弱虫ペダル
name change
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熱い夏に始まるインターハイに向けた、過酷な練習が続いていた。一日一日、己の限界を突破するような命懸けの走りをする毎日。過酷なメニューは時に神経を研ぎ澄ませ、さらに精神力を高めていく。今年のインターハイ、俺は必ず 箱学を総合優勝させる。休むな俺の足。まだだ、まだ足りない。まだ、回せるだろ…!
――何だ この焦燥感。
『で…。特別メニューが何で ここなんだよ、塔一郎』
青い空、白い雲。それを綺麗に映し出す 真っ青な海。ここは 熱海サンビーチ。市街地でありながら、ヤシの並木が約400メートルにも並ぶ、まるで高級リゾートを思わせる海水浴場だ。カップル、ファミリー、どの年齢層も幅広く楽しめる。
「ビーチランニングは 身体への負荷が大きく、効率的に足腰を鍛えられるんだ」
「わあい、塔ちゃん、誘ってくれてありがとう! 海 凄い綺麗むだね、ユキちゃん」
『おう。綺麗だな…………じゃねえよ。特別メニューっていうから、ちょっと期待したのによ、そもそもクライマーに余計な筋肉は必要ねえんだよ』
俺が、声を大にすると、後ろからクスクスと笑い声が聞こえた。
「黒田くん、せっかくだし、楽しもう」
振り返ると、同学年でマネージャー、そして俺の恋人である名前が 水着姿で現れた。水色のビキニが、はち切れそうな胸を頑張って支えているのが目に留まり、慌てて視線を外した。
『つうか……何で名前まで居るんだよ』
「俺が誘ったんだよ〜。塔ちゃんと ユキちゃんと海行くから、名前ちゃんも行かない?って」
「誘ってくれてありがとう、葦木場くん」
「どういたしまして! ああ、名前ちゃん、その水着可愛いね〜、似合ってる」
「本当?嬉しい、ありがとう」
二人が親しく話すその姿に 少し胸がざわついた。葦木場が名前を誘った事に、他意はないと容易に理解出来る。それでも何故か身体がむずむずしてしまう自分がいた。
「ユキ」
ふと、塔一郎に呼ばれ うだる暑さの中、少々面倒くさ気に振り返る。
『なんだよ』
「実は 今回、海へ行こうと提案してくれたのは名前なんだ」
『は?』
聞けば、彼女の目に映る俺は このところ少し追い詰めた表情をしていたようで。インターハイに向け 休日返上で山を登るその姿が心配になり、一日くらいは息抜きをと 泉田に提案したのが始まりだそうだ。
「彼女なりに、ユキを心配しているんだよ」
『んな事 俺には一言も』
「ユキがインターハイに どれだけの熱を注いでいるか、彼女は知っている。だからこそ、自分の気持ちがユキの負担にならないよう、直接ではなく 影ながら見守りたかったんじゃないかな」
『……』
「恋人という立場で 自分が言えば、ユキがインターハイに掛けている熱に 水を差す事になる。きっとそこまで考えていたんだと思うよ。……ああ、彼女の提案っていう事は口止めされているから、表面上は僕の企画という事で オフレコでね。さ、今日は一日オフだ、楽しもう!ヒャッホー!」
そういうと、塔一郎は 足の裏に感じる 砂の感触を楽しみながら、物凄い勢いで ビーチを駆け抜けて行った。自分が海に来たかっただけなんじゃ…そう思う程 塔一郎の背中に見えるファビアンは もはやウキウキを隠せていなかった。
『あれ、拓斗どこ行った』
先程まで 名前と二人、楽しそうに会話を弾ませていた拓斗が消えている。俺の問いに、名前は眉を八の字にして答えた。
「なんだか、海の向こうで聞こえた汽笛が楽器みたい…って言って。目を離した途端居なくなっちゃって。あれ、泉田くんは?」
『塔一郎も、砂浜ん中に消えたよ。……ったく。どいつもこいつも。どんだけマイペースなんだよ』
苦笑し、深いため息を着くと名前は 嬉しそうに笑った。
「…!…良かった、黒田くん。やっと笑ってくれた」
『え?』
「最近、ずっと怖い顔してたから、ちょっと心配で。でも、今日は笑ってくれて………だから凄く嬉しい ありがとう」
俺の表情一つで、子供のように屈託の無い笑顔を見せてくれる彼女に、やれやれと肩を落とした。
『何で、笑っただけで お礼言われなきゃいけねえんだ………ほら。行くぞ、泳ぐんだろ、一緒に』
「…うん!」
伸ばした掌に、彼女の柔らかい手がふわりと触れる。瞬間、この感触が 久しぶりだという事に気付いた。
――あれ。俺。最近 自転車ばっかで、名前に触るの いつぶりだ。もしかして……。
彼女は いつも俺と居る時間より、俺がペダルを回す時間を優先してくれる。いつの間にかそれに甘え、気付けば彼女と触れる事を後回しにしてしまっていた。
そんな彼女が、俺との時間を作って欲しい、なんて 今まで一度も言った事はなくて。きっと、塔一郎の言う通り、インターハイに掛けた熱に 水を差すまいと いつも一歩引いた所から、俺を見守ってくれていたのだ。
『名前…』
「なに、黒田くん」
胸が熱くなり、繋いだ手に力が入る。
『その………悪い。最近、名前との時間、全然取れてなかった』
