警察編 ①
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諸伏から最後のメールが届いて、四日が経つ。最初連絡があったのは伊達からだった。私と松田と萩原に、一斉送信で四日後に会おうと。何を話すのかは分かっていた。彼らもまた、諸伏から例の連絡を受けたのだと思う。
――あの日から繰り返して見る夢は、妹ではなく冷たい諸伏の体を抱いていた。濡れた体と爪先、怖くはないだろうか、寂しくはないだろうか、寒くはないだろうか。真っ向から拒絶されたようなものなのに、諸伏のことばかり心配なのは妙な気分だ。
私は非番上がりに、集まりが恒例になっていた居酒屋へ向かう。道行く帰り道の学生も、駅の端でキスを交わすカップルも、飲み屋から聞こえる喧騒も、なんだか虚しく映る。踏切の音が、やけに大きく頭に響いた。
居酒屋にはすでに、公休だったらしい萩原がいつものように座っていた。松田はネイビーのスーツを着ていて、仕事帰りらしい。やや機嫌が悪そうにメニュー表を眺めている。私も軽く手を振って、松田の隣に腰を下ろす。
萩原は、特段何もなかったように声を掛けてくるけれど、気を遣っているのだと思う。その長い指先が、時折机の上をとんとんと叩くのが、彼の焦りのようにも見えた。
暫くすると、伊達がいつもより真剣な顔をして「よお」と顔を出した。それはそうだ。急に同じ所属からいなくなって、一番驚いたのは伊達だろう。彼が腰を下ろすと、最初に口を開いたのは松田だった。
「……本当に、警察、やめたのか」
悔しそうな、今にも怒り出しそうな沸々とした声色。常に気だるそうな彼にとっては珍しく、感情がそのまま声に乗って表れていた。伊達は注文を聞きにきた店員に、「生四つ」と軽く告げてから松田に向き直る。
「俺にも分からん。あのメールの翌日から、署に来なくなったことは確かだが……」
伊達は少し考えるように顎に手を置き、そこから先は言葉にしなかった。松田は軽く舌を打って、机の上に肘をつく。それから、私のほうに視線を向けた。
「お前、なんか聞いてねえのかよ」
「私、は……」
続いて沈黙してしまった私の姿に、松田はポケットから煙草を取り出した。萩原が苦笑しながら「ここ禁煙席」と咎めると、しけらせたフィルターを無理やりにケースの中に突っ込んだ。
迷った、彼らと会ったことを言うべきかどうか。彼らのやりとりを筒抜けにして良いものか。だけど、松田も萩原も伊達も、間違いなく諸伏のことを案じている。私だってそうだ。
「あ、のさ……」
少したどたどしく、私は先日の経緯を話した。諸伏と降谷のこと。彼らが交わした会話と、キス――のことは言わなかったが、諸伏と交わした会話。話しているうちに泣きじゃくった思い出がぶり返して、目の奥をツンと熱くした。
諸伏が言ったことを思い出すと、まだ少し声が震えた。自分でも、そこまでショックだったのかと気づいたのはその時だった。
彼らは茶化すことなく、私が話終わると同じ頃に運ばれてきたジョッキを囲んで、暫く黙っていた。全員が黙った席を、店員が少し不可解な表情で眺めていく。ビールの泡が半分ほど消えたころに、伊達が言った。
「――……正義の味方、か」
ぽつりと、伊達が呟いた。そして三人は真っ直ぐに視線を合わせると、一つ小さく頷く。私には彼らの予想のつきようが何か分からず、その真剣な顔をぐるりと見回すだけだった。
「諸伏の行方が分かったわけじゃないが……降谷のほうは――」
「警察官をやめたわけじゃないみたいだね。その言い方だと、それで諸伏ちゃんは何となくそれを察してたんだ」
「交友関係を断って、警察官を続けるような場所。んでもって、成績優秀な奴がスカウトされそうな場所だ」
次々と討論のようなしゃべりだす彼らを、私は視線だけで追った。伊達が、声を潜めて言う。喧騒に溶けるような、囁くような声色で。しかし私の耳にはそれらをすり抜けて、大きく響いて聞こえた。
「サクラだ」
サクラ――警察庁警備局公安課。聞いたことはあった。同期たちの間でささやかれていたものの、殆ど都市伝説のように聞き流していたので、あまり意識したことはなかったが。秘密警察というイメージはあるけれど、詳しいことはよく知らない。降谷が――サクラ?
