弱虫ペダル
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――二度寝のあと、夢を見た。陽が出ていたからそれは、早朝だったろうか。それとも、長く影が伸びていたし、もしかしたら夕暮れだった覚えもある。幼少の頃だ、身体も弱く 背だって少しばかり彼女の方が大きかったあの頃。慣れない自転車で走り疲れた俺は、いよいよ地面に足を付き 前を走る彼女を呼び止める。上がった息をそのまま、振り返る彼女の真っ白で奇麗な手を取って。そうして汗だくの、汚れた指を 彼女の小指へ絡ませる。
“今よりうんと、背を伸ばして、身体も強くなるから。それで、自転車で日本一になったら、俺と結婚して”
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強豪箱根学園への入学、そして自転車競技部へ入部した一年目の夏。各校の猛者たちが集まるこの日、ロードレースのインターハイが地元、箱根で行われた。山頂で、ゴールラインを越えたあとも 額を流れる汗が瞳を
『…負けたんだ、俺』
強く吹いた向かい風が、全身の汗に乾きを与えて。瞬間、今まで籠もっていた身体の熱。三日間、絶えずと
『丁度いいや』
先程まで馬鹿みたいに流れ 瞳を刺激していた汗。一つの
控えのテントには戻らず、その足で風へ当たりに足を伸ばした。きっと、自校のテントでは 先輩たちが眉間に皺を寄せ、その様子に皆が顔を青くしているに違いない。それでもなお、涙を止めてからにしたかったのは、一丁前にも“責務を全う仕切れなかった”。という、冷えた身体の内側で 確かな闘志が燃えていたからと、今なら想う。
『風、気持ちいい』
ユニフォームのジッパーを開けると、隙間を通る風が胸を撫で、腕を撫で、耳を撫でる。そして通り越した風の先で、ふいに聞こえる柔らかな音に無意識と身を返せば。
『先輩』
「どこに行ったかと思えば」
『ごめんね』
今のは、レース後に勝手に居なくなった事への“ごめんね”ではない。
「ううん、暑いから。風に当たりたかったよね。沢山 汗かいたもの」
『そうだね』
居場所を探してくれた彼女は、いつも通り。そのさらさらな細い髪を
『………何も聞かないの。俺、負けちゃったんだよ』
「聞かないわよ。それとも聞いて、慰めて欲しい?」
『…それは……さらに格好悪いから、いいや』
少しだけ意地悪な視線を向けられると、何だかちょっとおかしくなって。肩の力が抜けると同時、小さく吹き出してしまった。すると。
「“そうやって笑っていて”」
途端、心臓の躍動が繰り返し、繰り返し早まり。乾いたはずの汗が再び浮けば、それは握る掌を滑らせる。辺りを見渡すと、いつの間に陽が暮れ掛かっていたのだろう、二人の影が長く伸びて丁度一つに重なって。――…思い出した。あの日は 早朝なんかじゃなかった、夕暮れだった。太陽が沈みかけの、穏やかなオレンジに染まった世界で、彼女の小指に触れたのは、そうだ、あの日は 今日みたいな夏の夕暮れだったのだ。瞬間に、乾いたばかりの瞳が揺らぐ感覚。つん、と鼻奥を指す鈍い痛みは、今度こそ汗の
『まさか覚えてたなんて』
恥ずかしさも混じる溜息を一つ。眉を下ろして見せれば、彼女は自慢気な表情を覗かせた。彼女が放ったふいの言葉は、いつかの夕暮れ。俺の“誓い”とも言える声への返事。
「覚えてるわよ。初めてのプロポーズだもの」
『初めても何も。まだあの頃は 五、六歳だったじゃん。それより前にプロポーズされてたら、そっちのがびっくりだよ』
「それもそうね」
肩を短く震わせながら控えめに笑う彼女が、冷えた身体へ熱を戻してくれる。昔からそうなのだ、変わらず心に温もりをくれるのは いつだって彼女で。身体の弱い俺に、自転車を教えてくれたのも。寝坊すれば 叱ったあと、優しく寝癖を
『ごめんね、俺。あの頃から、名前先輩より ずっと背も高くなったし、身体も強くなった。けど』
いつの間に 身長差がついたのか。彼女を見上げていたあの頃から、随分と成長した物だ。いつか並んだ背丈は、あっという間に彼女を追い越し 向き合った今。彼女の方が顔を上げ 俺を見上げている。
『自転車で日本一にはなれなかったよ』
約束 守れなかった、と言葉を繋ごうとした時。ふわり、手が伸びて来ては 俺の指を捕まえる。温もりが、なんて心地良い。触れた先から、肌を伝って互いの躍動が聞こえそうだ。
「ねえ、山岳」
『ん?』
「山岳は、来年も、再来年も インターハイに出れるかな」
そう、丸い瞳に問いかけられる。
『どうかな、でも。………そうだね、このままだと、悔しくて
言い終わらないうち、繋がれた指先に力が籠もる。自身を見上げる瞳に視線を配れば、嬉しそうに。それはまるで 濡れた奇麗なガラス玉のよう、薄い雫の膜が張られていて。夕日に照らされたその瞳は、今まで見て来た どんな景色より。ずっと、ずっと特別だった。
「じゃあ、まだ。諦めないでよ、日本一」
今日という日を宝物にしても良いだろうか。嫌、誰に駄目だと言われようと、俺はこの日を一生宝物にするだろう。絡まった指を 今度はそっと、俺の方から繋ぎ返す。あの日より逞しくなった腕で、汗で汚れたこの指で。彼女の白く、細い小指へ触れ、しかと絡ませた。
『名前先輩』
「なに」
オレンジに染まった二人だけの世界。響くは、風が過ぎる音と、それから肌に伝わる互いの躍動。宝物を手放すのも、次の夏で勝つ事も。諦めの悪い俺は、落ち込む暇なんて無い程に。どちらも手放す気はなくて。
『今よりうんと、背を伸ばして、身体も強くなるから。それで、自転車で日本一になったら、俺と結婚して』
――随分、昔の夢を見たと思ったけれど。案外、それは鮮明に。確かに ここにある物だった。
「“そうやって、笑っていて”」
私、笑っているあなたが一番大好きなの、と。あの頃と、まるで同じ台詞を口にした彼女は 変わずの笑みで傍にいる。一つだけ違うとすれば、俺の言葉。小さな頃に、弾みで放った声ではなく。既に輪郭のはっきりした、強く、固い、誓い。
――…絡ませた指に、確かな熱を。オレンジ色に