕のある空いた電車に座って読書をしたいし、仕事の合間のランチだって、いそいそ慌てず口にしたい。偏った食事はいけないと、せめて夕飯だけはきちんと作らねば。そう頭では解って居ても、疲弊した身体はなかなか言う事を聞いてくれなくて。結局、帰宅後に胸へエプロンを付ける気力は湧かぬまま。そんな毎日の繰り返し。それでも、今日は、今日だけは。まるで曇天、灰色のよう日常が、煌々、煌々、何色だろうか。ビビット、パステル、虹色、兎にも角にも、カラフルになる。一年に一度の特別な日。
「お邪魔します」
扉を開けなくも、外の換気扇から流れる特徴的でスパイシーな香りに、口内の唾液腺が疼いては むず痒くなった。少し前、携帯へ『ドア開けてるよ』と連絡が来た物だから恐る恐るドアノブに手を伸ばせば 本当開いてしまい。不用心な、と頭に巡らせるも家主は他でもない彼だ。そもそも、誰かに襲われるような玉ではないし、逆にやり込めてしまう事。一応しっかり鍵を閉め、リビングに向かえば。瞬間、鼓膜を刺激するのは甲高いクラッカー音。驚き、思わず肩を
『名前ちゃん、ハッピーバースデーッス』
「わ、ありがとう、光世さん」
大人になって、こんなにも盛大に誕生日を祝われた事があったろうか。記憶を遡っても、上手く捕まらないという事は これが大概初めてである事実。彼は手元のクラッカーを床へ放おり、代わり、私の手持ち鞄を預かるのだ。
「外から凄い、良い匂いしたの」
『へへ、お腹空いた』
「もうぺこぺこ、何か手伝う事ある」
キッチンを覗くよう少しばかり背伸びをして見せると、分厚く大きな掌で両肩を掴まれる。『いいから、主役は座ってて』と、半ば無理矢理 リビングのソファへと連れられた。以前だ、たまたま誕生日の話題となった時、彼がパーティをしよう、と口にしてくれて。きっと、その場の乗りと社交辞令か何かだと思って居たのだが。いざ、日付が近づけば当たり前と言わんばかり。『仕事終わったら、真っ直ぐ俺ん家に来るんスよ』なんて言う物だから、嬉しさの手前、本来浮かれるはずの感情は、驚きで埋れてしまっていた。――…ソファに腰掛け、ちらりキッチンへ目を向けると。その体躯にはきつそうなエプロンを身に着ける姿に、胸へ火が灯るよう、温かな熱が広がっていく。すると、私の視線に気付いたのだろうか、キッチンカウンターから濡れた手を覗かせた彼は、少し不満気と、瞳を細めるのだった。
『せっかくなんだから、カレー以外でも良かったのに』
「光世さんのカレー、美味しいんだもの。飲み物みたいに何杯もいけちゃう」
『ただのルーッスよ、ルー。それなら、もっと シチューとか、ハヤシライスとか色々あるじゃないスッか。そもそも誕生日にカレーって』
「いいの、いいの」
彼の言葉を切り 声を重ねると、『全く』と苦笑を浮かべながら鍋をかき混ぜていく。いつの日だろうか、彼が作り過ぎてしまったと言う手作りのカレーをタッパーで貰ったのは。通勤前、慌しく準備をする中、携帯へそんな連絡が入り。丁度 白米だけは冷凍庫に常備があったので、これは良い、と閃いて。仕事前に急いで彼の家へ寄り それを弁当として職場へ持って行った事があったのだ。多忙な灰色の毎日が、手作りのご飯一つで、これ程カラフルになるなんて。その時のカレーの味が、何だか今でも忘れられないのである。その為、誕生日当日、何が食べたいかと聞かれた際、迷わず「カレー」と伝えたのはそう言う訳だ。そうして、ふわり、ふわりと。部屋に香るスパイスに夢中となり過ぎた
「……あれ、コスくんと、アダムは」
今夜、食事を共にする彼等が 未だ到着して居ない事に気付く。祝うなら人数が多い方が良い、と彼が弟子である二人へ声を掛けてくれたはずなのだが。すると、一通りの準備が終わったのだろう、彼はキッチンよりエプロンを解いて リビングのソファへ腰掛けながら。何故かその眉を八の字にするのであった。
『いや、ケーキを作ってたんスけどね、苺を摘まみ食いしてたら、止まんなくなっちゃって』
「え、まさか、二人が買い出しに行ってくれてるの」
『ご名答、師匠の特権って奴ッス』
「職権乱用よ」
それでも、カレーのみならず。まさかケーキの用意もあるなんて。嬉しい、嬉し過ぎる。聞けば、市販のスポンジに 出来上がりのホイップクリームを重ねただけ、と言うが。正直、その手間自体が嬉しくて堪らないのだ。むず痒い胸の熱は、温かな色を以て鮮やかに煌めき出す。そうだ、もし、カレーが余ったら。また、いつかのよう、明日の昼食用にタッパーへ入れて貰うとしよう。そうすれば今日に続き、明日もまた 瞳に映る世界が彩りで溢れる事だ。本当なら、毎日、毎日。沢山の色で埋め尽くされる日々を送りたいが、欲張っては罰が当たってしまう。
「ねえ、光世さん、今日作ってくれたカレーって、余る」
『ん、野郎三人居るし、多めには作ったけど……どうスかねえ』
「………そっか」
そうだ、欲張ってはいけない。ふい、睫毛を伏せた時だった。頬に流れた髪の毛を 彼の太い指が、静か、耳へと掛けてくれて。自然と
「光世さ……」
『カレーは売り切れて無くなっちゃうかも知れないスけど。こっちは、ずっと』
頬に充てられた指先が、肩を伝い下りては この手を
『無くならないと思うよ』
「鍵…」
『そ』
要らない? そう真っ直ぐな瞳で問われては。勿論、それは私の返答で今在る関係への変動を意とする物に相違ない。唐突の言葉への応えに、喉奥から飛び出す頼りない声は。小さな響きとは裏腹、
『次は、ちゃんと。“ただいま”って言って、帰っておいで』
灰色のよう日常が、煌々、煌々、何色だろうか。ビビット、パステル、虹色。途端に色付いた私の世界。明日は、どんな色が迎えに来るだろう。