学校編
名前の設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「そこまで!五分休憩!」
響き渡る声に、そろって頭を下げると、頭を覆う面をすっぽりと外した。面の中は蒸れて、顔中に汗がにじんでいる。タオルで首回りや顔を拭っていると、興奮を隠しきれないような声色で隣の生徒が話しかけてきた。
「ねえ、高槻さん、かっこいいね……!」
「え、そうかな」
「そうだよ~、ね!」
彼女が周りに同意を求めると、いそいそと彼女たちはこちらに膝を寄せた。
「うんうん。格闘技とかやってたの!?」
「教官も感心してたよ、いつから習ってるの?」
などなど、エトセトラ。彼女たちが徐々に声を大きくしてかしましく騒ぐので、教官の喝が飛ぶ。蜘蛛の子を散らすようにパっと離れていく彼女らだが、その視線は未だにチラチラとこちらを見遣っていた。
入校して少し経ち、授業に術科特別訓練が組み込まれるようになったのは、最近のことだ。
もとより、体を動かすのは座学よりよっぽど好きだ。特に、前世は喧嘩に明け暮れて、柔道や空手なら多少齧ったこともあった。警察を目指すと決めていたので、幼少期から筋トレは欠かさなかったが、周りからの評価は期待以上だ。――特に、今日の科目――逮捕術に関しては殊更だった。最初は剣道のパチモンかと思っていたが、これが案外しっくりとくる。
女子たちからのキャアキャアとした黄色い声も、私のやる気を増幅させた。術科は男女別の教官に教わることもあって、油断していたのもある。
気分は若手アイドルで、その声に「どうも」とでも言いたげに応えていると、反対側から大声で名前が呼ばれる。鬼塚だ。
「お前、ちょっとこっちこい!」
げ、私は思い切り口角を引き攣らせたが、ここ数週間の教訓で、つい返事を返したのだ。
◇
「そりゃズルいよ~……」
教室の隅で項垂れていると、恰幅の良い男が大きな声で笑いながら軽く背を叩いた。大柄で熊のような男は、伊達と言う。先ほどの逮捕術で、鬼塚教官の一言により無理やり組み手をされた男だ。武道経験があるらしい伊達は、経験をとっても力をとっても、私より強いことなど明らかなのに。なんて非道な教官だ。
「気にするな、初めてなんだって? 大したもんだよ」
「伊達先輩……」
「いや、先輩じゃねえから」
そう言いながら、彼はハハハと声を上げて笑ってくれる。
刑事と書いてデカと読む――それを体現したような体つきと性格は、少しだけゴロツキの兄貴分を思い出して、出会ったばかりだが人見知りはなかった。ふと廊下を歩いていく教官の姿が見えて、二人してピンっと背筋を伸ばす。
そのまま教官が通り過ぎるまで、何故だか呼吸まで止めていて、通り過ぎたあと二人で脱力して笑った。
「伊達班長」
――そう、声を掛けてきたのは松田だった。
班長ということは、彼は伊達の班員らしい。私のことを一瞥すると、彼は軽く手を挙げた。松田がこちらを見たのはその一瞥だけで、すぐに伊達に向かって話を続けた。
「萩、知らねえ? 術科のあと見当たらねー」
「萩原が? さあ、教室では見てない気がするが」
「ふーん……」
松田はぐるっと教室を見回すと、その癖毛を乱すように後頭部を掻く。大きく欠伸を零すと、どっかりと私の隣の席に座った。お前の席そこじゃねーだろ。私の隣にはルームメイトのクールビューティが座るので、邪魔をしないでほしい。
「ま、どっかの女のとこだろ」
「え。彼女!?」
つい、声を荒げてしまった。
こんな過酷な環境下で彼女を作ろうという心の余裕があること――それに対する驚きが半分。たった数週間で彼女ができるほどのスペックへの、嫉妬に半分。私の大声に、ごつっと伊達から拳骨が落とされる。
「お前、ほんっとに学ばないな……」
「ごめんって……、え、ねえ、本当に彼女なの?」
私が身を乗り出して聞くと、松田はしれっとした声で「いーや?」と答えた。何勝手に想像してるんだ?とでも言いたげな、ツンとした表情が癪に障る。
「何でそんな気になんだよ。好きなのか」
――好きなのか、一瞬何に対しての言葉なのか分からず、キョトンと目を丸くしてしまった。すぐに、それが萩原という男への問いかけだと気づき、ため息交じりに首を横に振った。
