弱虫ペダル
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何故、寒い日。特に冬となると、やたら空腹を感じやすくなるのだろう。一説によれば、気温が下がると身体の機能を保つ為、基礎代謝が上がる仕組みになっていると言う。
「寒い…、」
夕刻から早々と陽が落ちて、まだ十七時だと言うのに 気付けば空は天体観測が出来る程。黒々、澄んだ空気になっている。この日は天気予報通り、午後から冷たな雪が降り始め。彼の所属する自転車競技部の選手たちも、外周ではなく室内のトレーニングに切り替えていた。室内トレーニングと言っても、外の練習と何ら変わらず、その過酷さには 寒さなど関係ない、殆どこめかみから汗が流れる程。
『名前さん、さっきからそればっかりですよ』
「仕方ないでしょう、悠人くんみたいに運動してる訳じゃないんだから」
先、流れ伝った汗を目にすれば分かる。エンデュランスで一時間強 三本ローラーを回し、十分程のレストを挟んだあと、またすぐにFTP九十%を維持し続けては、二十分間その脚を止める事はない。非常に上級者向けの、レース中に起こり得る変化を意識したトレーニング、さすがは泉田、主将を務めるだけ、綿密に組み込まれた練習内容である。
「悠人くんは、汗引いて 寒くなったりしない」
『俺はまだ平気です。動いたあとなんで。なんなら、まだ身体ぽかぽかしてます』
「いいな」
部活後、ケーブルや消耗品。オフシーズンへ入る自転車のオーバーホールをしにサイクルショップへ行く途中。丁度、ショップと私の自宅の方向が同じだったのもあり、成り行きのまま 家まで送って貰う事となったのだ。普段、部活の周回や、レース中、視線の端に映るのはほぼ一瞬。しかし今は、私の歩幅に合わせては ゆっくりと。自転車をからからと鳴らし隣を歩いている。ペダルを回して相手を挑発するような瞳は穏やかに消え、柔らかな表情浮かべる彼は。細く白い息を漏らすものの、ほとんど寒さを感じていないように笑うのだった。
『エネルギー足りてないんじゃないですか、単純に』
「お腹は 確かに空いてるかも」
選手のように練習中、補給食やドリンクを口にする事がない為、最後の食事は昼の弁当きり。ただでさえ冷え冷えする日、十分にエネルギーが足りなければ身体も寒さを感じて当然だ。ふと、アウターのポケットを探ってみる。記憶が定かなら、友人から貰った飴を無意識にここへ入れたはず。期待を持って取り出すも、指に触れるは中身の入っていないただの
『残念』
「ああ、何で ちょっと嬉しそうにするのよ」
『すいません、名前さん、ころころ表情が変わるんで。つい』
「別に変顔してる訳じゃないんだけど」
冷えた唇を尖らせ、細くした視線を向けると。彼は小さく吹き出しては、それを隠そうと口元を塞ぐ。
『違いますよ、可愛いなって』
短な言葉。それ故に、心臓に届くのも一直線。声は途端、熱へ変わり、流れた風で冷えた頬に体温を上らせる。顔の皮膚が熱い、きっと赤面しているに違いない。陽が落ちた外は暗く、微かに赤に染まった肌など、彼の目が捉える事など無いのに、何となく。顔を伏せずにはいられなかった。
「――…年上を、
精一杯捻り出した応えは、年上の威厳など皆無。暗がりでも、余裕のない声なんて、一瞬で勘付かれてしまう物だ。ふい、隣で自転車を押すからからとした車輪の音では無い、それよりもっと、別の。軽音をこの耳に捉える。
「……悠人くん、もしかして今、飴舐めてる」
『あ、気付いちゃった感じですか』
口角を上げる頬は、少し大きめの飴の形を縁取って 丸く肌を浮き彫りにしていた。歯に充たってからころ鳴る飴は、空腹の唾液腺をより刺激する物。すると彼は、先の私の同様に、アウターのポケットへ手を入れ探り。反対側のポケットも確認したあと。薄暗な帰り道に、その瞳を細めるのだった。
