弱虫ペダル
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もうすぐ、この周回は激坂を迎える。気を抜いたら心臓が飛び出してしまいそうだ。呼吸の仕方を忘れる程の息継ぎ、苦しさと共に、ガチガチに固まり始めた足でペダルを回す。横をちらと見れば、汗を流すものの まだ涼しい顔をして走る、
『相変わらず すげえ数のファンだな』
言葉の最後は息継ぎの途中で
「…お…俺は手嶋さんの事…その。良いと…思いますよ」
いつもの鋭い目つきは どこへやら。どうやったらそんなに目が泳ぐんだ。自転車は回した分だけ強くなる、嘘は付かない。そしてヤツもまた、嘘は付けない。俺は嫉妬を通り越して苦笑のため息を付いた。
『今泉』
「…はい」
『俺は今日から一週間、お前を“エリート”と呼ぶよ』
「―…ぐっ…」
がっくり肩を落とした今泉だが、速度を緩める事はなく、俺と共に そのまま周回を無事終えた。
正直、主将として自信があると言えば無い。金城さんのように涼しい顔をしている事も出来なければ、ファンの声援一つ聞こえる事もなく。挙句の果ては 後輩に嫉妬から来る意地の悪さを見せつけて怯えさせる始末だ。
『もっと頑張んねえとな』
汗だくのユニフォームを脱ぎ、部室で制服に着替えていると、後ろから古賀の声が響いた。
「手嶋。今日は、いつもより良い走りだった。タイムも伸びている」
古賀はボードとペンを片手に記録を見せてくれるが、俺は小刻みに痙攣する足の感覚に やれやれと首を振った。
『いや もう足ガッチガチ。こっちはぶん回すだけ ぶん回して、付根から足 もげそうだってのに、うちのエリートと来たら
「今泉も調子良かったみたいだな。やっぱりファンは多ければ多い程いい。ここぞと言う時に あれは背中を押してくれる」
『おいおい古賀、嫌味か。それ』
「どう受け取っても構わない。ところで」
『いや、ところでじゃねえよ』
話しを戻そうとする俺に、古賀は携帯で調べた画面を見せて来た。
『ん? なんだあ……。“カリーピッツァの名店”!』
「ああ、青八木が調べてくれてな。どうだ、お前も腹減ったろう。今 青八木も来る。三人で飯でも行かないか」
『おお!さすが青八木』
カリーが食べたい俺と、ピッツァが食べたい古賀。両方が満足出来る食べ物だ。確かに既に空腹で、画像を見せつけられると余計に唾液腺から唾液が湧く感覚がした。汗だくのユニフォームをカバンへ押込み、二つ返事で答えようとした瞬間。カバンにあるものが、ない。
『ああっ、やっちまったあ』
思わず頭を抱える。
「どうした」
『教室の机んなかに、明日提出の現国のテスト用紙…忘れちまった』
「あれま」
『ちょっと嬉しそうにすんなよ、腹立つから』
一応睨んで見せるが、睨まれた所で怖くも何ともないだろう。表情一つ変えず微笑んでいる古賀が、俺の風格がどの程度なのかを良く表している。
『悪いけど、俺 一旦教室行くから。お前ら二人で先行っといてくれ』
「場所は」
『危ね。俺の携帯に店のホームページでも送っておいてくれよ。あとから追いかけるって、青八木にも伝えてくれ』
そう言い残し、重い足取りで教室へと向う。未だ震えて、感覚の鈍くなった爪先にため息が出た。
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夕方 誰も居ない校内。しん、と静まり帰った廊下はいつもより広く感じる。窓が全部閉まりきっているせいで、蒸し暑さを感じ たまらずブレザーを脱いだ。早く涼しい店で、カリーピッツァが食いたい。出来ればドリンクバーを付けて、疲労の溜まった身体全体に 冷たいアイスティーでも流し込みたい所だ。急ぎ足で教室へ向かい、ドアに手をかける。瞬間。
「…きゃ…!…」
勢い良く開けたドアの向こう。同時に小さな悲鳴を上げ、誰かにぶつかった。
『うお、びびった。…名前か』
「て…しまくん、お疲れ様…痛てて」
クラスメイトの名前は 驚きで目を丸くしながら、俺の胸にぶつかった鼻先を軽く擦っている。
『大丈夫かよ、鼻潰れてねえか』
「平気、平気。私の方こそ ごめんね」
ふと、下校時間もとっくに過ぎた 誰も居ない校内で、なぜ彼女だけが居るのか気になった。
『つうか、名前 部活してねえよな。何でこんな時間まで残ってんだ』
「え…ええと…それは…」
瞳を覗くと途端に目を逸らされる。増々理由が気になりもう一度問いかけようとした時。彼女が 慌てて俺のワイシャツを指さした。
「手嶋くん…やだ、ごめんなさい。私 ワイシャツ、汚しちゃったみたい」
『ん?』
指先の通り目を配ると、先程ぶつかった時だろう。丁度彼女の口元が 俺のワイシャツの胸辺りに当たったのだ。良く見れば 薄っすら桜色に染まってるような気がする。
