弱虫ペダル
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ようやくと、首元から厚手のマフラーと、両手をしかと覆っていた毛糸の手袋が肌から離れた。それでも、時折吹く冷たな風が、指先を通り過ぎては、その皮膚を赤色に染めてゆく。こんな事なら、季節感など特に無視して 手袋くらいは
『名前、放課後、空いてっか』
「…空いてるも何も、部活も引退したんだし」
熱く芯を滾らせた、三年間の記憶。脳内に蘇えるそれは、未だ鳥肌が立つ程鮮明。どの記憶を辿って掻い摘んでも、灯を宿していない日などまるで無い。苦しくも、熱く、確かな光に包まれた三度目のインターハイが幕を閉じたあの日から。突き付けられたのは 逃れようのない受験勉強。さながら、インターハイの緊張感を彷彿とさせた物。
「受験も終わったし。それで」
たまたま登校時間が重なったのだ。昇降口から繋がる下駄箱で、長年使い古された上履きに脚を通すと同時、そんな当たり前の事を聞いてくる彼へ 思わず苦笑が溢れる。行く先々は別となるが、手に汗握り互い乗り越えた受験勉強。部活も、受験勉強も終え、バイトさえ無い身だ。放課後の予定なんて、スケジュール帳が真っ白なくらいに空いている。履き古し徐々に伸びて、ほんの少しサイズが合わなくなって来た上履きの爪先を床に落とす。
「空いてるけど、どうしたの」
『…放課後よ、ちと出掛けねえ』
「良いわよ。あ、教室で金城と会うし、ついでに伝えて置こうか」
同じく自転車競技部であった金城とは、クラスメイトでもある。メールで誘うくらいなら、直接声を掛けた方が 誰だって嬉しいし、気持ちが良いはず。私が彼の返答を待たずして、自身の教室へ向かおうと身を返した時。
『いや、金城は抜きで…』
「え、………ふ…二人で」
『二人で』
唐突にも。デートを思わせるようなそれは、勘違いもいい所。恐らく、特段考えなしに気紛れと誘っているに違いない。一瞬でだけ跳ねた心臓を無理矢理沈めては、平常心を装い「オッケー」と軽々返したかったのに。見上げ、重なった視線の先に立つ大男が、寒さの
『じゃ、放課後。校門で待ってる』
「ちょ…田所…、」
言い残された言葉と、早々と自身の教室へ向かう彼の広い背をただに見送った私は。
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「おはよう、金城」
「名前、おはよう。……今日、少し遅くないか、もうすぐ本鈴が鳴るぞ」
「…え……とね。そう……寝坊、寝坊しちゃって」
放課後、彼に二人きりで出掛けようと誘われた事は 何となく云いづらくて。苦し紛れの言い訳は、勿論、金城の首を傾げさせるも当然である。それでも、それ以上に話を広げるのは無粋、とそんな考えに及ぶ彼は紳士であり、さすがと言えよう。安堵と共、窓際の自席へ着こうと 金城の真横を通り過ぎる矢先。ふと何かを思い出したかのよう、落ち着きのある短な声で引き止められるのだった。
「そうだ、これ。忘れないうちに渡してもいいか」
「なに」
通学鞄から取り出されたのは、なんて可愛気に包装してくれたのだろう。桜色のリボンが目を引く 女性らしい小包。良く見れば、小さなシールで“HAPPY WHITE DAY”とプリントされている物だから、素早く合致がいった。
「嬉しい、友チョコだったのに。わざわざありがとう」
「わざわざ“友チョコ”を強調しなくても、義理だって知ってるさ」
「ごめんてば」
「中は、ハンドクリームだ。香りは好みがあるだろうし、無香料にして置いた。良ければ使ってくれ」
驚いた。何故、私の欲しい物をぴたと当てる事が出来たのか。聞けば、今日よりもっと寒い日。毛糸の手袋を嵌めた指先が、幾つクリームを塗っても乾燥する、ハンドクリームは必需品、などと。半ば独り言のよう発した何気ない声を 忘れず覚えて居てくれたらしい。丁度、手持ちのハンドクリームが底を尽きそうで。新しく購入を検討していた所、タイミングを図ったかの如く贈られるとは。
「今日から使うね、本当にありがとう」
「どういたしまして。そう言や、田所にもチョコを渡したろう」
瞬間に飛び出した名前に心臓がぴくり反応した。金城は、「お返しは期待しない事だな」そう苦笑する。確かに、色恋沙汰のイベントに関してマメな印象は余りない。しかし、そんな彼から放課後 二人きりで出掛けようと誘われているのだ。金城の言う“期待”を微か、意識してしてしまう私は。無意識に上った頬の熱を無視して、本鈴と同時、
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放課後は、癖で部室へ向かってしまいそうな所。首を横に振っては彼と待ち合わせた校門へ向かう。最近は春の訪れか、陽の伸びも著しい。この日は五限目で授業を終えたのだが、見上げた空は 雲一つない快晴を維持している。
『名前』
上ばかり見上げていた
「待たせてごめんね」
『全然』
「…で、
そうなのだ、肝心の行き先を聞くのを忘れていた。朝に声を掛けられた時は、驚きが勝りすっかり聞きそびれていて。結局、一日を通して彼に会う機会も無かった事から、何処へ向かうか未だ解らずに居る。すると見上げた先、体躯の良い彼は 少しばかり声を詰まらせ、ようやくと行先をこの耳へ告げる。
『すぐそこに、アイス出してる路面店があんだよ、キッチンカーの』
「ああ、そう言えばあるわね。でも、どうして」
寒い日に、暖かい部屋でアイスを食すのは至福の一時だ。しかしまだ冷える空の下、何も歯に染みるような冷たいアイスを好んで食べるとは、一体どういった心情だろうか。確かに甘い物は好きだし、連れて貰えるのは嬉しい。だが、こんな冷えた日は 悴む指先の乾燥だって気になる訳で。出来れば暖かな屋内で過ごしたい物。そう首を傾ぐ私へ、彼はその瞳を丸くさせては。何を当たり前と言わんばかりに応えるのだ。
『ソフトクリーム』
「…え」
『言ってたじゃねえか、“ソフトクリームは必需品”って。喰いてえんだろ』
「………」
『ホ、ホワイトデーのお返しに……連れてってやるっつってんだよ』
――…“幾つクリームを塗っても乾燥する、ハンドクリームは必需品”
なんて。なんて可愛い聞き間違いなのだ。それでも、誰に言ったでもない独り言を こうして記憶に留めてくれている事が、嬉しくて、もどかしくて。胸が静かと締め付けられる。堪らず私が吹き出すと、彼は眉間に皺を寄せ、怪訝な表情を浮かべるのだ。駄目だ、ここで、本当の事を言ってしまえば、彼の気持ちをないがしろにしてしまうも同然。
『要らねえってなら、………別にいいけど』
「ううん、凄く嬉しい、田所、ありがとう。ね、早く食べに行こ」
『おう、凄っえ、デケェから、心して喰えよ』
「ええ、大きいって、どのくらい」
快晴の空下をゆっくり、歩幅を合わせて歩き始める。私の問いに、彼は天を見上げ、なにやら探しているようだが。それは、どうにも見つからない物らしい。
『今日はねえけど。そうだな、夏のインターハイで見た、入道雲みてえに。とにかくデケェ、ソフトクリームだ』
縦に長く、大きいソフトクリームを買ったなら、この青い空に たった一つだけ。特別で、とびきりな雲を浮かべてみたい。――…足並みは、とっくに揃っている。