「その返事やめろ、腹立つ」
「呆れるようなこと言うからじゃん。大体、会ったことないし」
誰、と頭を掻きながら尋ねる。
松田はといえば、私の鏡になったように生意気そうな目つきを丸くさせた。それから、私の顔を――視線が、足元へと下がっていく。下心こそないのは分かったが、視線の意味が分からず、私は腕で胸を庇うように隠す。
「見てねえよ」
べしっと、額から鼻面あたりを軽くはたかれた。見た目や身長よりも、大き目な掌だ。
「見ただろ、ジロジロって」
「萩に興味ないのが意外ってだけ。男好きそうだったから」
「……あ、そ」
くだらないと思って、ふうと息をつくと、松田は案外純粋に「悪い」と謝ってきた。よく考えれば警察官を目指している若者なわけで、恐らく根は悪い奴じゃないのだと思う。別にというと、彼も興味なさそうに――しかし、興味がないわけではないらしい。そういう男なのだ。抑揚のない声が「ああ」とだけ相槌を打った。
◇
学校の中では携帯の使用が禁止されている。
回収された携帯は、休日にならないと手元には帰ってこなかった。家族ともそれほど密に連絡を取る方ではなく、別に苦というほどではなかったが、少しの隙間時間を持て余してしまう。テキストをぼんやりと眺めてみるが、頭に入ってこなかった。
ゲコ、とどこかで蛙が鳴いた。こんな都会でも、鳴き声はするものだと思った。何気なく窓を開けると空気が冷たくて、私は気まぐれに寮の周りをうろついていた。こういうところを懲りないと言われるのだろうが、まあ――なんとかなるだろう。
明日の授業のことを考えながら、暫くうろうろとしていると、ふと茂みが揺れた気がした。
ガサ、と葉が擦れる音。気のせいでなければ、その垣根本体も僅かに揺れたような。女子寮が近くにあったので、不信感があった。まさかね、そう思いながら、近くにあった枝を警棒代わりに構え、今日の逮捕術を思い出す。
相手が獲物を持っていたら手首――いや、枝は細いから、目や顎を狙った方が良いかもしれない。仰け反っているうちに、手首に一撃。これで行こう。
すっとすり足で茂みへと近づく。相手が気づいていないのなら、いっそこのまま一撃叩き込んでおくのも――。
「うわっ、コラコラ、やめろって!!」
間の抜けた声だったが、その声は大きく響いた。私は思わず枝を落とす。しまった、と思ったが、茂みから抜け出た上半身が制服であったので、枝をそのままに立ち尽くす。首を傾けていると、ごろっと大きな体躯が足元に飛び出した。
「ほら、よしよーし、暴れんなよぉ」
「……ねこ」
揃いの制服の腹が、大きく膨れている。彼が必死に抑え込む中からは、「ふにゃっ」と聞き覚えのある鳴き声――それから、縞模様の尾っぽが覗いていた。私はそれに、ぽつりと声を漏らす。
長い前髪から、覚えのある顔つきがこちらを見上げた。まだバタバタと暴れる腹の中に、私はついフっと笑いを零してから、「待ってて」と寮へ走った。
寮からバスタオルを持ってくると、必死に服の中で抑え込む小さな影を、それで包み込む。暫く暴れていたトラ猫は、目の前を隠すように包むと、時折苛立たしそうに尾を振るだけだった。
目の前の男は、垣根の近くに座り込み、長く息をつく。まるで一仕事終えたような仕草に、やはり少し笑いが零れた。
「ありがとう。助かった」
「良いよ、通りかかっただけだし」
「こいつ、足怪我してんの。痛がってるくせに全然こっち来てくれなくってさ」
視線を落とすと、バスタオルにじわりと血が滲むのが分かった。彼の制服は引っ掻かれた跡でほつれていて、恐らくその腹にも生傷がついているのではと予想できた。
「さ、教官のとこ連れてくかあ」
「え。でも、この時間は外出禁止……」
「そりゃ俺は怒られるけど。教官だって正義漢さ、猫は見捨てないだろ」
授業サボっちゃったし、クビかなあ。そう苦笑いする優男に、何やら心がもやもやとした。まあ、私も一応外に出ているわけだ。彼だけが叱責を受けるのは、違う気がする。
「……私も行く」
「へ!? なんでそうなるわけ」
「……なんか……。なんか、分からないけど」
格好の良い台詞が見つからず、尻込みした言葉に、彼はハハっと声を上げて笑った。――その名前を知るのは、少し先の話だ。