弱虫ペダル
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『なんて素晴らしい景色…そしてこの美形…!』
彼の聞き取り易い高い声が、夕方の赤く染まった空に木霊 する。陽が沈みかけており、遠くの空はまだ明るくも 一番星が見えていた。
「本当、凄い景色だね」
この日 私は、恋人の東堂に連れられ 箱根強羅にある温泉旅館へ宿泊に来ていた。さらさらと響く心地よい川の音、風に吹かれる木々の囁き。五感全体が癒やされ、浄化していく感覚に 私は感動のため息をついた。
『こら。景色は勿論だが、美形も褒めんか』
「ふふ、どうだろう」
悪戯にそう笑うと、東堂は困り顔で やれやれと私の頭を優しく撫でた。
互いに大学生になったばかりの夏休み。高校三年の夏は、彼が熱を燃やしたインターハイがあり 二人の想い出作りを逃してしまっていた。その後もすぐに受験勉強に追われていると、あっという間に卒業の時期が来て。
東堂からは 二人で居る時間が少ない為に、寂しい思いをさせて申し訳ない…と、何度か謝られた事がある。その度に 気にしなくて良い、と本心で伝えていたのだが。
『高校三年間 恋人同士なのにも関わらず、寂しい想いをさせてしまっていたからな。埋め合わせにも こうしてだいぶ時間がかかってしまった』
私の髪を愛おしそうに梳 きながら、東堂は苦笑する。
「本当に気にしてないのに。三年間、箱学でレギュラーで居られるって 凄い事なんだよ。それに 私との想い出作りはいつでも出来るけど、インターハイは三回だけだから。ね?」
『……そう言ってくれると、有り難い』
東堂は私を宝物のように優しく抱き締めた。力強い腕、薄くも硬い胸板に 心臓がぴくりと跳ねる。久しぶりに近くで感じる彼の息遣いは 私を変に緊張させた。途端に顔が熱くなっていくのを感じ、私は慌てて火照った肌をパタパタと仰ぐ。
『どうした、熱いのか』
「う……うん、そう、そうみたい。そうだ、尽八、一つ気になった事があるんだけど」
悟られないよう 私は話を変えた。
「温泉なら、ここじゃなくても 尽八の実家があるじゃない。私、まだ伺った事ないんだけど。せっかくなら 東堂庵が」
良かったんじゃない? そう伝えようとした次の言葉は 彼の大きな声で遮られた。
『それはならん!』
「どうして……そっか。やっぱり夏休みの時期だし、客室は観光客で埋まっちゃうよね。私がご挨拶に泊まりになんて行ったら 観光で来たお客さんのお部屋 無くなっちゃうし」
『いや。俺の実家ではどうしても 叶わない事があるからな』
「え、なに?」
どちらも温泉宿なのだ。身体や肌に良い温泉に肩までつかれるし、同じ箱根なら 食事だって美味しく、絶景も眺められるだろう。私は考えが及ばず、首を傾げながら彼の顔を覗き込んだ。すると彼はコホン、と一つ咳払いをして。
『東堂庵では叶わない事。それはだな、名前と共に温泉に入る事だ』
「……なるほど…」
『んん…しっくり来ておらんようだな。良いか、東堂庵は仮にも俺の実家なのだ。実家で肌を重ねて風呂に入ってみろ。家中 大騒ぎになり兼ねんぞ』
「え……い…い、一緒に入るの…っ…」
『その少し傷つくような 微妙な反応はよせ。そもそも既に何度も戯れている仲ではないか』
「そういう事は言わなくていいよ…っ…もう……」
彼は ふむ、と一呼吸置いたあと、部屋の外にある 露天風呂を指差した。
『だから こうして、客室付き露天がある部屋にしたのだ。どうだ、これでしっくり来ただろう』
そう言われても、急ぐ心臓を抑える事は出来ない。彼とは確かに肌を重ねて来た。しかし、それは暗がりでしかない。今はまだ夕方で、嫌でも身体の隅まで見られてしまうと考えると頭が沸騰してしまいそうだった。
それに、良く見ると露天風呂の側 には 弱めの光だが備え付けのライトがある。先程 部屋へ入った際、あらゆる電源を確認したが、露天風呂のライトの電源だけは見当たらなかったのだ。きっと終始点灯しているライトなのだろう。それでは夜になったとしても明るい所で彼に裸を見られる事に変わりはない。
『さて。せっなくなのだ。食事の前に この絶景を眺めながら風呂でも入ろうではないか』
カチューシャを外し、シャツを脱ぎ始めた彼。恥ずかしさで顔を逸らすと、瞬間、何かが畳に落ちた音がした。ふと目を向けると それは、彼が胸ポケットに閉まっていた小さな手帳で。
「尽八、手帳落ちたよ」
『む…すまんな。…ッ…!…いや、ちょっと待て、名前、その手帳は!』