「コードネームは常に変わっているから、今そう呼ばれているか定かじゃないがな」
なら、彼が姿を消したのはそういうことなのか。そう理解した途端に、涙がぐっと込み上げてきた。降谷は言っていた。「捨てられないものがある」と、諸伏に言っていた。もしかして、サクラに入るに当たって――ということなのだろうか。
だとしたら、あの時私を捨てられないと言ったのならば。
私が彼の邪魔をしているということも衝撃だったが、それ以上に、諸伏は私を捨てたのだと分かってしまったからだ。「捨てられないもの」を、彼が捨てたのだと思ったからだ。――感情が混乱した。私がそれほど大切に思われていたということに対する喜び、彼が決意をしたことに対する僅かな感動、そして、もう戻ってこないのではないかという悲しみ。――好きな人が遠くに行ってしまったという、寂しさ。ぽろっと一粒涙がテーブルに落ちたのを、他人事のように見守っていた。
「泣いてんのか、お前」
松田が驚いたようにこちらを向いた。その言葉に、伊達と萩原がばっとこちらを振り向く。慌ててそのテーブルに落ちた水滴を誤魔化すように手拭きで拭った。松田が珍しく、その掌を優しく背中に乗せた。諸伏とは違う、私より余程暖かな手だった。
「一生会えないわけじゃねえ。泣くな」
「……うん、わかってる、けど」
いつもはヤンチャな声色をしているのが妙に穏やかで、それが尚更に私の涙腺を緩くする。確かに一生会えないわけじゃない。間違いなく警察という同じ組織にはいるし、一生サクラとして務めるわけでもない。
「でも、たぶん、諸伏くんは会わないつもりだと思うから」
言葉にすると、尚更寂しかった。
諸伏が天秤に掛けて傾いたほうを選んだのなら、誠実な彼のことだ。捨てたものを再び拾おうとは思わないだろう。それだけの決意を持って選んだのだろう。
それは良いことだ。清々しく降谷との過去を語っていたように、彼にはきっと彼の夢がある。目標がある。私だって、同じはずなのに。
「好きだったんだ、諸伏くんのこと。そうやって言えば良かった」
しゃくりあげるように言葉を紡いだら、伊達の厳つい手も、萩原の長い指先もそっと私の頭に乗った。
人を好きになるなんて、初めてだったのかもしれない。
ずっと知らなかったけれど、こんな風に会うたび、会話するたび、笑顔をみるたび、心をドキドキと高鳴らせるような経験を私は知らなかった。夏乃が言っていたことが、少し理解できた気がする。彼がいる風景が他の何より綺麗に見えたのを。――彼がいなくなった景色が、今までよりも滲んで見えるのを、人は恋と呼ぶのかもしれない。
「良いよ。分かってるフリしなくても、大丈夫。夢を応援するのと、寂しいのは別だから」
萩原が、ゆったりとした落ち着く声で言った。
女ってなんであんなに泣くんだと、昔は思っていた。本当に自分の意思で涙を止めることはできないのだと思い知った。泣くのはやめようと思っても、感情が高ぶると溢れてくるのだ。
「俺たちも寂しいよ。だから、泣いても大丈夫」
私にできることといえば、諸伏が本当に降谷と同じ道を歩めるように願うことだけだった。散々涙を零して、ようやく落ち着いて顔を上げたら、私を囲む三人の目にも薄っすらと涙が滲んでいて、私はそこで今日はじめて力が抜けるような笑みを零した。伊達の涙は、すでに頬を伝っていた。
――あの日から繰り返して見る夢は、妹ではなく冷たい諸伏の体を抱いていた。濡れた体と爪先、怖くはないだろうか、寂しくはないだろうか、寒くはないだろうか。真っ向から拒絶されたようなものなのに、諸伏のことばかり心配なのは妙な気分だ。
