弱虫ペダル
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傾いた陽が瞳に差し込み、瞳孔を縮ませた。今日も一日 平坦、坂と、日に日に過酷となって行く練習を共にする、愛車FELTの手入れをすれば、夕暮れの濃い光が 白い自転車をオレンジ色へ染めていた。濡れた布で綺麗に拭き上げ、スクラッチや
『悪い、名前、待たせちまった』
何とも言えない匂いが漂う部室内。汗と制汗剤があまり良くない連鎖反応を生んでいる。常に換気しているにも関わらずこんなに匂うのだ、もう換気など意味ない程に、部室の壁まで染み込んでいるに違いない。愛車の点検で待たせて居た彼女もまた、この部室において同じ事を思っている事だろう、それについて触れて来ない事が、何よりの証拠と言っていい。待たせていた事よりも、妙な匂いの空間に置いている事が申し訳なくなり。一刻も早くこの部室から彼女を連れ出さなければ、と半ば慌て 歩きながらユニフォームを脱いで見せれば。
「全然待ってないから平気よ、そんなに慌てないで良いから」
『だって、ここ臭せえじゃん』
「一差だって、同じ匂いしてるのに」
『…嘘、俺こんななの』
「うそ、うそ」
『お前なあ…』
おかしそうに笑う彼女の傍、汗で肌から離れ
『勉強し過ぎなんじゃねえ』
「え、どうして」
『欠伸してんじゃん』
身体を動かしたばかりで まだ熱く、ブレザーを羽織るか迷ったが 手荷物になるのが嫌で仕方なく羽織る。そうしてネクタイを首に掛けた際、彼女が少しの困り顔で唇を尖らせるのだった。
「違うわよ。昨日、一差と長電話して、寝るのが遅くなったでしょう。……どうしてあなたがそんなにピンピンしてるのか、不思議なんだけど」
『そんな長くなかったろ、一時間くらい』
「三時間半よ、三時間半。……もう、眠いったら」
学年も違えば すれ違いなどざら。隣に居れない分、一分一秒さえ惜しいのだ、せめて電話で声くらい聞かせて欲しい物である。しかし、寝不足で受験勉強に差し障りがあれば大問題だろう、次からは二時間程度としておくか。
『よし、待たせたな、帰るか』
汗だくのユニフォームと靴下を鞄に詰め込み肩へ抱えると、陰で二度目の欠伸をした彼女が 何かを思い出したかのよう 短い声をあげる。
「一差、待って」
『んだよ』
こっちは早く、この独特の匂いがする部室から連れ出したいと言うのに。少々面倒臭気に振り返れば、するり。彼女の細い腕が首元へと伸びるのだった。――…何だって言うのだ、今の今、着替えたばかりだぞ、脱がせるつもりか、ここで。無意識に乾いた喉を大きく上下させると、瞬間、白い指先が届いた先は。
「曲がってる、ネクタイ」
『……え、あ……ああ、ネクタイな、ネクタイ』
「どうしたの、顔、赤くして」
『なん…、でもねえ』
不埒な妄想を馳せ、熱が登った等とは口が裂けても言えやしない。しかし、もう帰路に着くだけなのだ、わざわざネクタイなど どうも構わない事だが。視線を配れば、妙に嬉しそうに結び直している物だから、気付かれないよう細いため息を付き 彼女の好きに任せる事とした。それにしても、何故そんな顔をする。
『つうか、なに嬉しそうにしてんだよ』
「…え」
丸い瞳を大にして、慌てる様子で彼女が俺を見上げる。
『ネクタイ結ぶの、そんな楽しいか』
すると、先の熱が彼女へ移ったのか。今度は彼女の白い肌が、徐々に紅潮していく。そうして暫くの沈黙のあと、静かな部室に 細い声が透るのだった。
「こうしてネクタイ結ぶなんて、なんか…、ほら。新婚みたい、だなって」
自分で言って置きながら、耳まで真っ赤にして。そのあと直ぐに「ごめんね、冗談、忘れて」と赤面した頬を俯かせる。直後、結び終わったネクタイから指先が離れる手前、咄嗟に彼女の手首を捕らえた。驚き、伏せた睫毛を上げた彼女と瞳が重なる。触れた肌が、熱い。
『冗談なんかにしてやらねえ』
捕まえた手首を引き寄せれば、何て軽い。抱き寄せた胸に彼女を埋め、さらさらの髪を
『絶対、してやらねえ』
背中に、温かな感触がした。胸に抱く彼女の細い腕が、おずおずと回されたのだ。この温もりを冗談にしてたまるか。そっと、首元で綺麗に結ばれたネクタイへ指を掛ける。身体が熱いのは部活後だから、なんて単純な理屈じゃない。緩めたネクタイをそのままワイシャツから離し、代わりに触れるは彼女の顎先。
「……い、一…差」
名前を呼ばれただけなのに、どうしたって、こんなにも熱になる。何か言いかけた彼女の言葉を遮るよう、自分のそれを重ね、絡めた。背中に回された細い指に、力が籠もっていく。吐息に紛れ、
「駄目よ、……私、一差の負担になりたくない…、本当に冗談だから、我が儘だから。……一差には、ちゃんと、自転車に集中して欲しいから」
離れた唇が漏らすのは、不安。いつもそうだ、年上の癖、どこか少し遠慮して“俺の今”を重視する。先の事なんて想像出来ないし、不安を取り除いてやれる術も知らない。今はまだ、安っぽい言葉しか浮かばないが。それでも、揺らぐ瞳へ約束したいのだ。雫が落ちる。
――…俺が。
『名前、冗談も、我が儘も、全部言え。年下だからって気なんか使うな』
――…俺様が。
『お前の我が儘、全部、叶えてやる。だから』
一度引いた雫がまた、溢れ出す。気付けば、それは、床に落ちたネクタイを微かに濡らしていた。理屈じゃないこの熱を、きつく。きつく、胸に抱き締めて。
『俺について来い』
――…外にあるFELTの影が、永く伸びていった。