弱虫ペダル
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―――僕は月なんか見ていなかった。星の光も見ていなかった。僕は水に映る彼女の姿を……彼女の瞳ばかりを見ていた。
「やっぱりここに居た」
耳をすませば聞こえる。広い校内にほんの
『名前ちゃん、どうしたの』
ドアを開ければ、やはり。半分 暗幕が閉められた音楽室には 濡れたように黒く光るグランドピアノと、それを弾く彼がいて。瞬間、扉が開いた事を気にしたのか、ドアから音が漏れ出ぬよう途端に手を止め ぱたり演奏を中止した。
「どうしたの、じゃないでしょう。始まっちゃうよ、新主将の任命式」
怒涛の熱い夏のインターハイ。手に汗握りサポートに徹した長い、長い三日間。しかしいざ終えてみれば それはあっという間に過ぎ去る程一瞬で。残ったのは、痛いくらいの日差しでひりついた肌の感触。
『ああ、そう言えば 忘れてた』
「葦木場くんだって、来年はエースとして走るんだから。福富主将から 任命されるよ」
『んん…俺のはどうでもいいけど…塔ちゃんの任命式は見たいかも』
そう言いながらも『でも 今良い所だから、もう少ししたら行くよ』と、止まっていた細く長い指先を動かし始めた。慌ててドアが閉まっている事を確認する。防音とは言えど 揺れた空気の振動で、いくらか外に音が響く。任命式をほったらかして呑気にピアノを弾いているなど知れたら、福富主将は勿論、新主将となる泉田だって目を三角にするだろうに。
「もう、葦木場くんてば…」
相変わらず芸術肌で、自分の世界を芯に持つ彼に 思わず肩を落とした。しかし、ここぞと言う時の“彼は強い”。そんな事はエースとして彼を認めた福富主将を含める皆が知る、揺るぎない完成された事実なのだ。こうしている間も、彼は恐らく頭の中で何か考えを巡らせている事だろう。私は邪魔しないよう、近づいた先のグランドピアノにそっと触れた。冷たい。
『俺さ』
「ん」
流れる曲が丁度中盤に差し掛かった頃。彼は指の動きをそのままに口を開いた。
『絶対、来年のインターハイ。箱学のエースとして 総合優勝するよ』
「そうだね、期待してる…」
『まだまだ、塔ちゃんやユキちゃんや皆と一緒に走りたいし。…六人で。あの 物凄い低い表彰台に、どうしても乗りたいから』
心臓が締め付けられる気がした。暗幕で影になり定かではないが、彼が今どんな表情でいるかなんて大体察しは付く。時は戻らない、二位と言う成績を今から引っくり返す事など出来はしないのだ。
「あ、葦木場くん、あのね」
何て声を掛ければいい。彼の背負う物があまりに大き過ぎて、続けようとした言葉が詰まってしまった。情けなく口を閉ざした私へ、ふと 響く音色に合わせた彼の柔らかな声が届く。
『こうしてると頭に浮かんで来るんだ、イメージが』
夕日差しが傾きを見せると、暗幕に隠れていた彼の瞳と視線が重なる。
『流した汗が焼けた肌に染みて、棒になった足で無理矢理にでも前に進む、その先にある一番高い所で 両手を高く上げててさ』
気付かなかった。彼がずっと ピアノを弾く手元を見ずに私を見つめていた事を。温かい瞳が、ただの一直線に私へ向けられていた事を。
『そしてその先で、君が笑ってる…そんなイメージ。浮かんで来るんだよ 頭に』
鼻を突き刺すようなつんとした鈍い痛み。目頭が揺れるのを抑え笑って見せる。
「うん、期待、してる」
『そうだ、名前ちゃん』
すると、彼は思い出したかのよう 時にぴたり手を止めて。
『連弾しようよ』
「連弾て…二人揃って弾くあれ? 私 出来ないよ」
音を聴くのは好きだ。特に彼の音を聴く事に関しては大好きだと言って良い。それでも連弾など経験がない、なんて事は彼も知っているはず。苦笑を浮かべている最中、彼はまるで名案を思い付いたかのよう 自分の座る椅子を叩いてみせた。