私は非番上がりに、集まりが恒例になっていた居酒屋へ向かう。道行く帰り道の学生も、駅の端でキスを交わすカップルも、飲み屋から聞こえる喧騒も、なんだか虚しく映る。踏切の音が、やけに大きく頭に響いた。
居酒屋にはすでに、公休だったらしい萩原がいつものように座っていた。松田はネイビーのスーツを着ていて、仕事帰りらしい。やや機嫌が悪そうにメニュー表を眺めている。私も軽く手を振って、松田の隣に腰を下ろす。
萩原は、特段何もなかったように声を掛けてくるけれど、気を遣っているのだと思う。その長い指先が、時折机の上をとんとんと叩くのが、彼の焦りのようにも見えた。
暫くすると、伊達がいつもより真剣な顔をして「よお」と顔を出した。それはそうだ。急に同じ所属からいなくなって、一番驚いたのは伊達だろう。彼が腰を下ろすと、最初に口を開いたのは松田だった。
「……本当に、警察、やめたのか」
悔しそうな、今にも怒り出しそうな沸々とした声色。常に気だるそうな彼にとっては珍しく、感情がそのまま声に乗って表れていた。伊達は注文を聞きにきた店員に、「生四つ」と軽く告げてから松田に向き直る。
「俺にも分からん。あのメールの翌日から、署に来なくなったことは確かだが……」
伊達は少し考えるように顎に手を置き、そこから先は言葉にしなかった。松田は軽く舌を打って、机の上に肘をつく。それから、私のほうに視線を向けた。
「お前、なんか聞いてねえのかよ」
「私、は……」
続いて沈黙してしまった私の姿に、松田はポケットから煙草を取り出した。萩原が苦笑しながら「ここ禁煙席」と咎めると、しけらせたフィルターを無理やりにケースの中に突っ込んだ。
迷った、彼らと会ったことを言うべきかどうか。彼らのやりとりを筒抜けにして良いものか。だけど、松田も萩原も伊達も、間違いなく諸伏のことを案じている。私だってそうだ。
「あ、のさ……」
少したどたどしく、私は先日の経緯を話した。諸伏と降谷のこと。彼らが交わした会話と、キス――のことは言わなかったが、諸伏と交わした会話。話しているうちに泣きじゃくった思い出がぶり返して、目の奥をツンと熱くした。
諸伏が言ったことを思い出すと、まだ少し声が震えた。自分でも、そこまでショックだったのかと気づいたのはその時だった。
彼らは茶化すことなく、私が話終わると同じ頃に運ばれてきたジョッキを囲んで、暫く黙っていた。全員が黙った席を、店員が少し不可解な表情で眺めていく。ビールの泡が半分ほど消えたころに、伊達が言った。
「――……正義の味方、か」
ぽつりと、伊達が呟いた。そして三人は真っ直ぐに視線を合わせると、一つ小さく頷く。私には彼らの予想のつきようが何か分からず、その真剣な顔をぐるりと見回すだけだった。
「諸伏の行方が分かったわけじゃないが……降谷のほうは――」
「警察官をやめたわけじゃないみたいだね。その言い方だと、それで諸伏ちゃんは何となくそれを察してたんだ」
「交友関係を断って、警察官を続けるような場所。んでもって、成績優秀な奴がスカウトされそうな場所だ」
次々と討論のようなしゃべりだす彼らを、私は視線だけで追った。伊達が、声を潜めて言う。喧騒に溶けるような、囁くような声色で。しかし私の耳にはそれらをすり抜けて、大きく響いて聞こえた。
「サクラだ」
サクラ――警察庁警備局公安課。聞いたことはあった。同期たちの間でささやかれていたものの、殆ど都市伝説のように聞き流していたので、あまり意識したことはなかったが。秘密警察というイメージはあるけれど、詳しいことはよく知らない。降谷が――サクラ?
