弱虫ペダル
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言い過ぎかもしれないが、この三年間。“命をかけてきた”と言っていい程、あまりに苦しくて。それでも 熱く、鮮やかで、今も心で ゆらゆら燃えていて。そんな、一生忘れられない経験となったインターハイが 耳を
『悪い 待たせちまった。帰ろうぜ』
足早で教室へ向かうと、窓外の光を一番に吸収する席に彼女は居て。相変わらず真面目に教科書を開いている真剣な眼差しが 俺の瞳を捉えた。
「もう良いの、新主将の任命式」
もっと時間を要すと思ったのか、彼女の机の上には教科書の他に 分厚い参考書や電子辞書まで広がっている。思うより早く戻って来た俺の姿に、控えめながらも驚きの表情を浮かべていた。
『任命式っつう、大それた
本当は主将業の引き継ぎも併せて行いたかったが、インターハイを終えてからなお 熱く燃える心は健在。今はただ思い切りペダルを回したい、そんな目を向けくる三人を止めるなんて野暮な事は出来なかった。これからの総北を引っ張り、主軸を担う三人は当然、これから立ちはだかる様々な壁に 膝を着く事もあるだろう。辛い経験、選択を余儀なくされる事も勿論避けては通れない。自身が通って来たよう その道は、誇張でも何でもく“茨の道”なのだ。だから今だけは思い切り、束の間の自由を そして。三人で並んで走る楽しさを 胸に刻んでいて欲しい。
『………どした』
ふと、彼女の瞳が 俺を捉えた先から離れない。
「…ううん、何でも。ただ純太、この一年で凄く大人っぽくなったから」
『え、マジ。この前の健康診断じゃ逆に縮んじまってへこんでたけど。……だよな、やっぱ伸びてるよな』
「あ、ごめんね…背の話じゃなくて」
大きく肩を落した俺を見て 彼女はおかしそうに笑った。
「何だろう、自転車部の主将をやり切ったからなのかな。…上手く表現出来ないんだけど、凄く。大人で、格好良くなった気がする」
『その言い方だと、前はガキでダサかった、みてえに聞こえんのは俺だけ』
意地の悪い視線を送れば、苦笑しながら「すぐ揚げ足取らないの」と優しく叱られる。いつでもそうだ。一年、きつい練習の中 吐きながらペダルを回していたあの時も。二年、インターハイに出れず その間青柳と陽が落ちてもなお 走り続けたあの時も。三年、主将と言う重圧から余裕がなくなり 二人の時間が取れなくなっていたあの時も。全部、全部。記憶に残る全ての瞬間、彼女はいつも そんな優しい瞳を向けてくれていて。
『名前は、ずっと変わんねえよな』
ぽつり漏れた言葉に、今度は彼女が肩を落とす。
「確かに。これと言って成長出来た所なんて、ないもんね」
『そうじゃねえよ』
俺は 彼女のすぐ横。光の差し込む窓へ手を伸ばし、その硝子を薄く開けた。隙間からは滑らかで温かい風が、擦るように頬を撫でていく。
『こうして。変わらずそばに居て貰える事が、どれだけ贅沢かって。余裕無くしてた頃の俺を 引っ叩いてやりてえって思っただけ。もっと大事にしなきゃダメだろって』
「…純太」
彼女の頬が少し赤らんでいるのは、窓に揺れる陽が当たるせいなのか…それとも。そうしてそっと指先を伸ばし、色の染まった頬へ触れる。柔らかで、温かい。
『変わらず、隣に居てくれてありがとな。せいぜい愛想尽かされねえよう 努力するわ』
「愛想尽かしたりなんてしないのに」
『分かんねえだろ』
この先も、隣に居てくれるのは彼女以外に有り得ない。もしも愛想を尽かされて 突然目の前から居なくなったりでもしたら、発狂してそこら辺を転がり回る事だろう。人の心は変わりゆくし、大学、社会人と環境が変われば 交友関係に何らかの変化が起きる可能性だって否めない。そう考えると依然。三年間 彼女が隣に居続けてくれた事がほぼ奇跡なんじゃ、と
「純太」
『ん』
ふいに呼ばれ、視線を絡めた。すると、やはりいつもの優しい瞳がそこにはあって。少しの間を開けてから、彼女の声が窓から流れる風と共に胸に届く。
「変わらないよ、ずっと」
『…』
「純太以外、考えていないから」
瞬間、思わず鼻につんとした鈍い痛みが走る。前世でどれだけ偉い事をしたら、こんなにも熱い言葉が貰えるのだ。それなのに、こういう時に限って『俺もだよ』『ありがとう』なんて ありきたりな言葉しか浮かばない頭にほとほと呆れてしまう。言葉に詰まった矢先、窓から細い風が差し込むと、真っ白なレースカーテンをふわり揺らした。思ったより大きく舞ったレースは、目で追えば彼女の頭を包み込み。――瞬間に過るは、鐘の音が響く真っ白な場所。向き合ったその指に、銀色の証を落とし 薄いベールを上げていく。見つめ合う二人を挟んだ神父が 歌うような優しい声で問うのだ。
――病める時も、健やかなる時も、喜びの時も、悲しみの時も。これを愛し、その命ある限り尽くすことを誓いますか。
『誓います』
二度目の風が吹いた時、白のレースカーテンが彼女から離れていく。唐突の言葉に 勿論彼女は目を丸くした。
「……なにを」
まだ何もない 彼女の左手へそっと触れる。その温かさにまた、泣きそうになるのはきっと。彼女の熱い言葉が絶えず胸に響いているから。
『…やべ。こりゃ本番は、マジに泣きそう』
首を傾げる彼女の横で苦笑を漏らした。三年間、文句の一つも言わずただ隣に居てくれた彼女を幸せにするまで。命を掛けて一直線に努力しよう。大事な場面で止まっていた頭が今更動き始め、早急にシナプスを繋ぎ。先程浮かんだ純白へ向け 最短なる道を導き始めた。