『…口紅か?』
「ううん、色付きのリップ。血色が良くなるから付けてたんだけど、まさか汚しちゃうなんて」
彼女はポケットからハンカチを取り出し、シミにならないよう 優しく抑えながら拭う。しかし。
「だめ。落ちないみたい…ごめんね手嶋くん、家に帰ったらすぐに洗濯して貰えるかな…本当、ごめんなさい」
眉を八の字にして謝る彼女。別に良く見なければ分からない程度の跡だ。ワイシャツの替えなんて いくらでもある。さほど気にする事でもなかった。それでも、大袈裟過ぎるくらいに謝る彼女の姿が可愛く思え、少しからかってみたくなる。
『こんなの全然 気にならねえよ。それに 跡付いてた方が 目印になって分かり易いだろ』
俺は 桜色に染まったワイシャツの胸元を掴み、そっと自分の唇に当てて見せた。
『間接キスすんのに、さ。なあんつって』
「―っ…手嶋くん」
意地の悪い目で見つめると、瞬間に赤面する彼女に 心臓がぴくりと動いた。
――待て、何でそんな反応すんだよ。
一呼吸整えたあと、彼女が染めた頬を反らしながら静かに答えた。
「…手嶋くんの恋人になる人、凄い大変そだな」
『何だよ 急に』
真意が読み取れず首を傾げる。ふと、教室の窓からの眺めが目に入った。この教室を使ってしばらく経つはずなのに、全然気が付かなかった。この窓からは丁度。
『へえ。チャリ部の 周回コース見えんじゃん、この教室』
ぴくり、身体が跳ねた彼女の様子を 俺は見逃さなかった。横目で見ると、それは愛おしそうな表情で、それでいて少し興奮した口調で話し始めるのだ。
「そうなの…!…ここからね、手嶋くんたちが見えるんだよ。意外と穴場でね。凄いの…手嶋くんてば スタートしてから全然スピード落ちないし、あの激坂も、今日だってぐんぐん登って行って。戻って来てからだって、大事そうに自転車をメンテナンスする様子とか、本当にもう、格好………」
『…』
「…よく……て…っ…」
驚き 黙って聞いて見つめると、夕日のせいなのか 照らされた彼女の頬は赤みを増していく。
「ごめ…ごめんなさい…!…私」
なるほど。だから 誰も居ない教室に 一人で居た訳かと合致がいった。
「こっそり見てるなんて、気分良くないよね…」
告白にも似たそれを 口にした彼女は、慌てた様子で涙目になっていて。俺はワイシャツに付いた桜色の跡に目を落とす。そうして、もう一度、裾を掴み、今度は長く。それに唇を当て見せた。
「手、嶋くん…わ、私ね…」
勘違いじゃなければ、何となく次の言葉が想像出来た。ワイシャツに唇を付けたまま、視線だけを彼女に移す。
『名前、さっき。“俺の恋人になるやつは大変そうだ”って言ったよな』
「……それは…。間接キスとか…平気でしちゃうから。…手嶋くんの恋人になった人は、他の子にもそんな事するんじゃないかって…不安になると思って……」
夕日に照らされた彼女の影へと一歩近づく。二つの影が重なると、それは大きな一つの影になった。
『…そりゃちょっと違げえな。でも、“大変そう”ってのは当たり』
「…」
するり、手を伸ばし 彼女の細い指先と自分の指を絡ませる。
『なあ、俺 相当重てえよ』
「……っ…」
『しつけえし、嫉妬するし、束縛もする。あとから嫌いって言われても、簡単になんか離してやらねえ』
繋いだ手は しっとり汗ばんでいく。どちらかともなく、それは次第に熱く絡ませ合った。視線が重なると、彼女の目には涙の膜が張られていて。ふと唇に目をやると、先程ぶつかった時だろうか、リップが擦れて色が消えてしまっいてる部分があった。そっとそこへ手を伸ばし、親指で 残った色をまんべんなく
『それでも良いなら。こんな所から見んの、やめねえ?』
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今日もまた、この周回で激坂を迎える。気を抜いたら口から心臓が飛び出してしまう程。何度 息継ぎの仕方を忘れたら気が済むんだろう。一向に上手く呼吸が整わない。隣をちらと見ると、相変わらず 涼しい表情で走る今泉がいて。思わず舌打ちをしそうになるが、変わりに大きなため息をついてみせる。
『相変わらず すげえ数のファンだな』
今泉は分が悪そうな顔をして、無理矢理に口角を上げた。大勢のファンの声援を通りこした次の瞬間、脇目に彼女の姿が見え、視線が重なった。たった一瞬だった。口元に塗られた桜色のリップと共に
――“頑張って、純太”
「あの、手嶋さん…俺はですね」
焦燥する今泉が口を開くが、次に繋ぐ言葉を 熱く燃える心臓が教えてくれた。
『いいよ。俺には、一人居れば十分だ』
背中を押されたのか。この日のタイムは、俺の過去最高、新記録だった。