弱虫ペダル
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初夏の匂いがした。まだ蕾だと思っていた桜は、気付けば大きく背伸びをするよう
「名前」
最近の日本は異常気象と言っていい程、手が
「真護、どうしたの」
放課後の部活中。まだ周回が始まってすぐの事だった。相変わらず無駄のない走りでTREKを軽やかに進ませる金城が、ペダルを踏み込む脚を止め。ドリンクや補給食の準備をする私の元でブレーキを掛ける。
「ドリンク足りなかった」
「いや、それは問題ないさ」
それは明らかに、他に問題があると察するに早い物言いだ。金城は、薄く汗のかいたこめかみを指先で払い、サングラスを外す。私が首を傾げた矢先、その裸眼である視線の行先は、たった今。目の前を颯爽と駆け抜ける彼へ向けられて。新緑の葉がちらちら舞う中、同色に近い玉虫色の髪の毛を左右に揺らしながら走る彼の姿は、何度だって見惚れる程。目で追うのも束の間、白色のTIMEを前へ進ませる繊細な車輪の音も、既に小さく遠く在る。ふい、静まり返った所だ、風音が枝の葉を鳴らす静寂に、隣に立つ金城の声が響く。
「巻島のタイム、どうなってる」
「どうって……特にいつもと変わらないわよ」
私は首からぶら下げているストップウォッチに視線を落とし、書き写したノートと照らし合わせる。少しでも体調に異変があるならば、普段との時間差は顕著に表れる物。そんな時はすぐにでも脚を止めさせて、どこか具合の悪い所がないかしつこく聞いたりもするが。記録ノートの何枚かを過去分まで
「裕介、どこか体調悪いの。ごめんなさい私、タイムに問題がないから、全然気が付けなくて」
三年間、総北高校自転車競技部でマネージャーを務めている身。初めは勿論、選手の小さな変化に気付かない事だって沢山あったが、学年が上がるに連れ、癖や多少の変化、体調面も大概は察しが付くようになって来たと言うのに。まだまだ勉強が足りない証拠だと、こうしてたまに痛感する。分り易く肩を落とした私に、金城は落ち着いた声色でフォローを入れてくれるのであった。
「いや、体調は特に問題なさそうだ。隣で走っていても、殆どいつも通りの走りをする。ただ」
「ただ…」
「少し、表情が辛そうでな」
「……」
「体調が悪いならタイムに影響すると思ったが、そうじゃないようで安心した。引き続き、サポート頼む」
「………あ、うん、分かった。真護も良いペースよ、そのまま頑張って」
金城の言葉に引っ掛かりを覚え、聞き返したい気持ちが手前にあるが、今は部活中だ。インターハイを控える彼等の貴重な時間を割く訳には行かない。金城は再度ペダルを踏み込むと、「ありがとう」と短く返しては 照り付ける太陽の元。サングラスを充ててその背を見えない遠くへ運んでいく。――“表情が辛そうでな” そんな一言が、胸をきつく支配していくのだ。空は快晴なのに、心中には分厚い灰色の雲が覆っていく。
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「裕介、お疲れ様」
『悪い、待たせたッショ』
「ううん、平気、帰ろっか」
部活後、陽が落ちると少しばかり肌寒くて。周回を終えた彼の額にかいていた汗も、すっかり跡すら消えている。白色のTIMEを押す彼の隣を歩けば、冷えた風が頬をすり抜けて行って。ちらと横目で見上げると、艶やかな長い髪の毛がゆらゆらと揺れるのだ。車輪がゆっくり回り、軽音を夕刻に鳴らしていく。
「ねえ、答え辛かったら、無理に話さなくたって良いんだけれど」
『あ』
「……裕介、どこか具合悪いの」
ぴたり、彼の脚が止まる。二度目に吹いた細い風が、長い髪の毛を横に流していくと。彼はその細い指先で髪を
『クハッ…格好悪い。なんだ、全部、お見通しって訳か』
苦笑を溢した彼の表情は、辛そうで、悲しそうで、苦しそうで。違う、違うのだ、お見通しなんかじゃない、全然、全然、何も。これっぽっちさえ解ってあげられてなど居ないのだから。次の言葉が浮かばずに喉奥からの声を詰まらせていると、彼は小さな溜め息を一つ漏らしては、夕暮れの帰り道に静か、語り掛けるのである。
『凄え悪いみてえでよ、心臓の具合。
「……え」
情けなく
『お前が近くに居るとさ、柄にもなく緊張するっつうか……まあ、なんだ、参ってる所だ』
「……」
『学校ですれ違う時も、部活で走る姿見られてっ時も。付き合う前以上に、無駄に意識しちまってよ』
ペダル回してる時も、心拍が異常に速くなって疲れる、そう溜め息混じりにこの耳に届けば。胸に刺さった鈍い痛みは、冷たい針なんかじゃなく、何とも温かい痛みだと知る。途端、彼の身体に異常がない事、どこも具合が悪くない事、それを理解したと同時、強張っていた肩が安堵で落ちる。
「良かった……」
『いや、何も良くねえッショ。今の俺の話し、聞いてたか』
見上げた白色の頬が赤に染まっているのは、夕陽の所為なのか、はたまた別の理由か。後者なら、嬉しくて堪らなくなる。無意識に、私の口角が上がっている事に気付いたのだろう。彼の細い眉が小さく震えた。
『名前はよ、こういう気持ちになんねえの』
ならない訳がない。今だって、嬉しくて仕方がないのだから。彼が言ったよう、学校ですれ違えば胸が甘く締め付けられるし、部活中に魅せる繊細な走りを目にすれば、どこまでもその背中を瞳で追ってしまう程。ただ、インターハイを目前に 浮かれた気持ちを部内に持ち込みたくはなくて。上がる気を押し込んでは、必死、悟られないようにしているだけなのだ。そうして彼の問いへ、首を横に振った時。
「……私は、」
瞬間、瞳の前に広がるオレンジ色の夕刻が、艶やかな玉虫色と、濃い影に覆われる。細く長い指先に顎を捉えられ、軽い力で引かれれば、互いの唇が触れ合うのだった。突然のキスに驚き、咄嗟に寄せられた彼の胸板を両手で押すも、びくともしない。薄い身体の癖、目の前に居るのは、れっきとした男性なのだと思い知らされる。
「ゆ、…裕介っ、…待っ、…」
『あんま余裕そうにすんなって。俺ばっか好きみてえで、凄え焦る』
「――…」
離れた唇は、まだ彼の熱が残っていて。熱くて、熱くて、どうしようもない。直線に重なった視線の先は、その殆どが
『頼むからよ、早くお前の頭ん中、俺で一杯にしてくれ』
「……裕、介」
そんな事はとっくの昔よ、そう伝えようとした唇は、既。彼のそれで塞がれていた。