「コードネームは常に変わっているから、今そう呼ばれているか定かじゃないがな」
なら、彼が姿を消したのはそういうことなのか。そう理解した途端に、涙がぐっと込み上げてきた。降谷は言っていた。「捨てられないものがある」と、諸伏に言っていた。もしかして、サクラに入るに当たって――ということなのだろうか。
だとしたら、あの時私を捨てられないと言ったのならば。
私が彼の邪魔をしているということも衝撃だったが、それ以上に、諸伏は私を捨てたのだと分かってしまったからだ。「捨てられないもの」を、彼が捨てたのだと思ったからだ。――感情が混乱した。私がそれほど大切に思われていたということに対する喜び、彼が決意をしたことに対する僅かな感動、そして、もう戻ってこないのではないかという悲しみ。――好きな人が遠くに行ってしまったという、寂しさ。ぽろっと一粒涙がテーブルに落ちたのを、他人事のように見守っていた。
「泣いてんのか、お前」
松田が驚いたようにこちらを向いた。その言葉に、伊達と萩原がばっとこちらを振り向く。慌ててそのテーブルに落ちた水滴を誤魔化すように手拭きで拭った。松田が珍しく、その掌を優しく背中に乗せた。諸伏とは違う、私より余程暖かな手だった。
「一生会えないわけじゃねえ。泣くな」
「……うん、わかってる、けど」
いつもはヤンチャな声色をしているのが妙に穏やかで、それが尚更に私の涙腺を緩くする。確かに一生会えないわけじゃない。間違いなく警察という同じ組織にはいるし、一生サクラとして務めるわけでもない。
「でも、たぶん、諸伏くんは会わないつもりだと思うから」
言葉にすると、尚更寂しかった。
諸伏が天秤に掛けて傾いたほうを選んだのなら、誠実な彼のことだ。捨てたものを再び拾おうとは思わないだろう。それだけの決意を持って選んだのだろう。
それは良いことだ。清々しく降谷との過去を語っていたように、彼にはきっと彼の夢がある。目標がある。私だって、同じはずなのに。
「好きだったんだ、諸伏くんのこと。そうやって言えば良かった」
しゃくりあげるように言葉を紡いだら、伊達の厳つい手も、萩原の長い指先もそっと私の頭に乗った。
人を好きになるなんて、初めてだったのかもしれない。
ずっと知らなかったけれど、こんな風に会うたび、会話するたび、笑顔をみるたび、心をドキドキと高鳴らせるような経験を私は知らなかった。夏乃が言っていたことが、少し理解できた気がする。彼がいる風景が他の何より綺麗に見えたのを。――彼がいなくなった景色が、今までよりも滲んで見えるのを、人は恋と呼ぶのかもしれない。
「良いよ。分かってるフリしなくても、大丈夫。夢を応援するのと、寂しいのは別だから」
萩原が、ゆったりとした落ち着く声で言った。
女ってなんであんなに泣くんだと、昔は思っていた。本当に自分の意思で涙を止めることはできないのだと思い知った。泣くのはやめようと思っても、感情が高ぶると溢れてくるのだ。
「俺たちも寂しいよ。だから、泣いても大丈夫」
私にできることといえば、諸伏が本当に降谷と同じ道を歩めるように願うことだけだった。散々涙を零して、ようやく落ち着いて顔を上げたら、私を囲む三人の目にも薄っすらと涙が滲んでいて、私はそこで今日はじめて力が抜けるような笑みを零した。伊達の涙は、すでに頬を伝っていた。