『じゃあ、隣に座ってよ』
「椅子に座っても、急に弾けるようにはならないよ」
『…え、そうなの。座れば誰でも弾けると思ってた』
相変わらず天然なのか、笑わせようとしているのか。目を丸くする彼の様子に 耐えれずとうとう吹き出してしまった。彼の言う 座ったら途端に弾けるようになる、なんて事にはならないが 音が止んだ静寂の音楽室。私は少しの足音を響かせて、彼が待つ長方形の椅子へスカートが皺にならないようそっと腰を下ろした。
「ごめんね、連弾も何も出来ないけど。隣に座って邪魔じゃない?」
見上げれば瞳を細めて笑う彼。
『邪魔な訳ない。仮にもし君が邪魔なら、他の物なんて全部。邪魔でしかない』
まだ日も落ちない明るい中、彼女でも何でも無い人に こんな歯の浮くような台詞を堂々と言えるのは 天然なのか本心なのか。どちらにしても 何だか嬉しさと恥ずかしさで顔が熱くなっていくのを感じる。悟られないよう やや俯くと、彼は再び鍵盤に指を触れ 曲の続き紡ぎ始めた。
『今年の夏のインターハイ。俺ね、負けたのも勿論悔しいんだけど』
「うん」
『名前ちゃんが泣いてた事が、一番苦しくて、嫌で、どうしても悔しかった』
総合優勝を逃したあの日。三年の先輩たちや、死にもの狂いで走った選手、応援していた部員の皆。胸を貫かれるような悔しさに、きっと皆同じよう悔しがったに違いない。マネージャーの私もその一員ではある。しかし、血の滲むよう過酷な練習に参加していないただのマネージャーに 果たして泣く資格などあるのだろうか。おこがましいのではないだろうか。そんな考えが頭を
「…どうして、知ってるの」
投げ掛けた問いに返事はない。その代わり。
『君には、いつも笑っていて欲しいから』
「…え」
気付いた時、曲は終盤を迎えていた。明るい音が部屋の空気を揺らす中。彼は私を見つめている。
『だから来年のインターハイは、絶対に泣かせない。約束するよ』
「………葦木場くん」
『君の為に、君だけを見て走る』
「………危ないから、前見て走らなきゃ駄目」
『笑って頂上で待ってて』
真剣な瞳は揺るぐ事なく私一点に注がれて。彼の言葉が嘘なんかじゃない、と理解するより早く、私は照れ隠しの為 話を反らした。
「そ…そう言えば、今の曲、何て曲だったの」
言葉のあと、椅子が軋めば 彼はゆるり立ち上がり。日差しが気になるのか、暗幕を引っ張ると部屋が一気に薄暗になる。そう、まるで夜。暗闇の中、差し込む微かな光が 細い月明かりのよう ほんの少しだけ、彼の姿を映し出した。
『シューベルト。第三歌曲集、美しい水車小屋の娘。全二十曲で構成されるうちの第十曲目が、今の曲だよ』
「そうなんだ…凄い長い曲の一部なんだね」
詳しい事は分からない。しかし何故か、柔らかい口調で答えられると 耳を傾けずにはいられない。心地良いのだ。
『そう。二十曲を繋いだ物語調になっててね。片思いの女性とデートへ行く男の人の物語を 一曲ずつにまとめてる。あ、今度楽譜持ってくるよ』
目が慣れてきた。ふと、視線が重なった気がする。
『ちなみに今弾いた第十曲目。これは、月の出る夜、水面へデートへ行った時に 彼女へ大切な言葉を伝える場面の曲』
どうしてだろう。暗幕を閉められた薄暗な部屋。夕方なのに、まるで本当の夜みたいに。ふと 途切れ掛かった糸のよう細い声で「彼女に伝えた大切な言葉って」と聞いてみる。すると今度は ちゃんと返事が返って来た。
―――僕は月なんか見ていなかった。星の光も見ていなかった。僕は水に映る彼女の姿を……彼女の瞳ばかりを見ていた。
『まだ気付かない? 俺が、君だけを見てる事』
酷く、心臓が