弱虫ペダル
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ファーストキスは 好きな人と、思い出に残る場所で、特別な香りの中、記憶から消せない言葉が欲しい。そんな夢を見続けていたら、目まぐるしくも季節は巡り、あっという間。自由勝手に描いた儚い想像は、いつしか輪郭のぼやけた物へとなっていた。誰だって、初めては大切にしたい物。高校入学当初は、少しばかり大人になれた気がして、きっと理想通りに物事が進むと信じていたのだ。しかし、周りの友人やクラスメイトの女子たちは既、恋人を作ったり、別れたり、作ったり。
「ねえ、金城」
恐らくは、恋人同士、幾つかの段階を踏み、ファーストキスどころか、何回、何十回だって、私の知らない経験を重ねているに違いない。以前だ、高校三年に上がったすぐの頃。未だ恋愛経験のない私の相談に乗ってくれた友人がいて。恥しながらも、頭に思い描く事柄を控えめな声で話しをすれば「理想が高いんじゃない」と苦笑されてしまった事があった。その時からか、周りに取り残されているような少しの劣等感と、理想を成就させたい気持ちが混沌とし始めたのは。
『どうした』
描く理想のハードルを落とせば、きっとこの高校三年の間で、誰か私を想ってくれる人と恋人同士になれたかも知れないのに。どうしても諦めきれないのは、彼。総北高校自転車競技部の主将である 金城の姿を間近で見続けて来た事も、理由として大きい。異名、“赤道の蛇”と称されるそれは、不利な状況でも絶対に諦めない不屈の精神力から付けられた物である。別に彼の
「キスって、した事ある」
『随分と急だな』
部活前、誰よりも早く部室へやって来る彼は。私がドアを開ける直前、既にユニフォームへ袖をしており、もはやいつでも走りに行けるよう、その瞳はサングラスに覆われている。他の部員が来るまで、まだ時間がある事だ。彼ならば、少しの苦笑を漏らすことなく、耳を傾けてくれるだろう。もう、笑われるのには十分懲りた。
『その感じだと、割と真剣な話しか』
「……そうね」
『他の奴に聞かれたら、
彼もまた、三年間、傍で私を見て居てくれた。変に茶化したり、誂ったりが得意としない事など、了知である。彼は普段身に付けている眼鏡を丁寧にケースへしまい、ロッカーへ預けると。まだ、他の部員が来ない事をドア先へ目配りしては。いつ聞いても心地良い、落ち着いた声を響かせるのであった。
『ないよ』
「本当に」
『嘘付いて、どうするんだ』
「だって、金城モテるから」
疑いの目と、唇を尖らせる私の表情に、彼はおかしそうと吹き出す。事実、彼はクラス、学年内外でも人気があるのだ。知的で落ち着いているし、空気を読んではたまに冗談を言って場を和ませたりも出来る。自転車で忙しいと言えど、そんな彼が三年間、全くの経験がないなんて、信じ難い。
『名前の方がモテてるさ』
「フォローは要らないってば」
『本当だ。俺のクラスの奴からも、マネージャーを紹介して欲しいと何度か声をかけられた事があったよ』
彼も、嘘を付いたり、人を誂ったりするような人柄ではない。もしそれが本当なら、何だか心がむず痒く、自然と身体も火照りだす。しかし、ふと、気になる事が一つ浮かんだ。
「ちなみにその時……金城は、なんて応えてくれたの」
途切れ途切れの頼りない問い。応えは明らか。紹介が無い、という事は彼がその場で断ったに違いないのだ。恐らくは、彼の瞳に映る私は、ただの魅力の欠片もない、紹介にすら値しない女子であるという事実。聞かなければ良かった、そう前言を撤回しようとした時だ。開きかけた声を遮るようにして、彼の言葉が流れてくる。
『うちの大事なマネージャーは、俺が認めた相手にしか紹介しない』
「――…」
『そう言ってやった』
堂々の中に、含んだ笑みを覗かせ放たれたそれは。どうしてだろう、心臓の鼓動を早めさせる。仮に紹介が面倒だからという彼なりの断り文句だとしても、はっきりと耳に届いた言葉は、恥ずかしさと共、喜々さえも浮かぶ程。
「…………あり、ありがとう」
『どういたしまして』
火照りの上った頬を隠す為 俯くと。彼はふと前述の話しを思い出したようで、『さっきの話に戻るんだが』と瞳に乗るサングラスのブリッジへ指を掛け、ずれもしないその位置を直した。
『キス、したいのか』
短な言葉なのに、私だって同様の言葉を口にしたはずなのに。何故、自分が言われるとこうも羞恥に襲われる。先、私が問い掛けた際、彼は特に臆することなく応えていた。やはり、キスの一つや二つ、経験があるのではと疑ってしまう。部室の時計の秒針だけが空気を刻む中。暫くの沈黙の末、私は私の理想とする物を彼へと話すのだ。掌が徐々に汗ばんでいく。笑われないだろうか、理想が高いなんて言われてしまわないだろうか。そんな想いに吐き出した声を、彼は一言も遮らず、ただに静かと聞いてくれている。そうして、全ての内を晒けた時だ、彼は柔らかな笑みの中に真剣な瞳を寄せては。
『俺は共感する』
「本当」
『ああ。そもそも特別な物なんだ、全部が理想通りじゃなくても、初めては一度きりしかないからな』
重たな胸の詰まりが、さらさらと軽さを帯びていく。話す相手を選んで正解だった。これでまた、描く理想がぶれずに輪郭を留めていく事だろう。そうしていつしか、描いたそれに近い、初めての経験をしたい物だ。――…いけない、そろそろ、他の部員が部室へ到着する頃。私の恋愛相談はこの辺にして、頬の赤を勘付かれないよう、いつも通りに振る舞わなければ。未だ火照る肌を はたはたと掌で仰いでいる最中。
「金城、」
とうに走る準備を済ませた彼が、瞳を隠しているサングラスを離すのだ。一定の距離を保っていた二人の間は、彼の歩みによって縮められて行く。
「どうしたの」
おかしい、心臓が
「ねえ、金…、…城…」
『さっき言った通りだ』
「………え」
『――…うちの大事なマネージャーは、俺が認めた相手にしか紹介しない。ちなみに』
指先が離れても尚、充てられた温もりが消える事はなかった。触れたのは指先なのに、唇じゃないのに。皮膚に埋まる心臓が足早に駆け、頬をより一層と熱くさせる。そうして、私の唇を離れた指先の行く先は、彼自身のそれ。なんて、大事そうに充てゆくのだ。
『“俺が認めた相手”は、今のところ。俺以外、居ない』
“赤道の蛇” ――…諦めの悪さなら、私が一番良く知っている。間接キスの次は、恐らく。彼は前述の理想を叶えようと、絶対的遂行を試みるだろう。サングラスを外したその瞳が、燃える焔を宿している。