弱虫ペダル
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――異常気象。
なんてのは、すっかり聞き飽きた。梅雨明けを前にぐんと上がった気温は 太陽が沈んだ夜でさえ 下る様子がない。ニュースでは毎日 “酷暑”だの“熱中症”だの、聞くだけで うんざりしてしまう言葉が並べられるばかりで、最近は天気予報を見るのも億劫になっていた。
『…あっちい』
照りつける太陽が肌を刺激する。どこから湧いてくるのか、額から流れた汗は止めどなく頬をつたっては顎先から大きな雫となって垂れて行く。落ちた汗が日焼けした腕へ ひたと落ちると 途端に染みて肌がひりつくのを感じた。
『今日の風呂は地獄だなあ、こりゃ』
苦笑し、グローブをはめた甲で顎の汗を拭い、ラストスパート。学校の校門までの激坂を駆け上がった。
飛び出しそうな心臓を抑え込み、校門をくぐり抜けると まだ遠くに見える部室前で鏑木が大きく両手を振っている姿が目に映る。ペダルを回し近づくにつれ、表情が見え始めると 何やらそれには焦りが伺えて。
「おおい!手嶋さーん、早く!」
何をそんなに焦っているのだろう。ブレーキをかけ部室前に自転車を停めると 鏑木が額に流れる汗をそのままに、慌てて駆け寄ってきた。
『どうしたんだよ、鏑木。着いたらクールダウンのあとストレッチして、そのあとは日誌書いとけつったろ。ミーティング、聞いてなかったのか?』
「…っそんな事してる場合じゃっ!…もう、遅いんすよ、手嶋さん!何でこういう時に限って周回ビリなんですか!このビリッケツ!」
『あのなあ〜…。そんなに飛んだり跳ねたりする程 走り足りねえかよ。お前だけこの周回 追加すんぞ』
俺が これだけ体力を削られているにも関わらず、鏑木は両手を広げるジェスチャーを繰り返したまま 目の前で子供のようにぴょんぴょん跳ねまわる。小野田率いる二年も化け物揃いだが、今年の一年も相当イかれてる。
『で、何があったって?』
「……っ…マネージャーが…っ…!」
眉を八の字にしうろたえる鏑木が指さすのは、部室の中。言葉の最後を聞く前に、すぐさま駆け出し、太陽光で熱くなったヘルメットを脱ぎ捨てながら 部室のドアを開いた。
『…名前…!』
入ってすぐに漂うのは、男特有の汗臭さと、制汗剤の匂い。自分もこんな匂いがしていると思うともう少し気を遣わねばと考えさせられる。ふと目を配ると 長椅子に仰向けに寝かせられた彼女の姿があった。すぐ隣には青八木が居て、彼女の首元を保冷剤で冷やしている最中のようで。
『おい青八木…。名前、どうしちまったんだよ』
彼女に駆け寄ると、顔が真っ青だった。仰向けの身体は、胸が大きく上下し 息も少し苦しそうだ。
「多分、貧血か、軽い熱中症、どっちかだと思う。意識はちゃんとある」
『そうか…今日は特に暑ちいもんな』
何度見ても 特に変わり映えしない天気予報。近頃は見る事すらなくなっていた為 今日の気温が一体何度あるのかは分からない。しかし、太陽で肌がひりつく暑さだ。この分だときっと三十五℃は ゆうに超えているに違いない。暑さでバテれば食欲も減退する、特に女子なら貧血にも成り兼ねない、そんな環境だ。青八木は 一つ頷くと、保冷剤を反対の首元へと当ててやった。
「俺と鏑木が同時に着いた時、今泉たちが 部室前でぐったりしている名前を見つけたらしい。今泉たちには俺の指示で 監督を呼んで来て貰ってる。クーラーボックスに保冷剤が入ってたから、今はとにかく冷やしてた」
『サンキュー、青八木。遅くなっちまって悪かった』
青八木が落ち着いた判断を下したお陰で、他の部員たちも さほどパニックを起さず行動出来ている事に安堵した。しかし、直射日光は避けれても 部室にクーラーは無ければ扇風機もない。ほぼ外気温と変わらないこの部室は もはや蒸し風呂だ。おまけに臭い。
『青八木、俺 名前をこのまま保健室に運ぶわ。この部室暑ちいし、保冷剤もすぐ溶けちまう。涼しい保健室で寝かせた方が回復も早えだろ』
「分かった。入れ違いにならないように、俺は鏑木とここに残って 今泉たちが呼んで来る監督を待つ」
『ああ。監督が着いたら、名前を保健室に運んだって事 伝えてといてくれ』
「任せたぞ、純太」
『お安い御用』
そう言って、仰向けに横たわる彼女に あまり刺激を加えないよう、そっと腕にした。触れた所から熱を感じる。早く涼しい所へ連れていかなければ。
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保健室へ着くと生憎、先生は不在のようだ。俺は辺りを見渡し、窓から一番遠ざかった 陽の光が当たらないベッドを見つけ 胸に抱いた彼女を仰向けで寝かせる。すると。
「手…嶋くん…」
『名前、気分はどうだ』
青い顔をした彼女は、薄く瞳を開け 辺りを見渡すと そこが保健室だと合致がいったらしい。
「青八木くんが椅子に寝かせてくれたから…さっきよりは平気……。ごめんね…急に気持ち悪くなってフラついちゃって……皆に迷惑かけちゃった…」