怪しい反応に 私は眉をひそめ、止められたがページをはらりと捲 った。そこには。
「これ………」
それは何も怪しい物ではなく。彼の達筆な文字で日付と数字が並んでいる。飛び飛びの日付だが、一番古い日付は去年の夏、一年程前になっていて。数字の先頭に書かれたエンマークを見て合致が行った。
「バイトの日付…?」
『人の物を勝手に見るもんじゃない、全く』
頬を少し染めた彼は、私から手帳を奪うと旅行鞄のポケットに閉まった。
『高校時代は部活が主体で、バイトなど出来んかったからな。実家の小遣いではどうにもならん』
「……日付、インターハイが終わってから すぐの日付になってた……。もしかして、尽八、受験勉強の合間にバイトしてたの…」
『そうでもしなければ、こうした良い宿は取れんだろう。受験もあったし、大学に入ってからは講義の都合で 効率良く稼げなかった。そのせいで、お前への“埋め合わ”せも、こんなに時間がかかってしまったよ』
すまんな、そう苦笑して 彼は脱いだシャツが皺にならないようハンガーに掛ける。気付かなかった。私の知らない所で そんな事をしていたなんて。寂しい思いをしているんじゃないか、いつも側に居てやれず申し訳ない、いつもそんな風に言っていた。ふと、彼が発した埋め合わせという言葉に引っ掛かりを覚える。
『必ず“埋め合わせ”をする』高校時代に そう彼に言われたある日、私は軽い口調で「じゃあ 良いお宿にでも連れて行ってもらおうかな」そう言った事を たった今思い出した。途端に胸が熱くなる。
「尽八…」
ハンガーを掛ける彼の後ろ背にそっと手を回す。
「……ちゃんと連れ来てくれたんだね」
『何を当たり前な事を言うのだ、埋め合わせはすると言ったろう。…遅くなって格好つかないがな』
彼は振り返り、私をキツく抱き締めた。
『寂しい思いをさせた分、お前の言う事は 全て叶えてやりたいのだ』
「…何でも叶えてくれるの…?」
『ああ、何でもだ』
私は彼を見上げて、キスをせがむ。そうするとすぐに 唇が落ちてきた。何でも叶えてやりたい。それは彼の底知れない愛の全てが詰まった言葉だった。ふと何となしに口にした、自分でも忘れているような事を こうして必死に叶えてくれる彼が愛おしくて堪 らなくなる。
離れた唇に向かって、私はぽつりと 小さな声で我が儘を言ってみた。
「お嫁さんにしてって言ったら?」
彼はその言葉に目を丸くしたあと、それはとても優しく 温かな目で笑った。
『だから 何でも叶えてやると、今言ったばかりではないか』
今にも涙が溢れそうな私の目尻に、彼の唇がそっと触れていく。
彼の聞き取り易い高い声が、夕方の赤く染まった空に
「本当、凄い景色だね」
この日 私は、恋人の東堂に連れられ 箱根強羅にある温泉旅館へ宿泊に来ていた。さらさらと響く心地よい川の音、風に吹かれる木々の囁き。五感全体が癒やされ、浄化していく感覚に 私は感動のため息をついた。
『こら。景色は勿論だが、美形も褒めんか』
「ふふ、どうだろう」
悪戯にそう笑うと、東堂は困り顔で やれやれと私の頭を優しく撫でた。
互いに大学生になったばかりの夏休み。高校三年の夏は、彼が熱を燃やしたインターハイがあり 二人の想い出作りを逃してしまっていた。その後もすぐに受験勉強に追われていると、あっという間に卒業の時期が来て。
東堂からは 二人で居る時間が少ない為に、寂しい思いをさせて申し訳ない…と、何度か謝られた事がある。その度に 気にしなくて良い、と本心で伝えていたのだが。
『高校三年間 恋人同士なのにも関わらず、寂しい想いをさせてしまっていたからな。埋め合わせにも こうしてだいぶ時間がかかってしまった』
私の髪を愛おしそうに
「本当に気にしてないのに。三年間、箱学でレギュラーで居られるって 凄い事なんだよ。それに 私との想い出作りはいつでも出来るけど、インターハイは三回だけだから。ね?」
『……そう言ってくれると、有り難い』
東堂は私を宝物のように優しく抱き締めた。力強い腕、薄くも硬い胸板に 心臓がぴくりと跳ねる。久しぶりに近くで感じる彼の息遣いは 私を変に緊張させた。途端に顔が熱くなっていくのを感じ、私は慌てて火照った肌をパタパタと仰ぐ。
『どうした、熱いのか』
「う……うん、そう、そうみたい。そうだ、尽八、一つ気になった事があるんだけど」
悟られないよう 私は話を変えた。
「温泉なら、ここじゃなくても 尽八の実家があるじゃない。私、まだ伺った事ないんだけど。せっかくなら 東堂庵が」