『これ、ラスイチだったみたいです』
すみません、そう付け加えられた言葉とは対照的。意地の悪い表情を浮かべる彼は、寒さに脚を早める事なく、私の小幅に合わせて歩いてくれるのだから、何だか憎めない。――…大きな飴と言っても、せいぜいカロリーは十五前後。部活中、補給食分の全てをエネルギーに変えるような烈しな動きは、その飴一つくらいで 到底賄える物じゃない。きっと、サイクルショップへ着く前には 凍え吹く風にそのカロリーも消えてしまっている事だ。
「ねえ、悠人くん。やっぱり私の事、家まで送らなくて平気よ」
『…は、何で、そうなるんですか』
垂れ目を大きく見開いた瞳の瞳孔が、気の
「思ったんだけど、あれだけ動いてて お腹空かない訳ないのよね」
『…』
「私、一人で帰れるから。悠人くんは、このままサイクルショップ寄って 帰った方がいいと思うの。ね、」
そうだ、これから箱根学園の名を背負い 堂々、選手としてインターハイへ出場を控える彼。マネージャーを家まで送る時間があるくらいなら、その身にしっかり栄養補給させたあと、根本となる基礎トレーニングでもしたい所だろう。空腹が過ぎると身体は 脂肪と共、タンパク質を分解してエネルギーに変える働きをする。せっかく日々、鍛え上げている肉体なのだ、マネージャーが選手をマネジメント出来ずにどうする。言葉を促したあとだ、静か、陽の落ちた薄暗な道。彼の転がす飴の音がその歯に充たり、軽音と共、冷たな空気に響かせる。
『名前さんて、結構、鈍いんですね』
「……え、」
するり。冷えた風に晒された、彼の指先が伸びては。私の頬に触れるのだ。過酷な部活後、やはり、まだ少し温もりが残っているのか。触れられた指先から微かな熱を感じ取る。充てられた指を辿り、彼を見上げると。今にもため息の一つでも着きそうな、そんな飽きれた瞳。
「悠、人くん…」
『あなたを家に送るのが、ショップにメンテ行く“ついで”なんて思ってません』
「あの……」
『“誂わないの”って言いますけど、俺。そんなん誰かれ構わず 可愛い、とか言わないんで』
「……」
『遅すぎ、気付くの』
触れられた頬が、熱い。彼の掌の温度なのか、はたまた私が、彼の言葉に赤面したのか どちらか定かではない。ただ、一つだけ言える事は、暗い、暗い、夜。もしかして枕に頭を付け、既、夢の中に居るんじゃないか、そんな浮かれた
「――…年上を、
それでも、夢ならば。こんな風に冷たな風を感じたりしないし、触れられた頬に熱を感じたりもしない。皮膚に埋まる心臓の躍動が早まって、鼓膜を揺るがす事もなければ、彼の口元から 飴の軽音が聞こえる事もないだろう。熱を以た顔を伏せれば、触れる彼の指先が、半ば強引に。私の顎先を捕まえ、真っ直ぐと視線を絡めてくる。寄せられる瞳は、段々に近付き、前髪同士が合わさる程。気付けば、息遣いを感じるまでに縮まった距離。飛び出しそうな心臓をいつまで抑え込む事が出来るのか、自分でも解らない。ふと吐息に紛れ、細く香るは、唇から漏れる飴の甘い匂い。
『ねえ、名前さん、俺。本気なんですけど』
――…この、重みのある甘い匂いは。
「――…蜂」
『蜜』
声が被さると、その香りは充てられた厚い唇によって、より深い味に変わって。子供がするような可愛らしいキスなんか通り越し、顎先を掴まれては、ぬるり。透明の体液を纏う大きめの飴が、彼の唇から この口内へと転がり渡るのだった。
「ゆ、うとく…待っ、」
『充分待ちました、なんで、』
甘い、甘い、蜂蜜味の飴は舌の上。直前まで、彼の唇にあったのかと思うと、頭が湧いてしまいそうになる。先程までの寒さは
『さっさと、俺の彼女になって下さい』
応えを出そうとした矢先。それはまたも、彼の唇で塞がれて。そうして声は暫く、行き場を失った。