俺は、今にも泣き出しそうな彼女の額に 手のひらを当てた。
『んな事ねえよ。…俺の方こそ、ごめんな。暑いのに 外で作業させちまったりして。今回は主将の俺の、監督不行届だよ』
「…そんな事ない。……あ…手嶋くんの手、冷たくて気持ちいい」
『今日はもうこのまま 休め。明日の部活も無理しなくていい。あとで監督が保健室に来てくれるから。そしたら親御さんに連絡してもらって迎えに来て貰え、な?』
彼女はまた「ごめんね」と呟き、そのあと小さく頷いた。部活に戻る前に 彼女へ飲み物だけは飲ませておきたい。もしかすると脱水になっているかもしれないからだ。保健室の小さな冷蔵庫を開けると、丁度ドア脇にあるミネラルウォーターと目が合い 早速蓋を開け彼女に手渡した。
『名前、少し起きれるか。水分だけは摂っとけ』
「ん…」
か弱い背中を片手で起こしてやると、背中がしっとり汗ばんでいる。火照った身体の熱が冷えるのに、もう少し時間が掛かりそうだ。
『飲めそうか?』
「……うん、ありがとう」
三分の一程飲むと、もう大丈夫、とボトルを返された。喉を潤し 再びベッドに頭を付けようとした彼女だが、途端に困った表情を覗かせる。そうして少し考えたあと、申し訳なさそうに呟いた。
「ねえ、手嶋くん…枕…ってあったりするのかな…」
『え?』
ベッドと枕はセットになっているのが当たり前だと思っていた。何の疑問も持たず彼女を横たわらせたベッド。見渡せば、他のベッドにも枕が備わっていない事に今 気が付いた。
『何で枕だけねえんだ…?』
不思議に思い、保健室にあるデスクに目を配ると 一枚の紙切れが。そこには リネン業者の不手際で、洗濯除菌した枕の配送が遅れる旨が 手書きのメモに記されていた。きっと保健室の先生が電話で連絡を受け メモをしたのだろう。配達の日時は明日の日付になっている。
『名前、枕は今 どこもねえらしい。配達の関係で明日にしか届かねえんだってさ』
「……そう…なんだ」
彼女は肩を落とし、不安気な表情を浮かべた。俺はベッドに近づき、そばに腰を下ろす。俯く彼女の顔を覗くと、ふいに視線が重なった。
『枕が、どうかしたか?』
「……うん。頭が下がると、ちょっと気分が悪くなるみたいなの…。なんでもいいから 少し厚みのある物を頭に敷きたいなって…」
『なるほどな』
しかし 枕の代わりになる物なんてあるのだろうか。ふと何日分か積み重なった新聞紙が目に止まったが あれでは固くて頭痛を起こしてしまうかもしれない。枕の代わりになって、固くてなく、程よく弾力性のある物。
『そうだ、俺の腕ならどうだ』
「……えっ」
突然の提案に困惑する彼女は、先程まで青ざめていた顔を桃色に染めた。
『無いより少しはマシじゃねえかな。ああ、多少 汗臭いけど、それを除けばイイ感じの高さだと思うぜ、俺の腕』
「……でっ、でも…手嶋くんは、部活が」
『平気だって。名前が寝たらすぐ戻るよ。寝ちまえば 気持ち悪いのも感じにくくなるだろ、それまで。な?』
首を傾げて瞳を覗く。しばらくの沈黙のあと、彼女は赤面したまま 小さく頷いた。俺はシューズを脱ぎ、狭いシングルベッドに汗だくのまま身を預けた。二人用には作られていないため、妙な音が耳を刺激するが 聞かなかった事にしよう。そうして、左腕を伸ばし彼女を呼ぶ。
『名前、ここ』
何度目か躊躇する素振りを見せたあと、彼女の細い髪がふわり、俺の日焼けした肌に触れ 次に頭の重みを感じた。瞬間に香るのは 甘く、柔らかな匂い。
「…お…重くない?」
『重くねえよ。気にしなくていいから、休む事だけ考えろ』
そう伝えると、彼女は安心したようにゆっくり目を閉じた。腕に乗る彼女の頭、近づかなければ分からない 仄かな甘い匂い。そんな中、服越しに身体が触れ合うと 思わず反応してしまいそうになり、軽い気持ちで腕枕を提案した事を 今更後悔した。ふと胸元にいる彼女を見ると、潤んだ口元から細い寝息が静かに溢れている。熱い吐息が俺の首筋に触れると、途端に身体はほだされた。
――馬鹿かよ。…飛ぶんじゃねえぞ、俺の理性。
深い眠りに着いた事を確認し、そっと腕を抜こうとした瞬間。保健室のドアの隙間…。鏑木の大きく見開いた目と ばっちり視線が重なった。案の定、直後に赤面し 何を言いたいのか口をパクパク動かしている。そんな鏑木に、俺は一つジェスチャーをする。口元に人差指を そっと添えて。
『――シー……な?』
瞬間、鏑木の頭は沸騰し、その場にいる事が出来なくなったのか 廊下をバタバタと駆けていく。足音と共に、鏑木の大声が遠くの方から聞こえて来た。
「青八木、大変だっ!マネージャーが別の意味で大変だあ!青八木い〜!」
俺は苦笑し、大きなため息を着いた。
『…一番。誤解を解くのが面倒な奴に見つかっちまった』
視線を彼女に落とすと、顔色はだいぶ良くなっていて。俺は少し考えたあと、引き抜こうとした腕をそのままに 彼女の寝顔を見つめる。
『まあ、すぐに。“誤解”でも何でもなくなるさ』
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