弱虫ペダル
name change
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『名前ちゃん、ごめんね、痛いよね』
「ううん、平気…、」
『優しくするから、絶対』
「……ん」
瞳の前に在る、厚い、厚い胸板。中途半端に
「……塔一郎くん」
『いいかな』
声の代わり、睫毛をただ一度降ろして合図をする。瞬間、彼の指先が動くのだ。同時と感じる微かな痛みに、眉を潜めると 終始不安気な表情で覗いてくる物だから、気に止めぬようにと作り笑いをした。――…決して彼が不器用な訳ではない。予想打にしていなかった事柄、それは。
『駄目だ、全然取れる気配がしない』
「ごめんね、まさか絡まっちゃうなんて」
厚い胸板が大きく上下し、深いため息を漏らす。状況は意外と簡単だ。烈しく身体を動かした部活後、主将である彼へ選手の周回タイムを報告しに行く途中。大きな背中が目に止まったものだから、胸に記録のノートを抱え 後ろを駆けたのだ。足音に気が付いたのだろう、ふいに立ち止まり、振り返った彼と 猛進する私がお見合いになるような形でぶつかって。勿論、彼は 咄嗟に私の身体を支え、筋肉隆々の腕にこの身を抱いては 転倒を未然に防いでくれた。しかし、ぶつかった時だろうか、それとも、胸にきつく抱き寄せられた時だろうか。まるで狙ったかのよう、風に
「私が走って追いかけたりなんてするから」
『名前ちゃんは何も悪くないよ、僕が急に振り向いたり……だき………抱き寄せたりしたから』
「――……」
『だと思う…』
相変わらず絡まったままの髪の毛とジッパー。二人の間の距離は、ほぼ皆無に等しい。瞳の前には、透明な汗が湧く、逞しく並んだ胸板。そうして、頭上から細いため息が降ったあと、もう一度と。彼は指先を自身のジッパーに充て、絡んだ毛を丁寧に解いて行く。多少引っ張られる感覚が頭皮を刺激するが、酷く優しく扱ってくれる為、
「ねえ、塔一郎くん」
『なんだい』
「私、切っちゃってもいいよ、髪の毛」
もはや どう絡まってこうなってしまったのか、解こうにも解けない有り様。厳しい部活後、疲労の溜まる彼をこのままにしては置けない。汗だってかいているし、放おっておけば、冷えて風邪を引いてしまう可能性だってある。手っ取り早い事は、私の髪をこのジッパーの手前で少し切り落としてしまえばいい。ただ、それだけの事なのだ。すると、私の提案に目を丸くした彼は、勢いよく、その首を横に振るのだった。
『そんな事出来るはずないよ、こんなに奇麗な髪を切るなんて』
「でも、そうでもしないと」
『せっかく艶々で、サラサラで、良い匂いだってするのに』
「…ありが、とう」
『とにかく、僕が何とかするから』
目力に気圧されて、あとは何も言えなくなってしまった。取れる気配のない髪は、何処からともなく吹いた風に、毛先がゆらゆら揺れている。――…ぴたり、風が止むと耳に届くは。真剣な瞳に奇麗整う長い睫毛、深く落ち着きのある息遣い、触れそうな程近くにある胸の躍動音。普段、こんなに距離が縮まった事などないのだ、近づいて初めて分かる彼の匂いに、頬の熱が上がる気がして。時刻は丁度夕暮れ時、夕日が頬を照らしてくれているお陰で、上がった体温に気付かれず済みそうだ。
『…ん、どうしたの、笑ったりなんかして』
心中の安堵が笑みとして表情に現れていたらしい。口角を上げた私に気付いた彼が、その長い睫毛と共、視線をくれる。
「ふふ、もし、もしもね」
『うん』
「このまま、ずっと、ずうっと、取れなかったら、どうするのかなって」
考えてたの、と言葉を繋げる。照らす夕日の角度の所為だろうか、目の前に在る逞しい胸板が、ぴくり小さく跳ねたような気がした。見上げると、こちらもまた。髪の毛とジッパー同様、互いの視線が合わさって、絡まって。――…何を言ってるのだ、私は。真剣に応えを導き出そうとする彼は、顔に出さないだけできっと頭の中で困惑している。部活後、疲労が溜まった脳内をさらに疲れさせるなど、マネージャー以前。前言を撤回しようと唇を開きかけた時だった。風に紛れた彼の息が、心地良い音となってこの耳へ届く。
『そうだな、さっき、“何とかするから”って言った手前、云いづらいんだけど』
「……」
『少し、嬉しい』
眉を八の字にし笑う彼の頬が、僅かと染まっているのは、夕日が照らす所為だろうか、それとも、別な理由だろうか。もしも、もしも、後者なら。
『もしも、このままずっと取れないなら』
――後者なら、私は。
『その時は、僕と――』
瞬間だ。長い長いリーチで風を切り、高らかな声を上げ駆けてくる部員が一人。「おおい、塔ちゃーん、名前ちゃーん」と、大きな掌を振っては 流れる汗を散らしこちらへ。
『ユキ』
「葦木場くん」
途端に空気が一変して。それは落胆なのか、はたまた緊張が解けた安堵なのか、自分でも分からない。
「どうしたの、二人共、そんなにくっついて、イチャイチャして」
『イ、イチャイチャなんてしてないよ、まだ』
“まだ”とは何なのだ、“まだ”とは。それじゃまるで、今後そういった展開に成る事を示唆したような言い方だ。葦木場と言えば、そんな彼の意味深な言動などは
「葦木場くん、凄い、ありがとう」
『助かったよ、ユキ、さすが器用だね』
匂いを強く感じる程に あれだけ迫った距離も、いざ離れてしまえば名残惜しく感じる物で。もしも、これが運命の赤い糸ならば、きっとここで解けたりはしなかっただろう。こうして簡単に、人の手によって離れたという事は、元より。彼と私の間に生まれる物は 何も無かったと言う訳だ。何となく冷えた心地に包まれていると、意識なのか、無意識なのか、恐らくは今、葦木場の脳内に。かの有名な音楽が響いて、流れて、熱く揺れている――…
「もしも、運命ならさ。一度離れても、また。繋がるよ、絶対」
夕日の所為なんかじゃない、染まった彼の頬。葦木場の言う通り、もしもこれが運命ならば。明日も同様、その広く逞しい背中へ猛進してみよう。転倒防止に抱き寄せる力強い腕が、互いの距離を縮めた時。それは、確信に変わるはず。