弱虫ペダル
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「手嶋くんたち。頑張ってる頃だね」
何日か続いた雨のあと、久しぶりの青空だと言うのに。こんな日も変わらず部室で自転車と戯れて居るなんて 相当なメカニック馬鹿と言える。ふと、新しいハンドルバーを取り出そうとした際 部室のドアが薄く開いて。そうして瞬間に隙間から溢れた光が、縦に細く瞳を刺激する。
『頑張るも何も。一日目だから、夜までに二百は走ってないと明日以降がきつい』
部室へ足を踏み入れた彼女へ 少し投げやりに言葉を放れば「公貴って、いつもそう」と苦笑を漏らした。何とでも言ってくれ、と今度こそ新しいハンドルバーを手にした時。いつの間に傍に来ていた彼女が 隣へ腰を下ろそうと膝を曲げる姿が目に映り。咄嗟にポケットからハンカチを取り出しては床へ敷く。
『ケツ、冷えるから』
床に乗った真っ白なハンカチに 目を丸くするも、それはすぐに細目の笑みへと変わって。
「公貴って、いつもそう」
それはさっきも聞いた。
――この日。本来なら自身も、手嶋たちと同じく五日間の合宿へ参加するはずだった。晴れた空の下、雨でタイヤが滑る中、風で思うよう前に進まず嘆く中。激動の千キロ走破という、夏のインターハイメンバーへの切符と成り得る あの合宿に。
『……まあ頑張ってるんじゃない、今頃。手嶋たちだって、この一年。何もせず居た訳じゃない。それに、さすがに入って来たばかりの一年に負けるとは思えないしな』
このインターハイは、三年の先輩方。金城さん、田所さん、巻島さんと走れる最後の夏だ。特に田所には世話になっていた手嶋たちは 死んでも一年を蹴散らす覚悟で臨んでいる事だろう。ふと、無意識に膝が疼いたと同時、一年前の記憶が蘇る。…あの時、俺を止める手嶋の声を聞いていたら。あの時、先頭集団へ飛び込んでいなかったら。あの時、“期待に応える”というプレッシャーに押し潰されていなかったら。そうして欠けいった、噛み合わなくなった全ての歯車。それがもし、正常に動いていなら。俺も今、彼らと一緒に合宿へ参加出来ていたのだろうか。
「…公貴」
短く名前を呼ばれハッと我に返る。過ぎてしまった事だ、結果は変わらない。それでも こんな風に考えを巡らせてしまうのは きっと。前述の“たられば”を全部、反転出来ればと 微かにも思う気持ちがあるからなのだろう。
『……考え事。大した事じゃないよ』
何となく不安気な表情を覗かせる彼女へ 心配無用と言わんばかり、割りと得意な作り笑いを試みる。…あまり効果はなさそうだが。瞳を合わせるうち 何かの拍子で悟られるのが怖くなり、伸ばし掛けだった手で冷えたアルミのハンドルバーを取り外した。今度こそ 新しいパーツを取り付けていく。
「それは?」
『ハンドルバーをアルミ製からカーボンに変える』
「あ、じゃあ軽くなるんだ」
『詳しいな』
「公貴と一緒に居るからね、嫌でもちょっとは覚えるよ」
『嫌なんだ』
おかしくなって吹き出すと、今度は彼女の方も ようやく安堵したよう口角を上げてくれて。静かな部室に響く機械音。何が面白い訳でもない、こんな地味な作業に 彼女はいつだって隣にいる。普段の部活も同様。風のように駆け抜ける 派手だが確実で繊細な走行、どちらが勝つか 手に汗握るレース形式の周回。瞳に映すなら そっちの方が断然面白いと決まっているはずなのに。
「ねえ、公貴」
『んん』
生返事で答えると、それははっきり。まるで事実を突き付けるよう 確かに。
「来年は絶対、出れるよ。合宿も、インターハイも」
『……』
「公貴が、怪我と向き合って来た事。私 隣で全部見て来たから……。頑張ってるの、知ってたから」
胸が焼けるほど熱いのは、彼女の言葉の所為なのか。それとも、彼女が隣に居るからなのか。恐らく、この場合は両方。心臓の躍動が早まっていくのを感じた。
『ありがとう。勿論、そこに照準を合わせて怪我も完治させるさ。身体作りも欠かさない』
「ん」
『俺は絶対。来年のインハイに出る』
「期待してるね」
思ったよりも早く取り付け終わったハンドルバー。カーボンであれば、アルミより若干速度で差が出るはず。せっかく外は晴れているのだ。取り付け早々にひとっ走りするのも悪くない。膝は疼くが、サイクリング程度ならば問題ないだろう。少しずつでも感覚を研ぎ澄ます時間を以て置かなければ。俺にとって、来年のインターハイは既に始まってるも同然。
それとはまた別になるのだが、この場を後にしたい理由がもう一つ。最近彼女と居ると どうも落ち着かない。理由は自分で解析出来たが、行き着いた答えを伝える勇気は出ずにいる。例えば伝えてしまう事で関係が壊れてしまうなら、最初から閉まって置いた方が安全だ。今まで通り、彼女が笑って隣に居てくれれば それでいい。こうして一緒の空間に居ると どうしても ふとした瞬間口から想いを伝えてしまいそうになる事から 今の関係を壊さないよう距離を取りたい訳で。……人間関係の歯車がこれ以上、ぎくしゃくするのは もう耐える自信がない。
『名前、悪い。俺、ちょっと走ってくる』
「膝は」
『ただのサイクリングだよ』
腰を上げ、パーツを変えたばかりの自転車を片手で押して行く。やはり体感は軽い気もするが、実際に乗ってみなければ分からない物。試したい気持ち早々と部室を出ようとドアに手を掛ければ、背中に彼女の小さな声が届いた。
「来年、公貴がインターハイメンバーに選ばれるの、凄い楽しみ」
『……』
「けど、この時間好きだったから。ちょっと寂しいな」
ごめんね 寂しがり屋みたい、と消え入るように繋げた言葉は 辛うじて俺の耳に届いていて。こんな時、女にモテる今泉なら何て答えるだろう。なんて、一瞬考えてしまったが、これはあくまで 彼女が俺にかけてくれた言葉。しかし、ここで 伝えたかった声を返して良いのだろうか。もしも、彼女の言葉が故意ではなく、ただの俺の勘違いだったら。返答一つで彼女との関係が壊れてしまったら。……どうした事か、考えるうちにカーボン製のハンドルバーを握る手が 冷たい汗で滑る感触に自分でも驚く。身体の割に、とんだ小心物だ。しかし、何だろう、先程から 心の奥で知らない音がしているのは。
『名前』
――頼むから 震えてくれるなよ、声。
『天気も良いし、散歩でも行くか』
「自転車は? 乗り心地、確かめたいんじゃないの」
…それは
「…まあ、公貴がそう言うなら行こっか。それで、どこまで行く?」
こうして 深くは聞かずに、柔らかく肯定してくれる所が好きだ。預けたハンカチを後日綺麗に洗って、アイロンを掛け渡してくれる 手が好きだ。メカニックなんか特に興味ない癖に、休み時間もサイクル雑誌を眺めている 真剣な瞳が好きだ。どうしてだろう、彼女を前にすると。自然な程 噛み合わなくなった歯車が滑らかに動きだす。
『俺も結構 寂しがり屋みたいでさ。目的地は歩きながら………二人で決めよう』
「公貴って、いつもそう」
一年前のあの日から、ようやく回り始めた歯車はどんな音で鳴るだろう。きっと、彼女の声のよう 優しく響いてくれる違いない。