良かったんじゃない? そう伝えようとした次の言葉は 彼の大きな声で遮られた。
『それはならん!』
「どうして……そっか。やっぱり夏休みの時期だし、客室は観光客で埋まっちゃうよね。私がご挨拶に泊まりになんて行ったら 観光で来たお客さんのお部屋 無くなっちゃうし」
『いや。俺の実家ではどうしても 叶わない事があるからな』
「え、なに?」
どちらも温泉宿なのだ。身体や肌に良い温泉に肩までつかれるし、同じ箱根なら 食事だって美味しく、絶景も眺められるだろう。私は考えが及ばず、首を傾げながら彼の顔を覗き込んだ。すると彼はコホン、と一つ咳払いをして。
『東堂庵では叶わない事。それはだな、名前と共に温泉に入る事だ』
「……なるほど…」
『んん…しっくり来ておらんようだな。良いか、東堂庵は仮にも俺の実家なのだ。実家で肌を重ねて風呂に入ってみろ。家中 大騒ぎになり兼ねんぞ』
「え……い…い、一緒に入るの…っ…」
『その少し傷つくような 微妙な反応はよせ。そもそも既に何度も戯れている仲ではないか』
「そういう事は言わなくていいよ…っ…もう……」
彼は ふむ、と一呼吸置いたあと、部屋の外にある 露天風呂を指差した。
『だから こうして、客室付き露天がある部屋にしたのだ。どうだ、これでしっくり来ただろう』
そう言われても、急ぐ心臓を抑える事は出来ない。彼とは確かに肌を重ねて来た。しかし、それは暗がりでしかない。今はまだ夕方で、嫌でも身体の隅まで見られてしまうと考えると頭が沸騰してしまいそうだった。
それに、良く見ると露天風呂の
『さて。せっなくなのだ。食事の前に この絶景を眺めながら風呂でも入ろうではないか』
カチューシャを外し、シャツを脱ぎ始めた彼。恥ずかしさで顔を逸らすと、瞬間、何かが畳に落ちた音がした。ふと目を向けると それは、彼が胸ポケットに閉まっていた小さな手帳で。
「尽八、手帳落ちたよ」
『む…すまんな。…ッ…!…いや、ちょっと待て、名前、その手帳は!』
怪しい反応に 私は眉をひそめ、止められたがページをはらりと
「これ………」
それは何も怪しい物ではなく。彼の達筆な文字で日付と数字が並んでいる。飛び飛びの日付だが、一番古い日付は去年の夏、一年程前になっていて。数字の先頭に書かれたエンマークを見て合致が行った。
「バイトの日付…?」
『人の物を勝手に見るもんじゃない、全く』
頬を少し染めた彼は、私から手帳を奪うと旅行鞄のポケットに閉まった。
『高校時代は部活が主体で、バイトなど出来んかったからな。実家の小遣いではどうにもならん』
「……日付、インターハイが終わってから すぐの日付になってた……。もしかして、尽八、受験勉強の合間にバイトしてたの…」
『そうでもしなければ、こうした良い宿は取れんだろう。受験もあったし、大学に入ってからは講義の都合で 効率良く稼げなかった。そのせいで、お前への“埋め合わ”せも、こんなに時間がかかってしまったよ』
すまんな、そう苦笑して 彼は脱いだシャツが皺にならないようハンガーに掛ける。気付かなかった。私の知らない所で そんな事をしていたなんて。寂しい思いをしているんじゃないか、いつも側に居てやれず申し訳ない、いつもそんな風に言っていた。ふと、彼が発した埋め合わせという言葉に引っ掛かりを覚える。
『必ず“埋め合わせ”をする』高校時代に そう彼に言われたある日、私は軽い口調で「じゃあ 良いお宿にでも連れて行ってもらおうかな」そう言った事を たった今思い出した。途端に胸が熱くなる。
「尽八…」
ハンガーを掛ける彼の後ろ背にそっと手を回す。
「……ちゃんと連れ来てくれたんだね」
『何を当たり前な事を言うのだ、埋め合わせはすると言ったろう。…遅くなって格好つかないがな』
彼は振り返り、私をキツく抱き締めた。
『寂しい思いをさせた分、お前の言う事は 全て叶えてやりたいのだ』
「…何でも叶えてくれるの…?」
『ああ、何でもだ』
私は彼を見上げて、キスをせがむ。そうするとすぐに 唇が落ちてきた。何でも叶えてやりたい。それは彼の底知れない愛の全てが詰まった言葉だった。ふと何となしに口にした、自分でも忘れているような事を こうして必死に叶えてくれる彼が愛おしくて
離れた唇に向かって、私はぽつりと 小さな声で我が儘を言ってみた。
「お嫁さんにしてって言ったら?」
彼はその言葉に目を丸くしたあと、それはとても優しく 温かな目で笑った。
『だから 何でも叶えてやると、今言ったばかりではないか』
今にも涙が溢れそうな私の目尻に、彼の唇がそっと触れていく。