あ然とする彼女は、少しの空白のあと、それは嬉しそうに笑った。
「ううん。私、黒田くんが自転車乗ってる姿、好き。でも、自転車から離れた黒田くんも、たまには新鮮でいいかも」
『…………どうせ海パン似合わねえよ!』
繋いでいた手を離すと、彼女は楽しそうに「誰もそんな事言ってないよ」と俺の背中を追いかけて来た。
「わ、黒田くん何それ 風船?」
『海の家で レンタルしてき来た。どうせなら、こういうの あった方がいいだろ』
レンタルしたのは パンパンに空気が入った バルーン。ただ泳ぐのも良いが、遊び道具があった方がより楽しめる。良く分からない 子供が見るアニメキャラが描いてあるのが気になるが、これしかなかったので仕方がない。海に入ると 押しては引く、心地良い波が足をするすると通り抜けた。
「思ったより冷たいね」
『ああ、でも すげえ気持ち良い』
海なんて何年ぶりだろう。純粋に何かを楽しんでいた自分が どこか遠くに行ってしまったように感じ、少し切なくなった。
「おーい 黒田くん!いくよ」
『え…お、おう!よし、こい』
難しい顔をしていた俺に気付いたのか、名前は空気を切り替えるように、勢いよくバルーンを飛ばした。
冷たい海水で包まれた身体は 重力のないように浮いて、水しぶきが跳ねるバルーンが、太陽に照らされている。今まで どこか忘れていた、この久しぶり感じる純粋な楽しさ。俺は頭を空っぽして彼女とバルーンを楽しんだ。しかし、何度目かのバルーンを飛ばした時、異変に気付いた。彼女の水着のトップスが緩んでいる。きっと後ろの紐の結びが甘かったのだ。周りを見渡すと カップル、家族連れは勿論だが、男もいる。俺は慌てて彼女の元に泳いで近づいた。
「どうしたの、黒田くん。もう上がる?」
紐が緩んでいる事態に気付いていない彼女が、恥ずかしい思いをしないよう、そっと耳元で呟いた。
『馬鹿 違げえよ…! その、水着の上のやつ。多分 紐緩んでる』
「え、嘘…どうしよう。ちゃんと結べてなかったのかな…」
案の定 赤面しながら わたわたと焦る彼女。しかしこれ以上 動けばトップスがズレ、彼女の たわわな胸が溢れてしまう事は必至。俺は少し考えたあと、彼女の前で腕を伸ばした。
『名前、来い』
「えっ…」
『いいから。俺に抱きついて背中に手回せ』
紐が取れ、彼氏に結んで貰っている所を 誰かに見られるなんて 名前が恥ずかしい思いをするだけだ。周りには自然にハグしているように見せ、さっさと結んでしまおう。恋人なんだし、ハグくらいなら当たり前にする、何も おかしくはない、はず。
「…うん」
彼女が俺の身体に身を寄せ、おずおずと細い腕が背中に回される。ぴたり 身体が触れると、熱い互いの体温が すぐに伝わった。本当に、こうして触れる時間すら取れていなかった事に 自分でも驚く。……離れたくない。
「黒田くん、ま…まだ?」
水着がもっと複雑な作りなら もう少しこうしていられたのに…なんて男の欲求を丸出しにしたような考えを巡らせてる合間に、あっという間に 紐は結び終わっていて。
『お、おう。これで 大丈夫っと』
そうして 緩んだ紐を固く結び終わった 次の瞬間。
「ああ!ユキちゃん!? 何やってんの」
「ユキ……君って奴は……!公共の場で何をガブガブやっているんだ!」
そこには先程、勢い良く 砂浜へとビーチランニングに駈けていた塔一郎と、汽笛の音に誘われた拓斗が 二人揃って海に居た。まだ彼女を胸に抱いていた状態の俺は、慌てて声を大にする。
「バッ、カ!…拓斗、何もしてねえよ! つうか塔一郎!荒北さんじゃ ねえんだから 俺はガブガブしねえ! ほ、ほら名前、お前も何か言え!」
彼女にも弁解させようと背中を押したが、この状況を理解したようで、可愛気があるも 意地の悪い顔をして笑って見せた。
「黒田くんに抱きつけって言われちゃって」
「ユ、ユキ…!…やっぱり、ガブガブしてるじゃないか!…なんて破廉恥な…っ」
「ユキちゃん えっちな事はお家でやらないとダメなんだよ〜!ねえってば〜!」
当たり前だが、彼女の一言で 二人は大騒ぎ。拓斗は俺の身体をぐらぐら揺さぶり、塔一郎の説教が鼓膜を刺激する。煩くて堪らないはずなのに、何故か笑いが込み上げた。
――あ…。何か、軽い。
ふと 肩の力が抜け、感じていた焦燥感が 消えている事に気付く。そうだ…何故 この頃一人で焦って 自分を追い詰めていたのだろう。馬鹿な事で笑い合ってくれる二人が居て、こうして側に名前が居て、大切なチームがあって……。
そうか、一人では行けないんだ、チームで。チームでインターハイへ行くんだ。
「あ、黒田くん、笑ってる。嬉しいな、ありがとう」
二人に責められながらも、笑っている俺を見て、彼女は嬉しそうに呟いた。その目は優しくて、温かくて。そんな目で いつも俺を見守っていてくれたのかと思うと、胸が熱くなった。
『叶わねえな、お前には…』
彼女の笑顔を見て、柄にもなくこんな事を言いたくなる。
――いつも笑って 側に居てくれて、ありがとな。
『たまには、こんな日曜日も 悪かねえや』